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『茶色い熊の蜻蛉きり 』
マリィ・クライス2438)&藍原・和馬(1533)


 おやおや、上っていくよ。さすがの私も、あの高さまでは跳べないね。

 ふらりふらりと東京を歩いていた女が、ぼんやりと空を見上げる。今日は、空もはっきりしない色だった。ここのところずっと、煮え切らない色なのだ。後先を考えずに、誰かが水で薄めてしまったからだろう。もう、同じ色の絵の具は二度と作ることが出来ないというのに。
 女は、色がはっきりしていた頃の空を見たことがある。その色を見たときは、何とも思わなかった。ただの空だった。だが今になって振り返ってみると、あの過去の空の色の、何と美しいことか。
 マリィ・クライスは、そんな空の色について話し合える人間がいないことも知っていた。
 21世紀の、今日の東京の空には、ぽつんと赤いシミがある。マリィの50メートルほど前で子供が泣いていた。空に滲もうとしている赤は、風船なのだ。
 ――にしても、風船?
 マリィは金色の目をすがめ、首を傾げた。
 周囲にはテーマパークなどないし、記憶が確かならば、どこのデパートも特に風船を配るようなイベントを催していないはずだ。何処かの何かの企業が、宣伝のために配っているのだろうか。
 ――風船なんて、手間がかかるものを。
 彼女は暇だった。両手にビニール袋を下げていて、そのビニール袋には目一杯にかわいい雑貨やおどろおどろしい髑髏グッズや食材が詰め込まれていた。ビニール袋は今にも底が抜けそうになっていたが、彼女は羽毛でも持ち歩いているかのような表情でいた。その細い手首の筋肉はさほど強張っていないし、ショッピングモールを出てから15分間、彼女は一度も荷物を持ち替えたり、地面に置いたりはしていなかった。おまけに彼女は、傘さえ持っていて、腕に器用に引っ掛けていた。その細い身体からは想像も出来ない力を、彼女は持っているのだ。
 しかし小さな骨董品屋『神影』の店主をしている以上は、その力を発揮する機会にもそうそう恵まれはしないのだ。それが一番なのだと、彼女は思っている。自分の力が必要になるときはろくなときではない。そして、本当に何とかしてやりたい事態が起きたときに限って、彼女の力は全く役に立たないのだ。
 例えば今このとき、あの子供の風船を空から取り返してやることは出来ない。
 ふうっ、と溜息をついて、マリィは歩き始める。
 泣いている子供の傍を通りすぎる。子供をなだめる親の声も聞こえた。
「アイス買ってあげよっか! ね! チョコバナナ味! ねっ!」
「ああああああああふうせえええええええんんんん」
「ねっ、ほら、ねこちゃん手袋買ってあげたでしょう。風船よりかわいいよ」
「うえええええええふうせえええええええかんんん」
「ねっ、ほら、ねこちゃんかわ……あ、どうもすみません! ほら、みてみて! さっきのくまさんよ!」
「うぇう、ひっ、ふうせえん!」
「……ああ、どうもすみません、ほんとに」
 マリィは、少しだけ視線を後ろに向けた。
 茶色の熊が、赤い風船を子供に差し出しているところだった。風船には『カナザワ薬局』の白い文字。マリィが想像した通り、風船は純粋な宣伝のためのものだった。
 熊はすっかり機嫌が良くなった子供と、ぺこぺこと頭を下げ続けるその母親に向かって、ぴょこぴょこ手を振っていた。
 ――バイト君も大変だね。
 しかし、親切なバイト君ではないか。これで、ちまらないほど小さな胸のつかえもなくなり、晴れやか気分で店に戻ることが出来る――マリィは変わらぬ歩調で歩き続けていた。

 と、
 ポク、
 そのとき、
 ポクポクポクポク、
 マリィの背後に物凄い勢いで近づく足音が、
 ポクポクポクポクポクポクポクポクポクポクポクポク、
 途絶えた。
 だんッ!


「どおぅりゃああぁあああぁぁぁあー!」
 漢らしい気合は、ふわふわの茶色い熊が発したものだ。間違いはない。
 熊ははっきりしない空の中を舞い、見事に1回転した。いや2回転した。いやまだ甘い、トリプルアクセルを決めた。ここで着地できれば技術点6.0は確実だ!
 しかしそこで、マリィ・クライスが初めて、荷物を地面に下ろしたのだった。
 電光石火の勢いで突き出された深紅の傘が、熊の向こう脛を打つ。
「ごわッ!」
 茶色の熊は空中でバランスを崩し、顔面から落ちた。東京の人々は基本的に物事に無関心だが、たったいま打ち落とされた熊が、ゆうに3メートルは垂直ジャンプしていたところを目の当たりにし、さすがに目を丸くして立ち止まる。
 熊の着ぐるみのやたらと大きい頭部が外れ、黒髪に小麦色の肌の男の顔が現れた。彼は顔面を強かに打ちつけて鼻血を少し出していたが、フンと強く息をつき、要らぬ血を鼻からすべて追いやった。
「いきなり何すんだ、じゃなくて何するんですか師匠!」
「それはこっちの台詞だよ。あんたの名前、忘れてやろうか。何だっけ」
「藍原っすよ、殺生な! 藍原和馬っすよ! 愛弟子でしょうが!」
「なに?」
「……いえ、その、今の発言はなしで」
「よし。で、今のは何の真似?」
「いやア、気づいてないみたいだったから、驚かせようと思っ」
 ぼグ!
「げほぅ!」
「人を見てものを言いな! いいかい、驚かせるってことはそいつに勝つってことだ。つまりは私に勝つってことだよ。私に勝とうなんて10億年早いと思いな!」
「……ぐぐう、ぞのどおりでございばず……」
 台詞の途中でマリィに蹴られた熊、もとい藍原和馬は、確かに1メートル浮き上がり、5メートル吹っ飛んだ。地面に倒れ伏した和馬の呻き声による謝罪は、5メートルを距離を隔てても、しっかりマリィの聴覚がとらえている。
 マリィは毛玉化しかけている和馬にツカツカ近づき、もう一撃お見舞いした。
「ぐがぁ! 痛いっす! やばいっす! 肝臓破裂する! 死ぬ!」
「あんたにかかった不死の術はこの程度で解けるのかい? そんな馬鹿な話があるもんか、この!」
 どフ!
「ぎにゃあ!」
 がド!
「ふぎゃあ!」
 ぼき!
「ごべりばぁ!」

「……ん?」

 マリィの金の視線が、不意に和馬から周囲に向けられた。いつの間にやら――とは言うものの、天下の往来でこんなショーを繰り広げられては、人々の目が集まるのも無理はないというものだが――マリィと熊(藍原和馬)の周りには、数十人単位の野次馬が出来ていた。一般市民たちは、マリィの視線に無言で退いた。携帯でどこかに連絡している者もいる。
 どこか?
 いや、この場合普通は110番を回すだろう。警察にどうにか出来るものでもないが。
「ふふ、いえ、何でもないんですよ。ふふふ。ただのゴミです。うふふ」
 マリィは妖艶な大人の笑みを浮かべながら、地面に置いた荷物を持ち、ダウンしている和馬を蹴り転がしながら、そそくさと裏通りに退避した。


「マジで折れました」
「どこが」
「アバラが」
「ふうん」
「ふうんって、ちょっと」
 熊の着ぐるみの姿のまま、和馬はマリィに転がされ、飲み屋にまで来ていた。彼は本当に肋骨を2本ほどマリィに蹴りで折られていたのだが、何分普通ではない身体であるため、すでに傷は完治していた。
「治るのは早いけど、痛いもンは痛いンすよ。俺たちゃゾンビじゃねンだから。わかってるでしょ?」
「痛い目見ないとわからないケダモノでもあるわけ。わかるでしょ?」
「いや、だからってそんな、言葉話せるんすから、まずは言葉で叱って下さい」
「ああ、そっちのタイプなんだっけ」
「勘違いされるような勘違いっつうか、ボケはやめて下さいって」
「で、酒なんかガンガン飲んでるわけだけど」
 マリィは、すでに半分ほどにまで減っている和馬のジョッキに目を向けた。
「勤務中なんじゃないの? 親切なバイト君」
「ノルマ制っすから、風船なくなった時点で上がり。あの子がひとつなくしてくれたおかげで仕事が早く済んだわけです」
「……なんだ、親切で渡したわけじゃなかったのか」
「はいぃ?」
「こっちのこと。ああ、なぁんだ」
「なんすか、気になりますわ」
 和馬のしかめっ面にすぐには返さず、マリィは自分のジョッキを空けた。ドイツ製の黒ビールは、いい味だった。唇の端についた黒ビールの泡をちろりと舐めて、マリィは和馬のしかめっ面に身を乗り出す。
「和馬、あんたは親切なのかってね、そう思ってたわけ」
「いきなりだなァ」
「何ニヤニヤしてんの」
「い、いや、そんなニヤニヤなんて。こういう顔なんです」
「ヤな顔」
「ヤなこと言わないで下さい」
「で、親切なの?」
「あー、ええ、まあ、とても親切な方だと思わないでもありませんかもしれないすね」
「ふうん、親切なんだ? じゃ、店番よろしく」
「な?!」
「親切なんでしょ?」
「お、俺、今8時間労働が終わったところなんですが! しかも休憩ももらってなかったわけですが!」
「今一服したじゃない。疲れたなんて、人間みたいなこと言い出すんじゃないだろうね?」
「疲れました」
「恥ずかしげもなく言うね!」
「恥ずかしいです!」
「じゃあ頼んだから」
「『じゃあ』の使い方が、あの――」
「日本語って難しくてまだ覚えきれないんだよねー」
「ああ、師匠?! ちょっと! ここの支払いは? 師匠ォー!!」
 マリィは傘を持って席を立ち、和馬はガタンとテーブルに突っ伏した。テーブルの下には、マリィが先刻買い集めた品々が、きちんと取り残されている。
「ふっ……。俺って……ふっ、親切……」
 和馬は熊の頭をかぽりとかぶると、伝票を手に取り、マリィの荷物を持ち上げた。
 ずぼり、とようやくビニール袋の底が抜けた。
 茶色の熊は、無言でそこにしゃがみこむ。
「……」
 居酒屋のおねえさんが、無言で熊におしぼりを差し出した。


 マリィ・クライスがそうして店を空け、ふらりと当てもなく出かけてしまうのは、本当によくあることだった。
 ふらりふらりと東京の街を歩きながら、彼女は暮れた空を見る。
 ――ああ。
 今度、『愛弟子』に聞いてみたらいいのだ。
 ――あんたが最初に見た空は、どんなもんだった? はっきりしてたかい?
 今度会ったときまでに忘れていなかったら、彼女はきっと聞くだろう。
 その日まで、彼女はふらりと旅に出る。




<了>
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東京怪談
2004年02月18日

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