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『夢幻に彷徨う過去 』
柚品・弧月1582

 自室の窓辺から、ふと空を見上げた俺の視界に、月が見えた。
 赤い赤い月だった……目の錯覚かも知れない。だが、確かにその光は赤く染まっている。
「同じですね……あの日と……」
 月明かりに照らさた風景に、虚ろなあの日が蘇り始める……そう、あの日の月は確かに赤かった……


 すっかり暗くなってしまった帰路を、僕はただ歩いていた。中学生に成ったからと言って、大して変わる筈も無いのに、母さんが僕を塾へ行く様にと急かし立て、結果僕は塾へと通う羽目に成ってしまった。週二回というペースで通うのだけど、これが堪らなくめんどくさくて僕は嫌いだった。
 別に勉強について行けて無いと言う事は無いのに、何でこんな面倒な事をしなきゃならないのか僕には分らない。
「あ〜あ、今日見たいテレビ有ったのになぁ」
 ぼやきながらテクテクと道を歩く。空を見上げて少しがっかり……空には雲がかかり、月だけが朧気に見えて居るだけだった。
「あれ?でも、何かおかしいな……」
 朧気に見える月の明りが、何時もと何か違う気がする。何と言うか、仄かに赤い様なそんな気がした。
「へぇ〜こんな事もあるんだなぁ〜母さんに聞いて見よっと」
 少し得した気分になり、僕は笑顔で駆け出した。手に持った手提げをバタバタやりながら帰路を急いだ……

 何かがおかしいと僕は思った。
「何で電気点いて無いんだろう?」
 そう、家に帰り着いて見たら家の電気が点いて居ない。腕に嵌められた時計を確認しても、別段遅いという時間では無いし、むしろ今日は早めに帰れた方だと僕は思う。
「何処かに出かけてるのかな?ちぇっ、良いなぁあいつきっと何か買って貰ってるんだろうな」
 あいつとは、僕の妹。母さんにべったりで、母さんが買い物に行く度に、何か買って貰っている。少し羨しいと言う気持ちは有るけれど、今更母さんと買い物とか行く気には成れない僕にとってしょうが無いと言えるかも知れない。
 はぁ〜と一つだけ溜息を吐くと、僕はガサゴソとポケットをまさぐり鍵を取り出す。何時も持たされて居るけれど、使うのは滅多に無い。鍵を持って玄関まで行くと、ドアがほんの少しだけ開いているのが見えた。
「鍵開いてる!?母さん無用心だよ……まさか、泥棒とか入ってるんじゃ……」
 僕の体に緊張が走る。
『警察に行くべきか?いや、でもまだ泥棒が入ったと決まった訳じゃないし……取り合えず確認しないと』
 僕しか居ないと言う事実が途端に現実を帯びてくる。緊張と恐怖があるが、確認しなければならない……僕の頭にはそれだけが有った。
「良し……行ってみよう……」
 ゴクリと喉を鳴らし、呟くと僕は恐る恐るドアのノブに手を伸ばした……

 一歩一歩、暗がりを歩いて行く。電気を点ければ良いのだろうけど、何故か電気が点かなかった。帰って来るまでに、他の家の電気は点いていたから、停電と言う事は無い筈なのに家の電気は点いてくれなかった。
 そんな中、足音を殺しリビングへと向かう僕の耳には音が聞こえる。誰も居ない家が静かなのは知っていた。けれど、その静けさの中に何かの音が混じっているのを僕は聞いていた。
 クチャ……ジュブ……ズズズ……ガリュ……ハァ……
 恐怖があった。だが、此処に居るのが僕一人……その事実が僕を動かしていた。床を踏みしめる度に、音がしない事を願い、リビングまで来る。
 何時もなら直ぐの距離が凄く長く感じた気がして、ゆっくりと息を吐き出す。その間にもあの音は聞こえている。音のする方向から考えて、リビングより先にある、居間の様な気がした。
 ペチャ……ジュルル……ブシュ……クチャクチャ……
『一体何が居るんだろう?何してるんだろう?』
 そんな考えが頭を過ぎる。僕は怖さを押し殺し、ただ使命感にゆっくりと居間への道を踏み出す。一歩一歩、確実に近付いて行く。それと同時に、音も近付いて来る。
『間違いない。居間なんだ』
 確信と共に、僕は足音を殺し少しだけ歩くのを早める。緊張により、永遠とも言える時間を乗り越え、僕は居間の襖の前に静かに立っている。
 音は、その中から聞こえて来ていた。
 ガリュ・・・クチャ・・・ブッ・・・ハァ・・・ジュル・・・グジュ・・・ブチュ・・・ペチャペチャ・・・
 何かを食べて居る、そんな感じの音に思えた。ずうずうしい奴だと、僕には思えた。此処まで来れば、確証はあるのだから、警察に連絡をすれば良い。だけど、僕には何を食べているか気に成った。
 そっと襖に手を掛け、音がしない様にゆっくり少しだけ開く。そして、その隙間から僕は居間を覗き込んだ……

 初め、それが何なのか分らなかった。電気が点いて無い所為で、良く見えなかったからだ。だが、外からゆっくり差し込んで来た赤い月明かりが、僕に分らせた。
 床に這い、一心不乱に肉を食う。骨をむしゃぶり、肉が無くなれば辺りに放り投げる。溢れる血を、飲料代わりに口を付け啜る……月明かりの所為だけでは無い、居間は血で赤く染まり、血臭が支配し、肉片が壁にこびり付いている……その光景はとても僕には現実とは思えなかった。
 僕は一気に襖を開けると、そいつを見詰めた。いや、正確にはそいつが食っている物を見詰めた……見覚えのある服……最早手だけになった左手の薬指に見慣れた指輪……左半分を食い千切られた顔……紛れも無い……母さん……
「ククク……マダ……イタノカ……ウレシヤ……」
 ニタリと笑みを浮かべそいつが言う。その隣に、もう一つ、倒れている姿……妹だった……
 思考を様々な物が流れて行くのが、僕には分った。困惑……憤慨……驚嘆……悲嘆……恐怖……呆然と見詰める僕の口から、言葉が漏れた。
「一体……何をして居るんだ……」
 酷く冷めた声だと僕は思った。自分の声とは似ても似つかない低い声……そいつは、またニタリと笑った。
「クウ……ヒトヲ……タマシイヲ……ソシタラ……オレ……ニンゲンニナレル……」
 クックックと含み笑うそいつの目が、煌々と赤い光を湛えている。月の光の赤の中にあっても、その光ははっきり分った……狂気に狂う瞳に見えた。
「……そんな……下らない事で……母さんを……あいつを……」
 意識が飛びそうな程の憤慨が込み上げて来る。恐怖は無論ある。だが、それを凌駕する怒りが有った。「オレ、ニンゲンニナル……ダカラ……オマエモ、クウ!オマエモ……クワセロ!!」
 ニタリとした笑みの口から、叫びと共にそいつは襲い掛かって来た。血に染まった鋭い牙と、鋭く伸びた爪を見せ付ける様に、一気に間合いを詰めてくる。
「うわああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
 叫び爪の一撃を何とか避けて、僕は居間へと転がり込んだ。撒き散らされた血で体が染まる中、食まれた母さんを見やれば、その胸に残る爪痕。怒りと恐怖が僕を悔しさへと追い立てる中、そいつは再び叫びながら襲い掛かって来た。
『死ぬ!?僕も、死んじゃう!?』
 ひどくゆっくりした時間が流れる。そいつの動きが、まるでスローモーションの様に近付いて来る。
『嫌だ!!死にたく無い!!このまま何も出来ずに終わるなんて、絶対に嫌だ!!』
 恐怖と悔しさから、涙が頬を伝うのが分る。ぼやけた視界にそいつの爪が伸ばされるのが見えたその瞬間、僕の中で何かが弾けた……

「ギャウ!?」
 そいつは、悲鳴を上げて吹っ飛んだ。交わし様に放った俺の蹴りがそうさせたのだ。
「許さんぞ……お前だけは!!」
 そう言い放つと俺は未だ体制の崩れたそいつ目掛けて間合いを詰める。驚愕を浮かべたそいつの懐まで一気に詰めると、拳と蹴りの連撃を浴びせる。必死に防ごうとするそいつの防御を掻い潜り、拳が蹴りが叩き込まれて行く。俺の目には、そいつの動きがまるでスローモーションを見るかの様に見える。防ごうとするより早く、逃げようとするより早く、拳を、蹴りを叩き込んだ。
「うおおおおおおおおぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
「アッ!?ガッ!?グィ!?ギュィ!?……」
 まるで踊らされているかの様に、体を打ち付ける衝撃に揺れるそいつ。俺は吼えながら、最後の一撃に拳を握る。纏わり収束して行く白銀の気−そして−
「うおあぁ!!!!」
 気合い一閃、打ち付けられた拳の衝撃で居間の襖を突き破り、そいつは廊下の壁に激突した。
「はぁ……はぁ……」
 肩で息をしながら、俺はそいつを見詰めた。急速に俺の体から力が無くなって行くのが分る。恐らく殆どを使い切ってしまったからだろう。だが、俺は警戒だけは緩めない。
 視線の先で、そいつがヨロリと壁から身を起し、爛々と輝く狂気と怒りを湛えた瞳を向けていた。
「アキラメナイ!!オレハ!!ゼッタイニ!!ゼッタイニ!!ゼッタイニ!!ニンゲンニナル!!!」
 血を吐き出しながらも、そいつは吼えると、傷付きながらも素早く玄関へと向かって行く。
「くっ!?待て!!」
 抜けていく力に歯を食いしばりながらも俺はそいつの後を追い廊下へと出る。しかし、後に残ったのは開け放たれたドアだけだった……


 俺の記憶は、そこで終わっている。次に気付いた時は、親戚の家の離れだった。兄のホッとしたような顔を今でも覚えている。
 そこでの生活は、とても平和で静かなものだったが、俺には疑問が……どうしても分らない事があった。
 俺の名前は、弧月の筈なのに親戚は俺の事を『春季』と呼んでいた。理由は俺には分らない。兄は知って居そうな感じだったが、何も教えてはくれなかった。
 記憶を遡ってみても、どうしてもそこだけが思い出せなかった。俺の中で何かが失われていたのかも知れない……漠然と思う中で、あの怪物に……あいつにもう一度会う事が出来れば、失われた何かが埋まるのかも知れない……そんな風に想っている。
 窓から見える、赤い月……流れる時に身を任せて、俺は静かに目を閉じる。
「何時か……きっと……」
 呟きが、夜の静寂に消えて行った……




PCシチュエーションノベル(シングル) -
凪蒼真 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年02月12日

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