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『ユゴス、そしてエウロパの海へ 』
海原・みその1388


「悪いね、みその。最近おまえに大変な仕事を頼んでばかりで」
「いいえ、構いませんわ。お父様からいただくお仕事は、お土産話になる面白いものばかりですもの。わたくし、最近は、お父様からお使いのお話がくるのを楽しみにしておりますのよ」

 見上げれば、星空がある。
 それは、黒い海だ。みそのの瞳にうつる星の光は、水面にうつる星の光そのものだった。海原みそのが抱えているのは、段ボールひと箱に詰めこまれたカップ麺、美味しい東京名物、東京タワーのペナントだ。
 彼女が父に頼み事されるのは、ここのところ珍しいことではなくなっていた。
 だが、太陽系の端まで行けという頼みは初めてだ。みそのが行くのは地球のどこかの海か、海の底か、海の上に浮かぶ島か、それくらいのものだった。
『みそのなら、泳げるだろう。おまえの中に、深淵と宇宙の違いはないはずだから』
 そう、流れがあるのなら――。
 見えはしていない目を閉じて、みそのは流れを操った。さすがに、地球を飛び出すということは、せせらぎの流れを堰き止める程度の力では成し得ない。気を高める彼女の白い足が黒い尾びれになり、耳にあたる部位からは、艶やかな黒髪をかき分けて、一対のひれが生えてきた。
 みそのは目を閉じ、地球土産を大事に抱えたまま、強く尾びれで地を蹴った。
 黒い人魚が大気を突き破り、斥力と太陽風を捕まえるまで、彼女の父は望遠鏡で見守っていた。

 夢の中でならば、それこそ数えきれないほど何度も宇宙を泳いだことがある。
 だがひょっとすると、実際に泳ぐのは初めてかもしれない。
 それとも、二度目か、三度目か。
 みそのは夢と現の区別をつけるのが少し苦手になってしまっていた。
 笛の音に乗って踊りながらみそののそばを通り過ぎていった一団は、現実のものだっただろうか?
 では、月の裏側で蠢く、ぶよぶよとしたサディストたちは?
 では、彗星に乗って周囲を焼き尽くす生ける炎は?
 髪にしがみついて、数百の目をきょときょとと動かす宇宙の神の幼生に、みそのはそっと微笑みかけた。幼生はみそのが持っているものに興味を示したが、「これはあちらの方々へのお土産ですから」と目的地の方角を指すと、幼生は素直に諦めた。
 その愛らしく禍々しいお辞儀と挨拶すらも、現実のものではないというのか?
 ひときわ強い太陽の風が、みそのをどうと押し流した。地球そのものを御すことも出来るみそのだが、太陽を手なづけるのはいささか重労働だ。流されるがままに、みそのは漆黒の海を泳いだ。


 ――それにしても、こんな処にまでお知り合いがいらっしゃるなんて、さすがはお父様。
 口を開いても言葉は音にならない。
 みそのは冷たく凍りついた冥王星を望み、そっと微笑んだ。この星に住むものたちは、地球の物質から栄養を摂取することが出来ないという。ならばこのカップ麺はどうするつもりだろう。
 みそのの父によれば、向こうが提示してきた交換条件だというのだ。カップ麺ひと箱ぶんと、先人文明の遺産を交換するらしい。みそのにはよくわからない話だった。ただ、カップ麺は嫌いではなかった。

 まったく太陽の光が届いていない惑星と言ってもいい。太陽の明るさは、まるでシリウス3個分だ。凍りついた黒い大地から、窓のない建物や、塔が生えているようだった。凍った地面に降り立ったみそのを、ミ=ゴたちがもの珍しそうに取り囲んだ。彼らは地球人から見ればグロテスクで異様な風貌に違い、けして邪悪なものではない。ただ、地球人の多くが知らない、そして多くにとって邪悪である神を崇拝しているいち種族に過ぎないのだ。
 微笑みながら日本語で挨拶をし、ぺこりと頭を下げたみそのを囲んで、菌類たちはぶんぶんと唸りじみた声で密談を交わした。
(みっつめの星に住む生物だ。あの星の中で唯一ことばを持っていると聞く)
(ここに来るほどまでに発展していただろうか)
(待て、8番街の元締めならば確かあの星に言ったはずだぞ)
(呼んでこよう。言葉がわからん)
「ご心配なく。皆様の言葉は、さる御方からお聞きしましたわ」
(これはこれは)
 みそのの『言葉』に、歩く菌であるミ=ゴのひとりが恐縮した。
(イア、シュブ=ニグラス! 女神がもたらした出会いに賞賛あれ)
(イア、シュブ=ニグラス!)
(イア、ガタノソア!)
 ぶうん、と3体ほどのミ=ゴが祈りながら飛び去った。

 程なくして、白い毛に覆われた堂々たるミ=ゴが現れた。みそのの父の知り合いとは、彼であるらしい。みそのが抱えた段ボール箱を見ると、かれは大きく頷いた。そして奇妙に震える声ながらも、かれは日本語を話した。
「え遠路ははるばるごご苦労様ででした。おお約束のし品はここちらです。こ壊れやすいもものでですのでおお気をつけておお持ちか帰りく下さい」
「どうも有り難うございます。今度は、お仕事ではなく観光に参りますわ。そうですね、妹も連れてこられたらよいのですが」
「ち地球まではは半日かかかりまましょう。おおお休みにななっていいかれてはは?」
「どうも、ご親切に。……けれどわたくし、これからエウロパに参りますの」
「エウロパ!」
(エウロパ!)
 もうひとつの目的地である木星の衛星の名を出すと、菌類たちは色めきだった。
「さ最近か神のひ一柱がす住みつ着いたははずです」
「恐ろしい御方ですか?」
「て天気屋ささんです」
「まあ」
「おお土産がああればごご機嫌もよよくなりますががね」
「それなら、ご心配なく。東京のお土産がありますので」
「そそれはよよかった。おお気をつけけて」
(イア、シュブ=ニグラス! 旅立つものに祝福あれ)
(旅立つものを見守りたまえ)
 みそのは地球にはない物質で出来た鈍色の球を受け取り、再び流れを駆った。
 凍りついた地を尾びれが蹴り上げた。風はもう利用できないが、みそのの泳ぎにはさほどの支障もなかった。
 ミ=ゴたちは、黒い人魚が見えなくなるまでその姿を見つめていた。


 エウロパもまた、凍りついていた。
 天気屋の神というのは、エウロパの海を埋め尽くすほどの巨体を持っていた。かれはことばを持っておらず、ただ色と音だけで意思と感情を表す存在であった。そして、永遠の眠りについてもいた。
 みそのは神のそばに行くと、その夢の中に潜りこんだ。
 はじめのうちはみそののことをちっぽけな存在だと小馬鹿にしたが、みそのが父の名をあげると、神はびしゅると驚き、ぎゅるりと反省した。
「こちらは、東京のお土産です。美味しいんですよ。それとこの『ぺなんと』ですが、最近はとてもめずらしいものなのです」
 ひひゅうと神は相槌を打った。
「お父様が、今後ともよろしくと」
 ぷひゅう、と神は苦笑した。
 みそのは夢から抜け出すと、のたうつエウロパの海をあとにした。神はこれからしばらくここに居座るだろう。人間が、今までエウロパの海だと思っていたものが、覚めない眠りにつく神の触手だったと気がつくまでは、きっと動かない。


 地球はひどく温かく、みそのを出迎えた。ざぶんと漆黒の海に飛び込んで、ああ、とみそのは溜息をつく。
 小惑星帯の移動には少し手間取ったが、快適な旅だった。これも、親切な宇宙の意思のおかげだ。
「イア――」
 思わず神の名前を続けようとして、みそのはくすくすと笑いながら口元を押さえた。
 今夜は、冥王星のミ=ゴたちの話を御伽噺にしようか。
 それとも、エウロパの海のことか。
 迷ってしまうほどたくさんの土産話は、父がくれたにも等しい。
 今度会ったときには、まずお礼をしなくてはと――
 みそのは笑いながら、星がきらめく深淵へと帰るのだった。




<了>

PCシチュエーションノベル(シングル) -
モロクっち クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年03月15日

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