▼作品詳細検索▼  →クリエイター検索


『弐閃 』
天樹・燐1957)&倉田・堅人(2498)


 男は、往生際が悪かった。天樹燐は、しかとその目で見届けたのだ。今自分が襟首を掴んで駅員の前に突き出しているくたびれた男は、2区間を移動している間ずっと女性に痴漢行為をはたらいていた。尤も実際のところは、もっと長い間女性は被害に遭っていたのかもしれない。
「やってないって言ってるだろ! 第一やられたっていう女はどこにいるんだよ! 離せよ! これから仕事なんだ!」
「ああ、そうだ。被害に遭われた女性というのは――」
「ええ、私ではございません」
 燐はにこりと苦笑した。彼女が乗ってきた電車(または、痴漢と触られていた女性が乗っていた電車)はすでにこの駅を発ってしまっている。うっかりしていた。痴漢の手首をぐいと捻り、電車の外に連れ出すことにかかりっきりで、被害者を連れてくることまで気が回らなかったのだ。燐らしからぬ失敗だった。
 燐が苦笑すると、男は乱暴に燐の手を振り払った。ほっとしたような、勝ち誇ったような、奇妙な顔になっていた。
「そら見ろ。証拠なんか――」
「失礼。私も見ました。彼は4つ前の駅からずっと女性のスカートの中に手を入れていましたよ」
 燐、男、駅員の3人の視線が、降って湧いた声に振り向いた。
 少し時代の波にそぐわない黒縁眼鏡をかけた、中肉中背の壮年がそこに立っていて――不愉快そうな顔をしていた。
 彼の言葉を聞くなり、駅員はがっきと男の腕を掴む。
「……ちょっと、中で事情を」
「な、やめろ! 離せ! おれはこれから仕事が――!!」
「これからずっと行く必要がないかもしれませんわね」
 駅員室に連行される男に向かって、燐はにこやかに手を振った。やにわに証言をしてくれたサラリーマンも、一緒になって手を振っている。
「有り難うございました。ええと……」
「ああ、倉田堅人です」
「そうですか、倉田さん。お陰様で、悪をひとつ滅することが出来ましたわ」
 にこやかなまま、燐は堅人と名乗る男の手を握ろうとした。
「いや! 礼には及ばぬ。婦女に対する下劣な狼藉、漢として断じて見過ごすことは出来ぬ。当然のことをしたまでだ!」
 突如堅人が武将じみた人物の物真似をしたため、燐は思わず一瞬凍りつき、ついで、堅人までもが凍りついた。
「ああいや、とにかくお礼などは結構ですから。では私はこれで」
 堅人はあからさまに慌てた様子を見せ、そそくさと燐の前から消えようとした。しかしながら、燐はそれを見過ごせなかったのだ。彼女の中に宿る力と本質が、堅人の表面に現れた戦の魂を感じ取った。今の不自然な侍の物真似は、物真似ではない。
 立ち去ろうとする堅人の鞄をはっしと掴み、燐はまたしても笑顔になった。
「お待ち下さい。もうひとりの方のお名前を伺っておりませんわ」
「ああ! いや! 私はひとりですから! これにて御免! じゃなくてさようなら!」
「私は、天樹燐と申します。あなたのお名前は……?」
 燐はなおも微笑んで、堅人の目を覗きこむ。黒い視線は絡み合った。堅人の瞳の光が、一瞬にしてきらりと変わるのを、燐はしっかりと見届けた。
「倉田、には違いない」

 おのれ、倉田。

 燐はその声と声に、うっすらと笑う。
 倉田は――気づいていたか、それとも、こういったことにはもう慣れてしまっていたのか。かすかに聞こえた怨嗟には、何の反応も示さなかった。
「一度お話を聞かせて下さい。私はこれから大学がありますし――堅人さんには、お仕事がありますよね?」
「……あ、ええ」
「……それでは、また」
 燐はようやく、堅人を解放した。
 堅人は二度ほど、改札口を出るまで、燐の方を振り返っていた。名前を名乗りはしたが、ここは東京。一度限りの挨拶などは、そこら中で交わされるもの。堅人は、もう二度と会えないものと思っていたのだろう。
 しかし燐は、まだあの「ふたり」の倉田から離れるつもりはなかった。


「やられたね」
 その日のうちに、ふたりは再会を果たす。
 大学が終わり、勤め先の喫茶店にいた燐の前に、倉田堅人が現れたのだ。ちろちろと名刺サイズのフライヤーを振りながら。
 燐は堅人を捕まえたそのとき、そっと堅人の鞄に喫茶店のフライヤーを入れたのだ。
 サインがなければ、一度限りの挨拶になる。それがこの街だ。
「いらっしゃいませ、倉田さん。何かお飲みになりますか?」
「玄米茶を」
 するどくそう言い放った後に、堅人はふるふると細かくかぶりを振った。
「……アメリカンコーヒーを、ブラックで」
「はい、玄米茶とアメリカンのブラックですね」
 燐は少しも動じずに、堅人の前にコーヒーと玄米茶のふたつを出すことにした。


 おのれ、倉田。

 ちくしょう、あいつら。


 日常の中に、影が宿る。
 しかし影は、常にどこかにあるものだ。不意に大きくなったそのとき、ようやく人は影に気がつく。気がついてからでは遅いことが多い。
 燐と堅人も、気づいていなかったのかもしれなかった。


 おのれ、おのれ、おのれ――。


 倉田堅人は、初めて出会ったその日に限らず、たびたび天樹燐の前に現れるようになった。主に、燐が勤める喫茶店で、ふたりは顔を合わせるようになっていた。燐は堅人が来ると、玄米茶とアメリカンコーヒーのブラックのふたつを出した。堅人が店を出るときには、いつも湯呑みとカップはそれぞれが空になっていた。
 その夜はしかし、いつもの喫茶店で会ったわけではなかった。
 人気のない最終電車で、残業帰りの堅人は、ほろ酔いの燐と会ったのだ。
 ――どうやら私たちは、この女性と縁があるようだね。
 ――何の縁も所縁も無い人生よりは、良かろうものよ。
 倉田は、苦笑しながら燐の隣に席を移す。
 多少疲れた様子の堅人を見て、燐は微笑んだ。
 ――また、ご縁のある人と巡り合うことが出来ましたね。
 彼女は彼女が知らないうちに、実に多くの人間と出会ってきていた。膨大な出会いの中のひとつにすぎないはずだが、燐はその出会いの全てがいとおしい。
 無論それは、自分に対して好意ある人間との出会いに限られているわけだ。
 無数の出会いの中には、二度と相見えたくないものも、正直、あった。
 堅人と、燐がふと顔を上げる――
 列車が止まった。

「派手に飲んだんだねえ。明日に残らないといいけど」
「大丈夫ですよ」
「そうか、まだ若いものね」
 静まりかえっている。それは、いつもの喫茶店への道。
 ざ、ざ、ざ、ざ、ざ。
「……かなり、酔っているのでしょうか」
 燐は首を傾げて立ち止まる。身を切るほどに冷たいような、流れ落ちる血潮のように生温かいような、あまり気持ちの良くない夜風が吹いた。
「いいや、左程酔うてはおらぬだろう」
 倉田が応える。彼は黒縁眼鏡を外して、ジャケットの内ポケットに収めた。少し、内ポケットの位置に慣れていない仕草であった。
「お主が感ずる悪気どもは、確かに我が身に覚えある故」
 ざ、ざ、ざ、ざ、ざ!
 倉田!!

 じゃリぃん!
『迂闊であるぞ!』
 燐の手に不意に現れた長刀が怒鳴る。
 風とともに現れた野武士が、燐に赤鰯の一撃を浴びせかけていた。彼女の衣服は、赤鰯の一撃で、胸のあたりが破れてしまっていた。
 燐は無言のまま、不機嫌な長刀で、赤鰯と鍔ぜり合う。
 ぎゃリぃん!
「卑怯者! 名乗らぬか!」
 倉田の手に不意に現れた刀は、やはり赤鰯を鋭く受け止め、火花のような光を飛ばした。倉田の瞳には、手にしている刃にも匹敵する光が宿っていた。
 彼のすぐ近くにあった『通学路』の標識は消え失せている。倉田が触れた途端に、標識は一振りの刀になっていたのだ。

『あー』
『お前らの……せいで……仕事が……なくなっ……』
『おのれ、倉田……恨めしや……』
『おうい』
『あーアアア』
『うらま……うらやまし……うらめしい……』
『く、ら、た……』
『いいいえーあアア』

「彼の狙いは」
 しゅピん、
「倉田さんのようですけれど」
 がちィん、
「何を、人聞きの悪い」
 チぃん、
「いくさばにおいて、かたきを討つは、さだめであろう」
 がキん、
「言わせて貰えば、」
 ぜふッ、
「彼奴はお主をも恨んでおるようぞ」
 びしュっ、
「そのようですね」
 ざシ!

 ふたりの刃は、泉の水のように湧いてくる落ち武者や、形さえ定まらぬものや、魂魄を斬り飛ばす。或いは、叩き伏せる。またあるときは、貫いた。
 燐の長刀が、無い舌を打つ。
『埒があかぬ。元凶を断たねば』
「其は?」
「私たちの、始まり」
 燐が指したか、或いは長刀が自身で指し示したか。
 呻き、喘ぐ魂魄の中心に立っているのは、古い血塗れの鎧武者。
 バシャッ、と面頬が落ちた。恐るべき鎧兜に身を包んでいるのは、あの出会いの日に倉田と燐が「3人」で捕らえた、痴漢に間違いなかったのである。その顔から生気は消え、濁った目には怨みと怒りが宿っていた。
「逆恨みに、逆恨みが惹かれたのであろう」
 倉田は、苦虫を噛み潰したような顔になった。
『倉田! 恨めしい!』
『お前らを、殺してやる!』
「あとで、昔話を聞かせて下さい」
 燐は微笑み、長刀を構えた。
 かち・ん。
「どの辺りの話を?」
 倉田はやはり苦虫を噛み潰したまま、刀を構える。
 ちい・ん。
「やはり有名な、桶狭間のときの」
「……さて、あの日は、語ると長くなるのだが」

「されど、良かろう! 時間は、充分にある」

 燐は、左へ。
 倉田は、右へ。
 振りかぶった刃が、交差した。
 血飛沫と魂魄の悲鳴とは、十文字に噴き出した。
 しかし、鎧と兜が地に落ちたとき、男の亡骸はどこにもなかった。鎧兜が落ちた音、飛び散る血潮すらも、ふたりがぴゅるりと刃を打ち振ったときには消え失せていた。
 ざ、ざ、ざ、ざ、ざ――
 さても、心地良い夜風が吹く。


「ヒヤヒヤしたよ、天樹くん。いきなり斬られてるんだもの」
「あら、かすっただけです。怪我はどこにも」
『迂闊であるのだ。酒も四方山話も、斯様な夜道では――』
「はい、気をつけますからね」
 燐はぶつくさと愚痴をこぼす長刀を、問答無用で何処かにしまった。
 いつもの微笑みを堅人に向ける。堅人は、すでにいつもの眼鏡をかけていた。
「……約束ですよ」
「え? なに?」
「お話をしてくれると」
「あ、ああ……私には何のことだかさっぱり……」
「あら、今日これからとは申しませんよ。明日、私は大学がありますし――倉田さんには、お仕事がある。またいつか、お会い出来たときに」
「……そうか、ホッとしたよ」
 燐の自宅が見えてきていた。
 ふたりの時間は、充分にあった。




<了>
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
モロクっち クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年02月20日

投票はログイン後にできます。

ログインはこちら












©Frontier Works Inc. All Rights Reserved.