▼作品詳細検索▼  →クリエイター検索


『未知なる恋人 』
ケーナズ・ルクセンブルク1481

 二台の愛車のうちの片方は実に扱いが面倒くさい。
 アイドリング発進がそれを愛車とするもののマナーだと言うのだから恐れ入ったものである。
 その高性能でデリケートなクラッチは、慣れたからといって運転に手抜きを許してはくれない。それでもその『駄々っ子』っぷりが可愛いと思ってしまう。
 なにもそれは車に限った事でもない。少々手がかかったほうがいい。
 車も、仕事も。そして男も、女も――恋人も。
 勿論少々、ではあるが。
「少々、で済めばいいが」
 ケーナズ・ルクセンブルク(けーなず・るくせんぶるく)は、苦笑とも黄昏とも取れない笑みを口元に刻み、軽くアクセルを踏み込んだ。



 職場に甘い香りが漂うのはこの日特有の出来事だといっていい。
 無論ラッピングは施されているから個々の香りは然程でもないのだが、それもあくまで個々ならばの話だ。
 昨年のここは駅ビル一階のクッキー屋の前かと言いたくなるような臭気を思い出し、ケーナズは思わずドアを開けようとしたその手を引き戻した。
 女性は嫌いではない。
 女性に思いを向けられることも嫌いではない。――返すかどうかはまた別の話としてもだ。
 しかし、それとこれとは全くの別問題である。昨年に思いを馳せて、ケーナズはうんざりと肩を竦めた。
 何しろそれはもう大騒ぎだったのだ。
 朝、出社してみればデスクの上は色とりどりのラッピングを施した甘い香りの箱がいくつも乗っていた。ここまではまだ余裕もあった。
 だがしかし、研究所に入るべくロッカールームへ白衣を取りに行けばそのロッカーの前にもチョコレートの小山。白衣を羽織って廊下を歩けば先の角から何人かがタックルを仕掛けてくるわ、食事時に外出しようと駐車場へと向かえば待ちぶせ。挙句車のボンネットの上にまで甘い小山が出来ていた。
 一事が万事その調子で、一日を終える頃にはすっかりうんざりしていた。何しろ鼻がもう麻痺していたのだからその臭気たるや凄まじいものだった。辛党を自認する彼にはかなりの苦痛だった事は言うまでもない。
 女に免罪符を与えるとどうなるのかを、その一日は如実に物語ってくれたといえる。
「……仮にも製薬会社の社員全般が菓子メーカーの陰謀に乗せられると言うのも笑えないな」
 ケーナズはドアを見つめたまま一人ごちる。
 このままUターンしても一向に構わないのだが恐らく無駄だろう。ターゲットが補足出来なければ順延される。そう言う類いの年中行事なのであるこれは。
 st.バレンタイン。
 その聖者に些かの恨み言を呟きつつ、ケーナズがある意味決死の覚悟を持ってドアを開けるまでには、それからゆっくりと呼吸五回分の時間を要した。

 気抜けとかきょとんとか肩透かしとか。
 まあその裂帛の気合が見事に無駄になったことだけは間違いない。
「……これはまた」
 ケーナズは苦笑して、眼鏡を押し上げた。そしてデスクの上の可愛らしいラッピングの包みを指先で摘み上げる。
 乗っているのはその可愛らしい包みが一つだけ。他の男性職員のデスクにも同じものが乗せられている辺りから察するにこれは『女性職員一同』連名の贈り物だろう。他には一つとしてそれらしい包みは置かれていない。見事に義理チョコである。
「なるほど」
 頷いてケーナズは苦笑した。
 株が暴落した理由に心当たりはある。アイドル歌手との恋愛が全国的に放映されてしまったためだろう。
「売約済みの物件に用はないということかな。まったくなんて逞しい」
 ありがたいのだが、微妙に寂しい気もする。
 結局私は女性が嫌いなわけではないのだなと、ケーナズは苦笑と共に思い直した。



 だが、結局その日はケーナズにとって受難の日ではあるらしい。
 携帯に入っていたメールを確かめて、ケーナズは肩を竦めた。
「私に何を食べさせてくれるつもりかな」
 信号機が点滅を始める。軽い振動を繰り返す車のエンジン音を楽しみながら、ケーナズは軽くアクセルを吹かせてみる。
 後何回転させたら到着するのだろう?
 わからない。
 そしてその先に待っているのが天国か地獄か、それも未知だ。
 普通なら天国である。入ったメッセージは彼の恋人が彼の為に手料理を作って待っているという内容だったのだから。
「しかし……」
 食べたら昇天という魔界御用達の手料理を味わった身としては、残念ながら無条件で天国を信じる気にはなれない。妹達がまともな料理の指導を行ってくれたと言う話だが、それが『魔界』出身で人間界の料理に予備知識のない彼の恋人に何処まで通用するのかは疑わしい所である。
「……まあ、それも一興か」
 ハンドルを握り締めて思い返す。言葉とは裏腹に頬から一筋の冷や汗が滴り落ちていたりもするが、言葉そのものは嘘ではない。
 少々手がかかったほうがいい。
 車も、仕事も。そして男も、女も――恋人も。
 少々予想通りでない方がいい。何もかもが。
 素直で従順で100点満点の可憐な乙女な恋人は多分いらない。それはケーナズを退屈させるだけだろう。
「……いくか」
 目的地まで後何回転?
 その数も、そして目的地で待っているだろう出来事も未知で未定で、それがケーナズを少しばかり楽しませていた。



 ――その後の惨劇をまだ誰も知らない。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
里子 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年02月23日

投票はログイン後にできます。

ログインはこちら












©Frontier Works Inc. All Rights Reserved.