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『願わくば心安らかにならん事を。 』
蓮巳・零樹2577

 梅雨でもないのに降り続く雨。雨は、天が、地上で悲しみにくれる誰かを嘆いて流す涙だと言う人もいたけれど。

 「それだったら、二十四時間一年中雨じゃないと、涙の量としては釣り合わないんじゃないかなぁ」
 静かな店内にその声だけが響く。音として聞こえるのは、確かに人一人分の声のみ。
 だが、その声に応えて、何かがくすりと紙が擦れるような微かな笑い声を漏らした。
  そう言ってしまったら救いも何も無いではないか。
 「いいんだよ。そんなの、僕の知った事じゃない」
 くすくすと零樹が漏らす笑い声に、苦笑いを返す気配がした。

 この時期に長雨が続くのは、それだけ暖かな証拠なのかもしれないが、一週間以上も続くとなると、いっそ寒くても雪降りの方がいいような気がする。大雪で交通網が麻痺しても、零樹にはさっぱり関係ないし、屋根の雪降ろしで苦労する事もないのだから。それならいっそ、何もかも覆いつくして汚れも醜さも誤魔化してしまう雪の方が、見ている分には風情があると言うものだ。
 「大体、人形の為に多少の湿気は必要だからってもね、限度ってもんがあるんだよ。あんまり湿っぽいと黴が生えてきそうだし。それに、…」
 ふと、零樹は人形の髪を梳る手を休めて、窓の外を見た。雨は相変わらず、朝から一定の強さで降り続いている。手に持っていた柘植の櫛を見ると、そこに数本の黒髪が絡まっていた。飴色の櫛の歯に絡まったそれは、人形の頭部から離れた途端、妙な生々しさを感じさせた。それを指先で摘まんで抜き取り、零樹は近くにあった屑篭に放り捨てる。手から離れればそれはただの塵と同じ、ゆっくりとした速度で、屑篭の底へと降りていく。
 確かに、これだけ雨の日が続けば、例えぴっちり締め切った部屋の中でも、それなりに湿気を含んでくると言うものだ。だが、今の店内の重苦しさはそれだけではない。空気中に含んだ水分以上に、何かもっと重いものを孕んでいるような気がする。
 こんな夜は何かあるな。零樹は、頭の中でそう呟くと、それに同意する、無数の視線を感じてしまい、思わず溜息を零した。

 ことん。

 何かの物音に、零樹は視線だけをそちらに向ける。それは、玄関の方から確かに聞こえた。こんな湿っぽい中で、妙に乾いた軽い音。残念ながら入り口の引き戸は、細かい縦の格子柄のうえ、ガラスも濃い擦りガラスだから向こうの様子は様として知れない。だがそれでも零樹には、引き戸の向こう、雨がそぼ降る屋外に誰かが居る事を感じた。
 何か、ではなく、誰か、である。
 零樹は立ち上がり、音も立てずに玄関へと赴く。そこに誰かが居るのだろうと想いつつも、零樹は躊躇いもせずにカラカラと軽い音を立てて引き戸を引いた。彼が予想したとおり、そこには誰もいない。ただ、降り続く雨音が大きくなっただけだ。その事には別段驚きもせずに、零樹は視線を己の足元へと移す。するとそこには、ひとつの這い子人形が、その白い肌を雨に濡らしていたのだった。
 零樹は屈み込んでそれを両手で拾い上げる。顔の高さまで持ち上げて検分すると、その這い子人形に別段おかしな所がある訳では無い事が分かった。傷一つ無い滑らかな人形の肌は雨粒の侵入を許さず、全て綺麗な曲線を描いて下へと落ち、今は零樹の手の平を濡らしている。両手を突いて上体を反らし気味にし、その視線は恐らく、己の前に立つ親を見詰めているのだろう、その這い子人形の眼差しは、今は零樹の頭の向こうへと遠くに投げ掛けられている。そこに誰かが居る訳はない。零樹の背後は、無数の人形達が存在するだけだ。この赤子の、母親が居る可能性などありはしない。
 『……けど、』
 目線の高さまで持ち上げた、この人形の向こう側に、誰かが立っているのが見え、零樹は這い子人形を胸元辺りの高さまで降ろす。最初は人形で陰になっていたので、人物の脚しか見えず、それが女性である事しか分からなかったが、今はいろいろなものが見えている。零樹の数メートル先に立つ、赤い傘を差した一人の女。ゆらゆらと不安定に揺れる傘が、女の顔を隠してしまう為、どんな容貌をしているかは分からない。だが、時折覗く彼女の頬は痩せこけて土気色をし、見るからに生気が無い。ストッキングを履いた足元も、時々微かに蹈鞴を踏むから、どこか具合でも悪いのかと思えてくる。倒れなきゃいいけどなぁ等と呑気に心配しつつも、零樹は、そんな事はあり得ないだろう事にも、ちゃんと気付いていた。
 「これ、キミの?」
 零樹が這い子人形を軽く持ち上げて示しながら尋ねると、女が微かに頷く気配を見せた。
 「……その子を…その人形を、…預かって頂きたいのです……」
 冷えて僅かに粘性を増した液体のような、小さな声で女が呟く。
 「ふぅん。預かるのは別に構わないけどね、預かるって一言で言っても、色々あるよね?」
 零樹がそう答えると、女は傘の影で戸惑いを感じさせた。
 「そ。ただ保管するだけでも『預かる』だし、例えばこれを元手に僕が金銭を調達しても『預かる』だよ? 保管するだけにしたって、ただウチに置いとけばいいのか、それなりのメンテナンスを継続的に要求するのかって問題もあるしね。…キミは僕に何を望むの?」
 零樹の声は女に届いているのかいないのか、彼女は何も答えない。答えに窮しているのか、答える事が出来なかったのかまでは、さすがの零樹でも分からなかったが。
 『ま、いいけどね』
 口も形だけで微笑む、零樹の胸中の言葉が聞こえたか、彼女は明らかに安堵の空気を漂わせる。よろしくお願い致します、と細い声で念を押すのを聞いてから、零樹は人形を腕に抱いたまま、女に背を向けて店内へと戻った。その後ろ姿を女は見送り、引き戸が閉まって完全に視界から零樹と這い子人形が消えるのを見届けて、彼女も消えていった。
 その女の場合、比喩でなく本当に『消えて』しまったのだが、その事を零樹が知る由も無く。
 「…さて、と。取り敢えずは、濡れた身体を乾かして暖めてあげないとね」
 零樹は柔らかい布で這い子人形の身体を拭き、粗方水分を拭き取ると、安定のいい棚の上にそっと置いた。
 「…預けるって言ってたけど、迎えに来る気があるのかどうかは疑問だけどね」
 しょうがないね、と零樹は指先で這い子人形の額をこつんと軽く突付いた。

 次の日の朝。その日もやっぱり天気は雨だった。昨日ほどには激しい降りではないが、まとわりつくような霧雨は、寧ろ余計にうんざりした。
 目覚めた零樹が朝の戯れに、何とはなしにTVのスイッチを入れると丁度ニュースの時間だった。その映像に、零樹の視線が釘付けになる。
 【無理心中か? 哀れ母子の命儚く】
 そんな劇的な見出しのそのニュースは、昨晩起こった踏切での人身事故の話題だった。母親が腕に抱いた乳飲み子と共に電車に跳ねられて死亡した事故で、警察では周囲の状況から無理心中を図ったのではないかとの見解だった。TVカメラは事故現場の踏切を映し、そのまま引いていく。黒と黄色のバーや赤い二目の信号。現場検証に動き回る合羽を着た警察関係者。群がる野次馬と、それらと現場を隔てる張り巡らされた黄色いテープ。更にカメラは後方に引いて周辺の状況を映し出してから、今度は踏切近くの何かに焦点をあわせていった。
 それは、道端に転がった、開いたままの赤い傘であった。
 「…………」
 骨が折れ、仰向きになったそれは内側に雨だれを滴らせつつ、その哀れな姿を晒している。零樹の脳裏で、それと昨夜見た赤い傘が重なり、寸分の狂いもなく一致した。零樹が首を巡らせると、棚に置いた這い子人形と目があった。
 「…ここに預けられても、跡形もなく壊れたものはさすがに取り戻せないんだけどね……」
 それでも、と願う母の心か。

 不意に雨が激しくなり、静かな店内を水滴が地面を打つ音で満たされる。それに混じって、赤ん坊の泣き声が響いたような気がした。



 泣くのが仕事の赤ん坊の泣き声なのに、何を求めているか分からない叫び声。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
碧川桜 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年03月01日

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