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『攻防戦〜夢の途中〜 』
那神・化楽0374

 「…で、それをネタに本でも書くの?」
 これが、頼み事をした那神への、碇女史の回答だった。
 「いえ、さすがに悪霊憑きのネタで絵本は書けないでしょう?」
 「そんな事ないわよ?少し前だって、小学生の間で学校の怪談とか妖怪ものとか流行ったりしたじゃない。今はどんどんあらゆる事が低年齢化してるから、アナタの絵本の読者達にも、そう言うモノがウケるかもしれないじゃない?」
 そうは言うものの、麗香の表情は楽しげに目が細められているから、それらは彼女の冗談なのだと容易に知れる。それを分かって那神は苦笑いをした。
 「笑い事じゃないんですよ、麗香ちゃん」
 「碇」
 即座に麗華が突っ込みを入れる。那神のちゃん付けは今更なのでともかく、下の名前でそう呼ばれる事は、月刊アトラス編集長としてのプライドと面目が微妙に傷付くらしい。那神は、今度は愉快そうに笑いながら、碇ちゃん、と言い直した。

 時折抜ける記憶や、覚えがない身体の倦怠感等に日々悩まされている那神は、少し前から精神科でカウンセリングを受けているのだが、その症状は一向に改善には向かわなかった。那神の諸症状は、精神の病ではなく、彼に取り憑いている犬神の仕業に他ならないのだが、勿論、那神本人がそれに気付いている訳はなく。二重人格とも微妙に違う那神の症状に、精神科医も首を捻るばかりだ。取り敢えずは夢遊病として治療を進めてみましょう、との進言でそれ様の治療薬や改善法を試してきたのだが。
 「でも、なかなか良くならなくて…この間も、知らない人から突然『ありがとうございます』って言われてびっくりしたんですよ。聞いてみれば、先日、俺がその人の逃げ出した飼い犬を捕まえて連れてきてくれたから、って…でも、そんな事をした記憶は…」
 「全く無いのね」
 麗香が言葉を引き継ぐと、那神は無言で頷いた。
 「でもまぁ、悪い事している訳じゃないからいいじゃない」
 「俺も最初はそう思って、自分に言い聞かせてきたんですけどね」
 【っつうか、俺がお前に『気にするな』って言い聞かせてきたんだっつうの】
 不意に、那神の中の犬神が、ぼそりとそう呟く。その声は、麗香には当然、そして那神にも届く事は無かったのだが、それでも何か感じる部分はあるのか、那神は、犬が僅かな物音に注意を引かれた時のよう、ぴくりと耳を欹てて顔を上げた。
 「どうかしたの?那神さん」
 那神の様子に、訝しげに麗香が問い掛ける。は、と我に返った那神が、情けないような表情で見事に整えられた顎鬚を撫でた。
 「…いえ、何でも。時々、何かに呼ばれるような気がするんですよ」
 「…ふぅん」
 細い指で、那神の真似をしてか、顎の辺りを撫でる麗香の表情は、何か探るようなものになっている。編集長としての経験か、はたまた女の勘か、那神の中に『居る』別の存在に気付いたようでもある。
 「ま、いいわ。で、来週の月曜日でいいのかしら?なかなか忙しい人だから、その日しか予約が取れなかったのよ」
 「構いません、こちらは言わば自由業ですからね。それまでには全ての用事を済ませておきますよ」
 「了解。…にしても、那神さんが霊媒師に会ってみたいって言い出した時には驚いたわ…」
 その時の事を思い出し、麗香はまた可笑しげな笑い声を立てた。

 ある日の夕食時。この寒い最中に何故今更、と疑問にも思ったが、那神はテレビで『壮絶!悪霊憑きと陰陽師の、生死を賭けた闘い!』なる心霊特集番組を見たのだ。多少と言わず、かなりオーバーに脚色された内容ではあったが、その中で紹介された、蛇の怨霊に取り憑かれた女性の様子に、何故か心当たりがあったのだ。那神は別に、身体を蛇のようにくねらせて畳の上をのたうったり、普段は嫌いな卵を、寄りによって殻ごと生で飲み込もうとした事もないが、何となく、液晶画面の中の女性に、己との共通点を見出してしまったのだ。
 【…そりゃ犬神だから、生卵は食わねえけどよ】
 その代わり、時折無性にユッケやレバ刺しが食いたくなる事実には気付いてはいなかった。
 ともかく、那神は一計を案じ、霊媒師か陰陽師に会ってみようと思い立ったのである。とは言え、誰に頼めばいいか悩み、自分の周囲にいる人物で、そう言う類いの事に詳しい誰かを捜したら、麗香の顔が思い浮んだのだ。
 「どうせなら、もっと色気のある事で思い出して欲しいわよねぇ。まぁいいわ。私としては、那神さんに何かが憑いてて、それを祓うまでの経緯を是非記事にしたい所だけど、友人としては、単なる勘違いで何も憑いていない事を祈ってるわ」
 ね?とウィンクを投げて寄越す麗香に、那神も笑ってそれを受け止める真似などしていたが、その中では犬神が、一人静かに焦っていたのだ。

 さて、麗香が予約をしてくれたと言う月曜日の昼。那神は約束の時間よりも相当早めに自宅を出、書いて貰った地図を元に、その霊媒師の元へと向かっていた。
 麗香が紹介してくれた霊媒師と言うのは、能力が高いのか商売が上手なのか、その世界では高名な霊媒師だった。それ故、相談者も後を絶たず、彼女のスケジュールは分刻みで動いていると言う。折角取ってもらった予約だし、また記憶が抜けて約束の時間までに辿り着けなかったとなれば洒落にならない。しかも、今回の那神の意思は強固で、麗香と会ってから今日までの間、犬神に乗っ取らせる隙を全く与えなかったのだ。犬神としては、またいつものように乗っ取って、霊媒師に会いに行かせなければ済む話だと気楽に考えていたのだが、日が近付くにつれて、那神の決心が並大抵のものではない事を悟り、遅まきながら焦っている次第なのである。
 【…まじかよ、全く…おい、俺の話を聞けよ!】
 犬神が、那神の中から叫ぶ。だがその声は、いつも以上に那神には届かない。犬神は頭を掻き毟りたい気分で低く唸った。ふと、正面から一人の女性に連れられた一頭の犬に気付く。犬神は、那神の中からその犬に声を掛けた。
 「…っと、おやおや、どうしましたか」
 いきなり犬に飛びつかれて、那神は楽しげに目を細める。女性は飼い犬を那神から引き離そうと必死でリードを引っ張っているが、妙な力強さでその柴犬は那神から離れようとしなかった。いつもはそんな事無いのに、ゴメンナサイ、と不思議がる女性に、那神は呑気に笑い掛ける。
 「いや、俺は何故だか犬には好かれるんですよ。どうしてでしょうかね?」
 それは、那神自身の性質もあるが、今のは中に居る犬神の所為なのだが。女性は、未だに那神に懐きたがる柴犬を引き摺って、会釈しながら立ち去っていく。中で犬神がチッと舌打ちをした。
 【柴程度の大きさじゃ役にたたねえか…もっとデカい図体のヤツは来ねえのか?】
 犬神が、周囲に意識を飛ばす。再び那神が歩き出すと、何やら背後から犬の咆え声がした。
 「………?」
 何気なく振り向いた那神の視界に飛び込んできたものは、こちらに向かって突進してくる大型犬の群れである。ゴールデンレトリバー、セントバーナード、果てはサモエドやワイマラナーまでいる。それらが何故かわんわん咆えながら、那神目掛けて一直線に駆け寄ってくるのだ。幾ら犬好きとは言え、この状況にはさすがに恐怖を覚え、那神は慌てて走り出した。勿論、犬の走る速度に、犬神憑きとは言え体力的にはただの人間の那神が勝てる訳はないのだが、上手い具合に空車待ちのタクシーに乗り込む事が出来、那神は、次第に小さくなっていく犬達を振り返りながら、ほっと一息をついた。
 「…お客さん、猫のマタタビみたいな、犬の好きなナンカでも持ってたんですか?」
 そう、タクシーの運転手に尋ねられるが、那神は首を捻るばかりだ。

 タクシーを降り、再び歩き出した那神。目的の、霊媒師の自宅は最早すぐそこだ。
 【デカいのも駄目なら…これでどうだ!】
 犬神の声に応えて、那神の目前に現われたのは、小さな小さな子犬だった。しかも、最近、テレビ等でも大人気の、クリーム色のロングコートチワワである。それが、テレビのCMと同じように、ん?と小首を傾げていたいけな瞳で那神を見上げてくる。犬好き+可愛いもの好きの那神にとっては、強烈なフック&ストレートのダブルパンチだ。咄嗟にしゃがみ込み、カワイイ!とチワワに向けて両腕を伸ばした瞬間、その心の隙を犬神が見逃す筈もなく、一瞬にして那神は犬神に身体を乗っ取られた。
 【…ふぅ、危ないところだったぜ……】
 額の汗を拭う真似をして、犬神が立ち上がる。ぷるぷると尻尾を振るチワワに向け、犬神がニッと笑って片手を上げた。
 【ご苦労さん!】

 「………これ、は…?」
 次に那神が意識を取り戻した時、その手には一枚の紙切れが握られていた。くしゃくしゃになったそれを開くと中には、拙い字で【じきになおるきにしない】と書かれてある。『き』の字が左右反対の鏡文字になっていたりするが、その文字は概ね、幼い時の己の字に良く似ている気がした。
 よくよく見れば、そこは自宅だった。確かめてみたが服装が汚れたり破けたりと言う事もなく、勿論怪我も無い。もう一度、紙切れの文字を見れば、その【きにしない】と言う一言が、誰かが那神に向けて「気にするな」と言っていると言うより、自分自身に向けて「そんな事、気にする事でもないさ」と言っているように思えた。
 「…まぁ、そう言う事なんでしょう」
 何がそう言う事なのかは不明だが。妙にすっきりした気分で那神はヒトツ背伸びをする。もう結構な時間である事に気付いて立ち上がり、犬達の食事を作りに、キッチンの方へと歩いていった。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
碧川桜 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年02月13日

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