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『Happy Valentine's Day 』
森村・俊介2104)&七瀬・雪(2144)

 2月14日。
 人間社会の、とりわけ日本では女性にとって特別とされる今日この日、まさしく神に見放されたかのごとく、次から次へと怪事件に巻き込まれている一人の青年がいた。
 一つ一つは、笑えるほどに些細なことなのだ。
 例えば、朝、自宅マンションの駐車場に行くと、なんと泥棒が入り込んでいて、車両のタイヤが四本とも盗まれてしまっていたとか。
 やむを得ず、地下鉄に乗ると、いきなり飛び込み自殺に出会して、二時間もそこが不通になってしまったとか。
 街に出ればしつこい女性ファンに追いかけ回されるし、またこういう都合の良くないときに限って、不肖の弟子が、破門を取り消してくれと泣きついてきたりもする。
 繁華街の地下に入った途端、ぐらぐらと震度6の地震に見舞われたときなど、もしかすると、今日が自分の命日になるのではと、一瞬、本気で考えたほどだ。
 神様に嫌われているのは知っていたが、それにしても、タチが悪い。人災なら避けようもあるが、天災が相手では、如何ともし難いではないか。
 ともかくも、天は、よほど森村という人間を、部屋の外には出したくないらしい。
 当てにならない大凶おみくじも、あながち大ハズレではないなと、魔術師は、本日十回目を数える溜息を吐き出した。目指すコンサートホールは、近いようで遙かに遠い。
「これは、下手をしたら間に合いませんね……」
 何とかタイヤを調達して、自分の車を動かすことには成功したが、時間は容赦なく迫っている。いつもの森村なら、強引に突っ走ってでも遅刻は避けるところだが、今日はとにかく分が悪い。
 猛スピードで飛ばそうものなら、たちまち速度違反でパトカーに捕まってしまうだろう。冗談ではなく、確信がある。森村は、良い予言にはあまり縁のない人間だが、基本的に悪運には好かれやすい質なのだ。仏滅と葬式が重なったような不吉すぎる今日この日、無茶をするのは、どう考えても得策ではなかった。

「今日、演奏会が終わったら、すぐに東京を発つことになります。その前に、森村さんに渡したいものがあるのです。お願いします。是非、来て下さい」

 雪の演奏をA席で心行くまで楽しんで、その後、地方に旅立つ彼女を見送ることになっていたのだ。
 それなのに、実際は、演奏会にも間に合わず、もたもたと渋滞の道を走っている。
 物事をあまり自分から頼まないはずの雪の、いやに真剣な表情も気になった。何か、言いたいことがあったはずなのだ。来て下さい、と、わざわざ念を押してくれたのに、これ以上の時間は無駄に出来ない!
「仕方ない……ですね」
 多少の無茶にも目を瞑るしかない。
 森村が、ぐんとアクセルを踏み込んだ。前を走る車両を三台ほど追い越し、横にそれる。東京の地理を頭の中に叩き出し、即座に、最も交通量の少ない道を選んだ。さらにスピードを上げる。案の定、背後に、パトカーのサイレンの音が聞こえた。
「恨まないで下さいよ。こっちも急いでいるのですから」
 振り切った。
 悪運も、本気になった魔術師には、敵わなかったようである。

 



「森村さん……遅いですね……」
 演奏会が終わっても、魔術師は来なかった。
 次の移動のための時間が、容赦なく迫っている。あと十分も待てば、限界ぎりぎりに達してしまう。時計の音が、いやに大きく聞こえた。がらんと殺風景な控え室に、無遠慮に響く。
 廊下を走る足音が聞こえた。雪が腰を浮かせる。待ち人が現れたのかと思ったのだが、そうではなかった。靴音は、雪の控え室の前を、そのまま素通りしてしまった。
「違う……」
 思わず、苦笑する。
 もう一時間以上も、雪は、こうやって、足音を聞く度に立ったり座ったりを繰り返していた。
「あと…………五分」
 また、遠くから、足音が響く。
 雪は今度は立たなかった。正直、諦めかけていたのだ。きっと、また、ドアの前を通り過ぎてしまうに違いない。
 今日はもう止めて、地方から戻ってきた時に、改めて渡そうか。そう考えた。考えたが……やはり、どうしても、今日がいいと未練が残る。14日だから意味があるのだ。友人たちもそう言っていた。他の日では、駄目なのだと。
「雪さん」
 ドアが開き、魔術師が駆け込んできた。
 およそ焦るなどという事の無さそうなこの男が、珍しく、息を切らしていた。袖を通しただけで前も開け放しの黒いトレンチコートが、肩や胸の動きにあわせて揺れている。
「森村さん!」
「ひどい目に遭いましたよ」
 面白くも無さそうに、魔術師が呟く。
 いつもと明らかに雰囲気の違う森村に、逆に雪は戸惑った。雪は、これまで、彼の穏やかな部分しか目にしていないのだ。何からも超越していつも悠然と構えている魔術師も、つまりは人の子なのだということを、いつの間にか、失念してしまっていた。
「ごめんなさい……。今日がそんなにお忙しかったなんて、知らなくて。無理にお呼びしてしまって……」
「今日は一日暇でしたよ。忌々しいことばかり、続けざまに起こってはくれましたが」
「何か……あったのですか?」
「貴方の主に大いに邪魔されましてね。嫉妬深いのか、何なのか……」
 失言をしている、という自覚は、森村にもあった。だが、腹立たしさが、全てに勝る。もともと、森村は、いつも、三割の力で何でも無難にこなしてしまうような人間である。振り回されることに、慣れていなかった。
「森村さん……ひどいこと仰いますね」
 雪が、彼女にしては珍しく、こちらも眦を吊り上げる。
 彼女は、主の御許で生まれ、主の御許で育った天使だ。父がいかに公正な存在かを、生まれながらに知っている。嫉妬という醜い感情に神が見舞われるはずがないと確信しているし、そもそも、彼は、地上の営みに口など挟まない。
 神とは、ただ、そこに在るだけの律なのだ。それをどういう風に捉えるかは、全て、人の心がけ一つで決まるものである。

「主は、誰の邪魔をしたりもしません」
「…………そう言えば、そうでしたね」
「いつも見守っていて下さいます」
「…………そうかもしれませんね」

 雪が、不意に、顔を曇らせた。
「森村さんは、主が、お嫌いなのですか?」
 森村は、それについては、具体的な返答を避けた。

「時間、大丈夫ですか?」

 はっと雪が我に返る。そう。飛行機のフライト時刻が迫っているのだ。喧嘩している暇など無い。
「あ……あ。大変! ……あの、森村さん、これ……」
 雪が、旅行用の荷物の中から、袋を取り出した。菓子の包みにしては、随分と大きい。中には、チョコレートの他に、グレーのマフラーと黒い手袋が入っていた。
「開けても構いませんか」
「こ、ここでですか?」
 雪が目に見えて動揺する。
 何を慌てているのだろうと思いつつ、森村は、雪の返答を待たずして、箱のリボンを解いた。もらえるだけでも大金星なのに、チョコレートは、手作りだった。ブラックチョコレートの板に、ホワイトチョコレートで、綺麗な模様が描かれている。
 魔術師は驚いた。楽譜なのだ。五線譜に、ト音記号。たくさんの音符が、シャープやフラットとともに、黒い譜面上で楽しげに踊っている。
「……食べるのが、勿体ないですね」
 そんな感想を漏らしつつ、魔術師は、板の端の方を割り、何かを言いかける雪の口の中に放り込む。森村さんにあげたものなのに、と、思わず睨んだ雪の顔をいやに楽しげに一瞥すると、素早く唇を重ねた。
「…………!!」
 雪が驚いて身を引いた時、彼女の口の中から、チョコレートは消えていた。甘い後味だけが残る。魔術師が、雪の前で、ぺろりと小さく唇を舐めた。
「……美味しいです。さすがは雪さん」
 今度こそ、雪は真っ赤になった。怒りか、照れか、自分でもわからぬままに、そっぽを向く。荷物を持ち、くるりと回れ右をした。
 この時になって、ようやく、飛行機のことを思い出した。予定の時間は、見事に過ぎ去ってしまっていた。
「あ…………」
「今からでは、間に合いませんね」
 全く慌てる様子もなく、森村が呟く。確信犯的な微笑を浮かべた。
「飛行機の代わりに、現地までお送りしますよ」
「あの……何か、騙されたような気がするのは、気のせいでしょうか……」
「気のせいでしょう」
 言下に言い切られると、雪としても、それ以上は反論のしようがない。また、飛行機に置いて行かれたのは、紛れもない事実である。足になってくれるという青年の申し出は、素直にありがたかった。

 本当に、何故か、騙されたような気がしないでもないのだが。

「今度行く所、温泉があるんです。仕事が終わったら、せっかくですから、入ってこようと思うのですが……森村さんも一緒にいかがですか?」
 雪のありがたい申し出を、森村が断る理由はない。二つ返事で了承した。
「良かった」
 にっこりと、雪が微笑む。まさしく天使の笑顔だが、次に彼女が何気なく口にした言葉は、魔術師を驚かせるには十分すぎる効果を持っていた。
「私、実は、凄い酒乱で……飲むと暴れてしまうのです。止めて下さいね。森村さん」
「ほ、本当ですか?」
 らしくもなく、森村が慌てる。何しろ、雪は人間ではない。天使である。当然、人ならぬ不可思議な力を持っている。そんなものを使って暴れられたら、いかに森村といえども、平穏無事に済ます自信はない。
「冗談です」
 …………どうやら、からかわれたらしい。
「…………雪さん」
「温泉、楽しみですね」
 溜息混じりに、森村が、わずか数日間の仕事でどうしてここまで、というくらい驚異的に膨らんだ雪の荷物を、手に取った。こんなタチの悪い冗談を彼女が口にするなんて…………もしかして、自分の悪い影響かと、甚だ不安を覚えつつ。

「おあいこですよ。俊介さん」

 先に歩き始めた魔術師の背中に、天使が、楽しげに声をかける。
 これもいいかな、と、青年は思った。こんな他愛ない遣り取りだからこそ、その一つ一つが、愛おしくさえ感じられる。

「俊介さん、薄着していたら、風邪ひきますよ?」

 雪が、森村の前に来て、爪先立ち、マフラーを巻いてくれた。
 
「……ありがとうございます」

 間もなく訪れる、春の足取りを、一足先に見たような…………優しい時間だった。





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2004年02月12日

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