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『水魚の交わり 』
海原・みその1388


「みそのにしか、頼めないんだ。行ってくれるかい?」
「お父様のお願いです――喜んでお手伝いさせていただきますわ」

 とは言うものの、自分には過ぎた役目だと、みそのは思っていた。演技はさほど上手いわけではないし、嘘をつくのも得意とは言えない。馬鹿がつくほどの正直なのだ。
 海原みそのが久し振りに父親から頼まれた仕事は、狡猾さと演技力が必要なものであった。だがみそのの父は、みそのが正直で、嘘が苦手だからこそ務まる仕事なのだと言っていた。
 みそのは、それを信じた。それに、父親からの頼みは断れない。

 彼女は身支度をすませると、太平洋を望む某国のある岸壁に向かった。現地には案内役がいて、みそのが迷うことはなかった。
 だが逆に言えば、案内役がいなければみそのは迷っていただろう。
 カンテラを手にした案内役は、岸壁に開いた小さな隙間をくぐり抜け、気まぐれな建築家が造った迷路のような洞窟を行く。アリアドネの糸を辿る勇者の如く、ただの一度も道を違ったり、思案にくれたりすることはなかった。みそのの心配は、目下新調した巫女装束が綻びはしないかといったことだった。
 15分ほど進んだところで、みそのは見えない目をふと中空に向けた。
 案内役も足を止める。
「如何なされました」
「……海の声が……」
 みそのはふわりと笑みを大きくし、案内役もにたりと笑った。
「さすがは、深淵の巫女様ですだ。ここいらには、海神様の息吹が満ちておりまする。わしらは海神様のこの寝息を聞くために生まれ、育ってきましただよ」
「ですが、今夜のお祭りでは――」
「ひひひ、寝息は止むというわけで」
 陰鬱な笑い声を響かせて、案内役は再び歩き出す。
 神の息吹とやらは、みそのの耳に届いていたし、強大な流れとなってみそのに押し寄せてきていた。
 おぅ、おぅ、おぅ――
 うなされているかのような寝息だ。
 みそのがよく知る神のものではなかった。だが、親近感を感じねのは無理もないことだった。眠り続ける神と、うなされる神。彼女はよく知っている。
 みそのはそれ以上は何も言わずに、微笑を浮かべて歩き出した。


 海鳴り――いや、神の息吹が一層大きくなった。
 天井が高くなり、ごつごつとした歩きにくい岩はすべて撤去された、広間のような処に出たのだ。案内もここまでだった。
 老若男女の隔たりはない。多くの人間が黙々と準備を整えている。怪しげな祭壇が設けられ、海獣の脂を燃した灯かりが、ぼんやりと大空洞を照らし出していた。
 歓喜と期待と畏れに満ちた感情もまた、大空洞の中に流れていた。
 ――御方様のような御神が一体如何ほど、この星に眠っておられるのでしょう。
 みそのが大空洞の光景を『見て』いるところに、簡素な祭服を纏った男が歩み寄ってきた。彼は、ここに会した集団の指導者であり、同時に司祭でもあると名乗った。名乗った後で、みそのの前に平伏した。
「あらあら――どうか、お顔をお上げになって下さいませ」
 同じ神を奉っているわけでもないし、神に仕えている身として考えれば、自分は司祭たちに跪かれる道理はないのだ。みそのは苦笑してかぶりを振った。
「何卒、御力をお貸し下され! 星辰は今宵、正しい位置に戻りまするが、御神の眠りを破る『鈴』は、我等の力ではひと鳴きも致しませぬ」
「『呼び鈴』を使う儀式なのですね」
 みそのは祭壇を振り返り、頷いた。
「わかりました。その程度の知識ならば、わたくしにも御座います」
「何卒、何卒!」
 ははあ、と司祭も含めた神官たちが、冷たい石の地面に額をこすりつけた。みそのは相変わらず、苦笑を浮かべたままだった。
 みそのは自分が知っている限りの祭式を司祭たちに伝えた。愛する神から伝えられた、海神の眠りを覚ます『鈴』の音のことを。
 仕事は、それだけで済んだ。
 あとは、見るだけだ。


 儀式と言うべきか、宴と呼ぶべきか。
 その嬌声とよがり声だけでも、神を叩き起こすことが出来るかもしれない。陰鬱な湿った太鼓の音が響き、呪詛じみた祝詞が上げられている。リズミカルな流れに乗って、男女は獣のように交わっていた。上り詰めようとする流れを、みそのは祭壇の上で眺めていた。
 みそのは、13歳の乙女ではなかった。何もかもを知り尽くしかけた人魚だ。目の前で繰り広げられている狂宴は、珍しいことでもなかったし、嫌悪感を抱くほどのことでもなかった。誰かが傷ついているようであれば多少は眉をひそめたくもなるだろうが、ここでは全ての人間が快楽を貪り、来たる神への畏敬を抱いている。
 みそのは咎めるつもりなどなかった。
 どの神をどのように信じても、それは個人の自由だ。
 ――ただ、お父様が。

「イア! カドフラグトン アルグトム! イナ=カシュ! バルムンコ! アイ! アイ! アイ!!」

 炎が燃え上がり、息吹が一瞬途切れた。
 『鈴』が凄まじい音を立てた。
 吼えたてるものが、空間を引き裂いて現れた。濁った目と大きく裂けたあぎとを持つ、巨大な魚人のような存在だった。身の丈は優に5メートルを越えていた。神に近い存在は、窮屈そうに身を屈め、涎を垂らしながら咆哮した。流れが引き裂かれ、高みへと導かれた。
「アー! アー! アァアー!」
 そのとき目を開けていたものたちは、声の限りに叫び狂った。絶頂を迎えた声なのか、畏怖の悲鳴なのか、それすらも定かではない。人間が網膜に焼きつけてはならないものだった。その深みに住まうものは、人知を越え、神の翼に触れたもの。
 ともかくそれは、彼らの神ではなかった。
 咆哮に応え、次々に眷族が現れる。人類の伝承から忘れられた姿のものも中にはあった。みそのは現れるものたちの中に、己の神の姿を求めた。――見つかりは、しなかった。
「アー! アー! アー! アー! アー! アー!」
 蝦蟇に似たものがその莫迦でかい口を開き、分厚い舌をでろりと出して、儀式の間を舐め取った。数十人の男女が、繋がったままの姿で蝦蟇じみたものの口に消えていった。口の中からは、じゅうぷしゅうびじゅうと音がした。蛋白質が溶ける臭いが漂い、人々は恐慌に陥った。
「アー! アー! アァアー!」
「アアアアアアアアアアアアー!」
 そして、息吹がはっきりとしたものになった。
 みそのはなおも微笑んで、ぐにゃりと歪む石の壁を見つめている。彼女の目は、何も見えていない。目を合わせたところで、彼女の精神が砕けることはなかった。
『ガフ! マルグ! ゴグドガ=ムシュフ! ガフ! ガフ! ガフ!』
「――失礼を致しました」
 海神の寝覚めは悪かったらしい。これまでに見続けていた死にも似た夢が、余程不愉快なものだったようだ。とりあえず、みそのは謝った。
 岩から伸びた手は、地球上の物質でも、この世の物質でもない。鱗に覆われた手が、みそのをすり抜け、儀式と宴に酔いしれていた者たちを掴み取った。血飛沫と断末魔が上がり、白い魂魄が飛び出した。
 海神が大きく息を吸い込んだ。みそのの巫女装束と、切ったことがない黒髪が、狂ったようにはためいた。
 白い魂魄と臓物、骨、肉とは、すべてが海神の口の中に吸い込まれた。
「……いってらっしゃいませ」
 みそのは、ふわりと微笑む。
 海神はまばたきをした。
 眠りから覚めた神は、眷属を引きつれ、どこかの星のどこかの海へと旅立っていった。
 行きつく先は、地球の太平洋かもしれない。木星の凍てつく大赤班の下やもしれぬ。或いは、夢の中のセレナリアか。
 行き先は誰も知らない。みそのが如何して知り得ようか。

 綺麗に片付いた大空洞を見やり、あ、とみそのが声を上げる。
「……帰り道、如何致しましょう」
 明かりが灯ったままのカンテラがひとつ、空洞の中央に落ちていた。




<了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
モロクっち クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年03月04日

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