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『遅れてきたバレンタイン 』
篠咲・夏央2125)&矢塚・朱羽(2058)


 「さ、早くやらないと。作り方はちゃんと勉強したんだ。明日にはきれいな手作りチョコができてるはずだ。」

 カーテンからわずかに見える暗闇を時計の針が心配そうに見つめている。そんな彼の表情に気づきもせず、台所で篠咲 夏央はバレンタインチョコ作りをスタートさせた。明々と照らされた台所には、ボールや泡だて器などの調理器具が自分の出番をまだかまだかと待っている。その隣ではさまざまな食材がきちんと並んでいた。それらは夏央の手によって姿を変え、新しい命と気持ちを吹きこまれる。そしてそれは夏央が思う矢塚 朱羽の手に渡されるのだ。ちゃんと明日の予定はキープしてある。後は夏央がちゃんと作品を完成させればいいだけのこと……

 と、本人も思っていただろうが、そうはいかない。
 その心配は時計だけでなく、夏央の姉もしていた。彼女は、妹が手作りのバレンタインチョコに挑戦するのをうすうす勘付いていた。それを裏付けるかのように、バレンタインデーの一週間前になると夏央は姉の前でチョコ作りの本を読み出した。微笑ましい光景だった。だが、2冊の本を見比べている夏央を見て一抹の不安を感じた。カレーを作るだけでも大苦戦したのに……ここは軽くアドバイスした方がいいのかなと思っていたが、甘い匂いの漂いそうな本を食い入るような本気の目で見ている妹にかける言葉はどこを見渡してもみつからない。彼女はただやり場のない気持ちを抱えたまま、物陰で「なっちゃん……」とつぶやくだけだった。
 そんななっちゃんは姉の心配通りの動きをし始めた。カレーと同じ原理で2種類のチョコをブレンドして湯煎を始める……彼女は気づいていなかったが、この時ビターとビターを混ぜたものだから色合いもどんどんどす黒くなってくる。本を見比べながら溶けるのを待っていた夏央が不意に視線を飛ばした時、食べ物ではないものを連想してしまった。

 「……………なんか、どこから見ても甘いチョコに見えないような気がする。」

 夏央は慌てて熱いボールと戦いながら中身を別の容器に移し替え、空いた場所に予備で用意してあった板チョコを割り始める。今度は普通のものを割り入れ、また湯煎する。同じ過ちは繰り返さないとチョコの欠片がひとつずつきれいに溶けていく様を見張る夏央……その手にはぎゅっとお菓子の本が握られていた。しばらくしてチョコがきれいに溶けると一安心したのか大きなため息をつく彼女。だが、まだまだ先は長い。本を見ながら次の工程に移ろうとしたその時だった。

 「あれ、溶かしたチョコが固まる前に牛乳とか入れないといけないんだった……ああ、牛乳はこれで……」

 ひとりごとを口にしながら次の手順を確認する彼女は、近くに置いてあった1リットルの牛乳の口を開き始める。本を近くに置き、普段では考えられないほどの力を込めて牛乳の口を開ける。その作業の最中、彼女の目にある小さなビンが目に入った。その中にはブランデーが入っていた。父から分けてもらったそれは今使うべき食材のひとつだった。気持ちはブランデーに向き、手は牛乳を操る……そんな器用なことが今の夏央にできるわけがない。勢いよく流れ出た牛乳は褐色を真っ白に染め上げる。もちろん分量が正しく入っているわけがない。

 「ちょ、ちょっとくらいなら大丈夫……ここにブランデーを入れないと……」

 今の夏央に精密機械のような動作は要求するだけ無駄だ。どんぶり勘定、目分量になってしまう状況にも目を閉じて、ただひたすらにチョコの完成を目指す。チョコの入ったボールの近くに牛乳を置き、ブランデーの入った小さなふたをくるくると開け始めた。彼女は中身の匂いを嗅ぐ。確かにお酒だ。ブランデーはほんのエッセンス程度で十分だと理解していた夏央は、おちょこいっぱいに日本酒を注ぐお父さんのポーズを取り始めた。舌を出し、片目を閉じ、朱羽が見たらどう思うかわからないような姿で一生懸命になっている夏央……だが、彼女はこんな姿でも必死なのだ。
 ようやく正しい分量のブランデーを注ぎきった。その時の顔は今日一番の笑顔だった。そして小さな器の中身をチョコのボールに移そうとしたその時だった。右肘がたまたま、置いてあった牛乳パックに触れた……その衝撃は実に素直に伝わり、パックはその身を大きく揺らした。今、夏央の両手は塞がっている。牛乳パックが静かに倒れていくのを見るしかない。その頭を少しずつ傾けていくうちに、夏央はふたつのことに気づくのだ。ひとつは、その牛乳パックの口をしっかり閉じられていないこと。そしてもうひとつは倒れ行くその先にチョコの入ったボールが存在すること……

 「う……ウソでしょ……!」

 気づいた時にはもう遅い。牛乳はチョコの大地に洪水をもたらした。もはやこれはチョコの原料ではない……ただのチョコレート牛乳だ。さらにエッセンスに使うはずのブランデーをそこにぶちまけてしまう。驚く夏央は左手に持っていた大元のビンの中身まで入れてしまった。誰にも見せることのできない、取り返しのつかない失敗作が今ここに誕生した……夏央のショックは大きい。

 「…………………約束、してるのに。どうしよう。」

 あまりの状況に涙も出ない。絵に描いたような自分のドジを泣いてる暇なんかないと心に言い聞かせる夏央だが、材料のほとんどを失った今の状況は最悪だ。朝からすべてをやりなおし、なんとか14日中には作らないと……はやる気持ちを抑えきれない夏央は恨めしそうに時計を見た。そう、今の彼女はシンデレラだ……


 誰が魔女だったかはわからない。だが、夏央のチョコはできあがった。ハート型をしたかわいいちいさな手作りチョコ……真っ赤な包装紙にピンクのリボンをあしらったそれだけを持って夏央は外へ飛び出した。彼女が自転車に飛び乗る頃、冬の太陽は残酷にも約束の時間がとっくに過ぎたことを知らせる。それでも夏央は必死に自転車を漕ぐ。約束は破ったけど、どうしても今日中に届けたい……その気持ちがタイヤを回す。顔を山際に半分埋めた太陽も昨日の時計同様、心配そうな顔色で彼女を照らす。前とは違う時間に朱羽の家に向かう夏央……
 朱羽の家に向かう彼女の目に、あの時と違う風景が見える。ほんのちょっと暗くなっただけなのに……頬にチョコをつけたまま、夏央は信号待ちの交差点でそんなことを思っていた。その姿を見た太陽、いや夕日が恥ずかしそうに顔を隠した。彼は夏央に聞こえない声で囁く。

 『夏央、前と風景が違って見えるのは、きっと君が恋をしているからだよ……』

 その言葉に背中を押されて、夏央は滑るように走る。歩道で手を繋いでいるカップルを見ながら、変わってみえる風景を見ながら……


 マンションの廊下を蛍光灯が薄暗く照らす……その光の下に夏央がいた。目の前には朱羽の部屋へと続く扉がある。もう呼び鈴は押した。あとは扉が開いてくれれば……ただそれだけのことだが、今の彼女にはそれがすべてだった。扉が開くことをただ真剣に祈った。すると、向こう側から音がする。

 「ああ、夏央じゃないか。遅かったな。」

 彼女の祈りが通じたのだろう。あっけなく扉が開き、普段着の朱羽が現れた。彼はずっと家で夏央の到着を待っていたのだ。実のところ、朱羽にとってこうなること自体が予想の範疇だった。彼女の姉と同じく、前のカレー作りを見て「きっとチョコ作りもこんな調子だろうな」と思っていたようだ。ただ予想外だったのは、目の前の少女が肩を揺らし息を切らせていることだった。彼女の必死さだけは彼の想像になかった。
 夏央は朱羽の顔を見て照れるよりも先に、申し訳なさそうな顔をしてチョコの入った包みを差し出す。

 「ごめん矢塚。チョコ……約束の時間に間に合わなかった。ドジばっかりしてなかなか満足できるものが作れなかったんだ。でもこうやって今日中に渡せてよかった。また後で食べて、学校で感想でも聞かせて。ホントに、ごめん。」
 「ドジ、か。今のお前の顔を見たら、そんなことすぐにわかる。」
 「……………ごめん。」

 朱羽は彼女の顔についたチョコのことを茶化していったのだが、それに気づいていない夏央はただただ謝るばかり。そんな彼女に対して、朱羽は自分でも考えつかないような言葉を口にした。

 「夏央……その、だな。もう外も暗いし、それに時間も遅いし……今日は、泊まっていくか?」

 チョコのように甘い言葉を朱羽にかけられた夏央は真っ赤になった顔を上げる。目の前には穏やかな顔を真っ赤に染めた彼がいた……そのセリフがどれだけ真剣なものかはすぐにわかった。

 「矢塚、いいのか?」
 「俺は……構わないよ。」
 「じゃ、そうする……」

 言葉では遠慮しつつも身体は素直に玄関へと向かっていた。そして暖かい香りのする光に包まれた部屋へと導かれる夏央。街と同じく、やはりこの部屋も今日は少し違って見える……夏央は初めて入る部屋のように周囲をきょろきょろ見て回る。朱羽を先頭に台所を通り過ぎようとしたその時、彼女はようやく自分の顔についたチョコに気づく。やっと朱羽の冗談を理解できた夏央は今さら顔を赤らめる。彼女はすぐに流しで顔を洗おうとするが、それを朱羽に止められた。

 「か、顔についてるならそう言ってくれれば……!」
 「洗わなくていい。その方がお前らしいから。さ、早く食べようか。」

 朱羽にそう言われたのが嬉しかったのか、そのままの顔で部屋に入る夏央だった。


 朱羽は包装紙から出したチョコの表面に書かれたメッセージを読み終えると、ふたりでチョコを食べようと思ったのかそれをふたつに割ろうとする。

 「や、矢塚! ふたつに割るのか。それはちょっと……」
 「ん、どうした。ふたりで食べるには割らないとダメだろ?」
 「で……でも……割るのって、なんか……やだな……」

 不安げに話す夏央が話し終える前に朱羽はチョコを均等になるように割った。そしてその半分を夏央に渡す。彼女は素直にそれを受け取った……その時、朱羽が自分の持っているチョコの割れた部分同士を合わせた。

 「矢塚……」
 「これで、いいだろ?」
 「うん……………そうだ矢塚、私の持ってるチョコを食べてよ。」

 夏央は再びひとつになったハートの欠片を朱羽の目の前に差し出す。彼はそれをかじり、静かにチョコを味わい始めた。彼女はまた緊張した様子で朱羽を見つめている……

 「うん、甘いぞ。」
 「よかった……まだ食べられるもので……」
 「なんだ……お前、自分で作ったくせに味見もしてないのか。ほら、お前も食べろよ……」

 今度は朱羽が持っていたチョコを夏央の目の前に差し出す。夏央は朱羽の手を持ちながら、小さな欠片を口に頬張る……口中に甘い味が広がっていく。自分が思い描いたものとは遠いかもしれないが、確かにチョコだった。

 「……確かに甘い。」
 「ホットミルクでも飲むか?」
 「うん。」

 甘い甘い匂いと味が部屋中に広がる……朱羽との夢のような時間はまだ始まったばかりだ。夏央は部屋にある時計を見た。まだ夜は長い。夢を見るには十分な時間だ。そう、たとえ12時を過ぎたとしても、この魔法は解けたりはしない……ふたりのバレンタインはこうやって始まった。

PCシチュエーションノベル(ツイン) -
市川智彦 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年02月24日

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