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『真実の眠り 』
鷹科・碧海0308)&鷹科・碧(0454)

 オモイダスナ、ワスレテロ――ワスレテテ……イイカラ………

 どろり、と世界が赫色の闇に溶けた。
 ねっとりと四肢を束縛するように纏わりついてくる空気に、碧海は体の奥からせり上がってくる何かを感じ僅かに咽る。
 夢だ。
 体は眠ったまま、クリアーになっていく意識の中で碧海そう理解した。いや、感じ取ったというほうが正解かもしれない。
 赤い、夢――それは夜毎繰り返される碧海の記憶。
 輪郭線のぼやけた視界の向こうで、2人の人間の体が崩れ落ちていく。体格からして大人か。碧海はそれが今は亡き自分の両親だと知っている。
 赤い紅い緋い赫い闇に、手を伸ばしても決して届かない父と母の体が無残な姿に変わり果て、堕ちて逝く。
 2人の呼吸音が荒く掠れ、先細り、そうしてぷっつりと途絶えて無くなる。その様がまるで耳元で囁かれているのではと錯覚するほど傍近くで碧海の鼓膜を擽った。
 これは現実。
 両親が殺された日の――記憶。
 まだ自分が幼かったあの日、唐突に訪れた二つの命の終幕の瞬間。
 犯人は誰だか分からない。幾度繰り返し見ても、誰が両親の命を奪って行ったのか赤い夢は肝心の部分を碧海に教えることはなかった。
 誰なんだろう?
 疑問がむくりと頭をもたげる。
 知りたくて、一歩踏み出す。するといつの間にか足元にまで広がっていた血溜がイヤな音を立てた。まるでこれ以上先には進むな、と警告するように。
 誰? 2人を殺したのは。
 いつもならここで終わる夢。
 けれど、どうしても。今日は知りたくて。
 ゆっくりと足を進める。動きを封じようとする闇から加わる圧力が大きくなるが、碧海は構わず歩みを押し進める。
 何かに手が届きそうな予感。
 水の中を掻き分けるように伸ばされた碧海の指先が、月の光を帯びたように白く輝く。
 あと一歩、前に進むことができれば。
 誰があの場にいて、両親を殺したのか知ることが出来る。
「……俺は知りたいんだ」
 呟き。言葉は魂を得て力になる。
 赤い夢が碧海の声に応えて密度を増した。そして世界が回り始める。足をつけていた筈の大地がその存在を失し、中空に差し伸べられていた手が渦巻く気流に翻弄される。
 あか、あか、あか、赤。
 視界を染めるのはただその色だけ。
 どこが上で、どこが下なのか。ともすれば感覚の全てを手放してしまいたくなる衝動に、碧海は必死に耐えた。
 真実を知りたい、その強い想いだけが碧海を支える。
「……俺は、真実を知りたいんだ!」
 刹那、世界が鳴動した。
 放送時間を終えたテレビの砂嵐のようなノイズを撒き散らし、空間の表層を覆っていたモノが崩れ去る。
 その後に訪れたのは視界が物凄い勢いで右から左に流れていくような酩酊感。
 そうして世界は再び静寂を取り戻す。
 
「――――っ!」

 一人の子供。闇より深い真紅に瞳を染めた。
 明確になった碧海の視界の先には、小学校低学年らしきその子供の姿があった。
「あ……っ!」
 父と母と、子供。
 微塵の感情も伺えぬ、まるで白い面を被ったような表情の子供が無造作に目の前に立つ女性に手を伸ばす。
 子供の掌に常人では在り得ない力が集約され、不可視のそれが平然と解き放たれる――目の前の『母親』に向って。
「待っ――」
 ここは無情な夢の世界。もう碧海を護る壁はない。突きつけられるのはたった一つの真実。声は届かず、だから応えは返らない。伸ばした手も届きはしない。願う心は瓦解するより他に術はなく。
 ぐしゃり
 この世で最も不快で不吉な音を立て、母親の頭が砕ける。その様は夏の浜辺でよく見られる西瓜割の光景に酷似していた。
 それほど安易で呆気なく、人であったものがただの肉塊へと成り果てる。
 子供からは見上げるほどの体がゆっくりと平衡感覚を失い前のめりになり、糸の切れた操り人形のように倒れ込む。
 舞い散る赤い液体。それはこの凄惨な情景を前にしても眉一つ動かさない子供の全身を緋に染めた。
 ふと、子供は自分に降り掛かった頬を濡らす生温いそれを手の甲で拭う。白い肌に咲く紅の華。ぽたりと柔らかな黒髪から滴り落ちた雫が、また一枚花弁を増やした。
「――ぃ……っ」
 まだあどけない唇が僅かに開き、中から子供の瞳と同じ色をした小さな舌が覗く。そして興味深げに、自分の手の甲をぺろりと舐めた。
「イヤだっ……いやだっ!! もう見たくない!!」
 カラカラに乾ききった喉から、碧海はやっとの思いで叫びを搾り出す。
 もう瞬きする時間ほどもその光景を見ていたくはなかった。
 今しがた、自分が壊したモノの血を啜り、初めて表情を変えた子供。湿り気を帯び妖しく光る可愛らしい唇が描いたのは、嫣然とした微笑。漆黒の蝙蝠の羽を背中から生やした、堕天した者達が浮かべるに相応しい笑み。
 あれは――自分。
 過去の自分の姿。
 両親を殺したのは自分。
 柔らかく温かな生命をもぎ取って、屍に変えたのは自分。

 ナゼ、目ヲ背ケヨウトスルノ? 僕ハ貴方ナノニ。

 不意に赤い瞳と視線が絡んだ。
 妖の気配を纏ったそれが、まっすぐに問い掛けてくる。
「違っ……違わないけど……違うっ」
 逃げ出したいと、これ以上ここにはいたくないともがくのに、何故だか碧海の体はぴくりとも動かなかった。
 それはまるで断罪。決して逃げおおせることなど出来ないのだと、魂は呪縛されているのだと言わんばかりに。
「だ……誰かっ――助けてっ」


「碧海! おい、碧海! しっかりしろって!!」
 手を強く握られていた。
 深い水底から浮き上がるように、現実世界へ引き戻された意識が真の覚醒を始める。と同時に、視界が中天からぼんやりと広がり始めた。
 最初に見えたのは薄暗い天井。次は茶色の柔らかそうな髪。自分が吐く息に合わせて揺れる様が、まるで水面に踊る波紋のようだとぼんやり考え、そうしてようやく碧海は現実に戻って来たことを悟った。
「……みど……り?」
 上体を抱え起こされているのか、背中に誰かの腕の強さを感じる。薄い皮膚の下に脈打つ鼓動の気配。それはこちらが生者の世界であることを碧海に教えてくれていた。
 しかし、たった今知ったばかりの真実が、定期的に刻まれるリズムに合わせて溢れ出す。
「大丈夫かよ? んなに汗かいて」
 ようやく目を開けた兄に安堵の表情を浮かべながらも、未だ強張ったままの体に、弟の碧は眉根を寄せる。
 兄の額にはびっしりと冷たい汗が浮かんでいた。抱き起こした背中からは異様なまでの緊張感。そして先ほどまで虚空を彷徨っていた腕には、青白い血管が夜目にも明らかに浮かび上がっている。
「なんだよ、んなこえー顔して。悪い夢でも見たのか?」
 努めて明るい声を出し、碧は碧海の汗を自分のパジャマの袖口で拭う。ぴったりと額に張り付いた前髪をそっと払い除けると、そこで初めて兄弟の瞳がぶつかった。
「……夢?」
「んあ?」
 おそらくずっと自分の身を案じていたのだろう。いつもより血の気の薄い碧の頬を眺めながら、碧海は一つのことに気付く。
 自分がこうやってうなされて目覚めるたび、必ず傍にいた弟。その顔には心配の色はあっても、不審がる様子は一切なかった。
 幾度うなされ、幾度目覚めても。理由を問い質す素振りは一度たりとも。
 それは――ひょっとして……
「なぁ……碧。お前、もしかして知ってる?」
「は? なんだなんだ? 薮から棒に」
 問いかけに応じたのはいつもと変わらぬ明るい声。それはまるで「そうあらねばならない」と長い年月に渡って身に付けて来たもののように不自然に自然に聞こえた。
「碧……碧はずっと知ってた? 俺たちの両親を殺したのが誰かって」
 背中に回された弟の手をゆっくりと払い除け、兄はゆっくりと自分の力だけで己を支える。
 僅かにカーテンの合間から差し込む銀の月光が、2人の間に見えない壁を作り上げた。
「碧海ってば何いってんだか? そんなの俺が知るわけねーじゃん。だいたいその時、俺ってばババァんとこ行ってて家にいなかったろ。ほれほれ、夢に頭錯乱されてるバアイじゃねーぞー。戻って来ーい」
 目を細め、僅かに口元を歪めおどけた表情をした碧が、碧海の髪を掻き混ぜようと手を伸ばす。
「碧!」
 差し出されたのは優しい手。分かっていながら碧海はそれをぴしゃりと弾き飛ばした。そしていつもの穏やかさからは想像できない力強さで、碧の胸倉に掴みかかる。
「俺、視たんだ。赤い瞳の子供を。あの子供は俺だった。俺が殺したっ……俺が2人をっ」
「おいおい、碧海。何、夢と現実ごっちゃにしてんだか。ほーれ、あったかいミルクでもいるか?」
「母さんの頭が砕けた。俺の目の前で。俺がやったんだ。俺の力が――」
「碧海〜ぃ? なんだったらあのヤローに電話でもすっか? いや、俺ってばものすごーーーっくイヤだけど」
「誤魔化すな!」
 どんなに必死で言い募ってもさらりと笑顔で逃げようとする弟を兄は悲痛な声で叱責した。
 分かってしまったのだ、優しすぎる碧の態度で。それが自分を護るために彼がついている嘘であることを。
「……碧、お前知ってたんだな? 俺が父さんと母さんを殺したって。知っててずっと黙ってたんだな?」
 唇がかさかさに乾いて痛い。喉だって砂漠を彷徨う旅人のように水気に飢え、かすれた声しか出ず、全身が瘧に罹ったかのごとく小刻みに震えた。碧の襟元に絡んだ碧海の指に、幾つもの白い筋が新たに浮かび上がる。
 赤い夢の中、碧海の強い願いに溶けて消えた何かの壁。思い返せばあの壁はひどく優しい気を放っていたようだった。あれはきっと――
「思い出さなくていいって、いっつも言ってるのになぁ……」
 碧の声のトーンが一つ落ちた。
 碧海の視線の先には、まるで瞬時に仮面を被り変えたかのように固く重い表情の碧。
「……み……どり?」
「ったく、忘れてていーんだって」
 自分の喉下で強張った兄の指を、碧は一本一本丁寧に剥がして行く。
「みどっ―――」
 続く言葉は声には出来なかった。
 兄の指を全て優しくほぐし終わった弟の手が、何の予告もなく眼前に広げられた瞬間、碧海の双眸は焦点を失う。
 今は銀色の瞳が、わずかばかりの抵抗に揺らめいたが、碧はそれを思い描く術の構成に念を込め有無を言わさず封じてしまう。
「……まだ、目覚める時じゃねーから」
 掌に宿った力を解放する。清浄な光に彩られたそれは、するりと碧海の体の中に入り込み、赤い紅い緋い赫い闇の記憶を瞬く間に閉ざして行く。
「思い出すな、忘れてろ――忘れてて……良いから………」
 苦く、そして優しく碧は呟き、兄の瞼をそっと伏せさせる。術の効果で意識をなくし支える力を失った体を、そっと横たえ、暫くは目を覚ますことはないと分かっていながら、起こさぬよう気遣い静かに布団を掛けた。
 規則正しい寝息だけが静まり返った部屋に響く。先ほど兄弟の間を遮った銀の光が、眠りの主を慈しみ、今度は穏やかに降り注いだ。
 慟哭に支配されていた部屋が、まるで何事もなかったように、小さな気配の粒子までも整えられて行く。
 赤い夢などなかったのだ。最初から。
「おやすみ……」
 碧は音もなく兄の寝室を辞す。
 知っている。確かに。けれど、知らないフリを続ける。これからもずっと。
 弟は大事な大事な兄を護るために。

 思い出すな、忘れてろ――忘れてて……良いから………

 赤い夢はきっとこれからも何度も碧海を襲うだろう。そしてその度に碧は兄を救い出す――それは決まりごと。誰が決めたことでもないけれど。
 真実の赫い世界は、今はまだ優しい黒い闇に抱かれて眠る。
 その刻が来るまで。


『思い出すな、忘れてろ――忘れてて……良いから………』

【終】
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
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東京怪談
2004年02月17日

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