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『スパイス 』
天樹・昴2093)&矢塚・朱姫(0550)

 朝目覚めると、何故かいつも見ている風景でも何とはなしに違って見える。そんな事は実際にあり得るものなのだな、等と感心しつつ、朱姫は見慣れた自宅の天井を見詰めていた。
 閉めてある窓辺のカーテン、遮光カーテンなので大方の日差しは遮ってしまうのだが、その隙間から漏れる朝日は明らかにまだ早い時間のものだ。シーツの中で身動ぎすると、全身の肌を擦れる布の感触に、妙な気恥ずかしさとくすぐったさを覚えて、思わず下唇を噛んだ。一度目を閉じてから、ゆっくりと開いて睫毛を瞬く。ぽす、と頭を枕に乗せ掛けると、朱姫の自重で沈み込むそれに、彼がその振動に気付いて目覚めやしないかと心配して実を強張らせたが、相手は深い眠りについているようで、ただ安らかな寝息を立てているだけだった。
 案じたのは、眠る昴を起こさないようにとの気遣いもあるが、それ以上に、今のこの状況で彼と視線を合わせたりしたら、どんな顔で何を言っていいか分からなかったから、頼むから目覚めないでくれとの必死の思いからであった。そんな朱姫の願いを天は聞き入れてくれたのかどうか、昴は目覚める気配が無い。有事には人並み外れた注意力と敏感さを発揮する昴が、これだけ深い眠りに付いている事、それは朱姫への絶対的な信頼と愛情の証拠である。それを思うと朱姫の心に、誇らしさと再びの気恥ずかしさが湧き上がるのだった。
 「…何を私は一人で舞い上がっているのだ」
 ふと、さっきから一人で上昇と下降を繰り返している己に気付き、照れ隠しから朱姫は小声で呟いた。シーツに包まったまま腕を伸ばして、ベッド下に落ちていた衣服を拾った。手にしたのは朱姫のパジャマ…かと思いきや、昴の綿シャツであった。しまったと思うも、また拾い直すのも面倒臭く、朱姫はそれをシーツの中に引き込むと中でそれを羽織ってからベッドから抜け出す。長身の昴の、男物のシャツなので朱姫には少々大きめだ。それでも当然、露になってしまう己の素足が、誰も見ていないのに恥ずかしくて、朱姫は慌てて寝室を後にした。出て行く直前、寝ている昴の頬に触れるだけのキスを残していったのだが、ただでさえ恥ずかしがっていたのにそれで更に羞恥が増し、朱姫はそれこそ脱兎の勢いで部屋を出て行ったのだった。


 お湯が弾けて聞こえる水音は、高い位置から吹き出したシャワーのお湯が足元のタイルにぶつかって聞こえる音だ。朱姫の肌で弾ける水滴は、勢いよく跳ね返るものの、余分な音を立てることはなく、寧ろその柔らかさに吸収されていくような気さえする。濡れた黒髪が首筋の肌へとまとわりつくのを、朱姫は鬱陶しそうに指先で解く。昨夜も、濡れた肌に同じように黒髪がまとわりついたが、それは昴が優しく解いてくれたのを思い出し、朱姫の頬がお湯の所為でなく、一気にのぼせて赤く染まった。
 『わ、わ、わ、わ、!…わ、私は何を考えているんだ……』
 シャワーを頭から浴びながら、朱姫がこつんと正面の壁に額をぶつける。そのままの姿勢で、熱い湯が後頭部から長い黒髪を伝って足元のタイルへと滴っていくのを、朱姫は暫く眺めていた。
 先程、昴のシャツを一枚羽織っただけの朱姫は、裸足にフローリングの冷たさを感じながらキッチンへと向かい、そこで珈琲の豆を挽いてきた。喫茶店店長の昴の影響だろうか、それとも一度その味を知ってしまってからは紛い物では耐えられないのだろうか。ともかく、最近は、珈琲一杯淹れる時も、ちゃんと豆から挽いて飲んでいるのだ。この後自分ひとりなら、やかんからお湯を注いでドリップするが、今朝は一人ではない。だからコーヒーメーカーに挽いた粉をセットしたのだが、その事実自体にまたも照れて、朱姫は今度はバスルームで、一人で赤くなったり焦ったりの百面相だ。そんな愉快な状況よりも、ベッドでシーツに包まっていた己の姿の方が数倍恥ずかしく、昴に目撃されなかった事を心底ほっと安堵の吐息を漏らして、シャワーの栓を締めた。
 浴室からさっきみたいに腕を伸ばしてバスタオルを取る。身体の雫を拭き取ってそれを巻きつけ、もう一枚タオルを取って濡れた髪を拭いた。粗方の雫を拭き終えた朱姫が、そのままの姿で浴室から脱衣所へと移動する。開けた扉から、朱姫よりも先に暖かそうな湯気が沸き立つ。その湯気の中央を割って朱姫が姿を現したのだが、そんな朱姫の、髪を拭く手の動きがぴたりと止まる。見開かれた金色の瞳に映っていたのは、寝ぼけ眼のまま、家主がどこに居るのか等と深い事は考えず、顔を洗いに洗面所へとやってきた昴その人だった。
 「…………」
 「………あ」(←あけひさん、と言い掛けたらしい)
 ここでキャー!だのイヤーン!だのと甘ったるい悲鳴を上げるのは、朱姫の性にあわない。だが、バスタオル一枚の己の姿が、昴の黒い瞳に映っている事実は、彼女の羞恥心には耐え難い。で、朱姫が如何したのかと言うと…。
 「ちょ、ちょっと朱姫さん!落ち着いてくださいー!」
 「これが落ち着いていられるか!」
 今度は風呂上がりの所為でなく頬を紅潮させた朱姫が、その辺にあったものを手当たり次第に昴に投げ付ける。すっ飛んでくるブラシや歯磨き粉を両腕で避けながら、昴は必死で朱姫を宥めようとした。
 「だっ、だから落ち着いて…そんなに手当たり次第に物を投げたら、ガラス、割っちゃいま…」
 「だから、昴がここから出て行けばいいだけの話だ!」
 きっと朱姫自身も訳が分からなくなっていたのだろう。頬の紅潮は耳元まで蔓延して、それこそ頭の血管が二、三本切れそな勢いのテンションだ。あらゆる危険性を感じて昴は慌てて脱衣所を出て行こうとする。ふと、出入り口の所で立ち止まり、何かを考えるような表情で宙を見詰めた。
 「昴っ、考えている暇があったら…」
 「と言うか朱姫さん」
 振り向くとまた何かが飛んできそうだったので、視線だけで昴は振り返る。
 「今のこの状況でその調子だと、昨夜僕が見たものの方が、もっと問題なような気がするんだけど…」
 「………え?」
 暫しの沈黙。やがてその意を解した朱姫は、耳朶まで真っ赤になる。胸元に巻いたバスタオルを片手で掴んで押さえた朱姫、己のその扇情的な格好も忘れたか、昴の背中に見事な蹴りをクリティカルヒットさせ、無理矢理に脱衣所から追い出したのだった。


 「………」
 「いい匂い。朱姫さん、珈琲の挽き方、上手になりましたね」
 ちゃんと着替えて(今度はちゃんと自分の服だ)バスルームからキッチンへと戻った朱姫だが、素直の昴の顔を見る事が出来ない。緊張する必要など無いんだ…と己に言い聞かせつつ、朱姫は妙に畏まった顔で冷蔵庫を開けた。
 「…。朱姫さん、何を?」
 「何を、って。朝食の支度をしようと思って」
 「…………朝食?」
 昴の片頬が僅かに引き攣ったが、朱姫は気付かない。
 「支度をと言っても大したものはないのだが…トーストとベークドエッグ、それと珈琲でいいだろうか?」
 「いや、そんな勿論…じゃなくて、えーと…朱姫さんが作るのかい?」
 「そうだが?」
 それが何か?と言わんばかりの目で昴を見詰める。口篭る昴のその訳は、朱姫も自覚があるので、にこりと口端を持ち上げて勇ましく笑った。
 「大丈夫、そんな手の込んだ事はしないから。トーストはトースターにパンを入れるだけだし、ベークドエッグは卵を焼くだけだろう?それなら私にも出来る」
 筈だ、との付け足しは、口の中だけで呟いたが。
 確かに、どっちも焼くだけだ。トーストに至っては、スイッチポンで全て完了。…なのに、朱姫がそれをやると、トーストも卵も得体の知れない物体に変わってしまうのだ。その変貌振りは、いっそ天晴れで清々しい程だが、それを食さなければならないこちらの身としては呑気に構えている事は出来ない。
 「あ、朱姫さん」
 「うん?」
 朱姫が卵を片手に振り返ると、湿ったままの長い髪先から既に水になった雫が飛んだ。その髪の一房を片手で掬い上げ、軽く握り締めるとじわり
染み出た水分が昴の手の平を冷やした。
 「髪、まだ濡れてますよ。風邪引いちゃ駄目だから、乾かしておいで」
 「え、でも……」
 「もしも朱姫さんが風邪を引いたら」
 「…引いたら?」
 「口移しで薬を飲ませて差し上げますが?」
 にっこり。いつもの笑顔でそんな言葉をさらりと告げられ、折角引いた頬の赤味が、また一気に復活した。朱姫は手にしていた卵を昴の手の平にぽて。と置くと、再び脱兎の勢いでバスルームへと逆戻りした。
 そんな後ろ姿と後を追うように付いて行く黒髪の毛先を見送って口許で笑いながら、昴はさっき朱姫から受け取った卵をパンッ、とシンクの角にぶつけた。

 紙を乾かした朱姫がバスルームからキッチンへと戻る途中、廊下には香ばしいいい香りが漂っていた。歩調を早めてキッチンの出入り口から顔を覗かせると、既に朝食の用意は完璧に整えられていた。
 ダイニングテーブルには、向かい合わせで、ベークドエッグとトーストの皿、そして珈琲のカップ。バターやジャム、ハチミツの瓶もちゃんと中央に寄せられ、その傍らに笑顔の昴が立っていた。
 卵もトーストも、焼いただけの筈。なのに、どうしてこんなに美味しくなるんだろう、と朱姫は不思議でしょうがない。そう素直に昂に言うと、昴は小さく声に出して笑う。

 それはね、愛情のスパイスが効いてるからですよ。

 とは、さすがの昴も声に出しては言えなかったが。






 『…私も愛情のスパイスは充分効かせてあるのだがな……』(朱姫心の呟き)
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碧川桜 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年03月01日

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