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『猫 』
橘・都昏2576)&雨草・露子(1709)


 4時間目の国語は、沈黙が多い。
 教科書黙読の時間が与えられもするし、分厚いテキストを解くために与えられる時間も充分すぎた。教師が定年間近の呑気な男だからなのかもしれない。
 いつもいつも、国語の時間は退屈だった。都昏はいつでも暇を持て余す。教師すら、後ろ手を組んで窓の外に広がる校庭をぼんやり見つめていた。
 前の席を見れば、小さな背中が視界に入る。露子だ。それに少しうんざりして、都昏は教室の隅に目を移した。ゴミが溢れ出しそうなゴミ箱があった。
 橘都昏と雨草露子は、都昏にとってはちょっとした不運で、露子にとっては幸福なことに、同じクラスだった。このクラスでは席替えをするとき、自分が好きな席を選択出来る。いつも、一番前の席は不人気だ。
 ――みんな馬鹿だな。一番前のほうが、先生の目に入りにくいのに。
 都昏は大概、一番前の列か、前から二番目の列を選んだ。そして、都昏がどこを選ぼうが、彼のすぐ後ろや前の席を、雨草露子が希望するのだ。男子の隣には女子という最低限の制限があるから、都昏は露子と並んで仲良く勉強するという事態に巻き込まれずにすんだ。しかし、隣同士になっていないということだけが、何の助けになるだろう。露子と都昏は、周りから見ると充分『仲がいい』のだ。
 にぃ……
 ぴくり、と都昏は我に返った。
 自分以外に、それを聞いたものはないようだ――都昏はそう考えたが、すぐにそれを改めた。それが聞こえた途端、露子の小さな背中がびくりと一層小さくなったのだ。
 無言で都昏は金眼を細め、前の席を半ば睨みつけた。
 露子の机の中には、いつもはノートやテキストが律儀に入っているはずだが――今日は、ほとんど空に見える。
 みぃ……
 間違いない。その音は、露子の机の中の闇から聞こえてくるのだ。
 ――馬鹿だな。ほんとに、こいつは馬鹿だ。
「はい、やめ」
 上手い具合に、露子がおどおどし始める前に、年老いた教師の号令がかかった。教室のあちらこちらから溜息を漏れた。露子の溜息は、人一倍大きかった。
 勿論、都昏のものも負けてはいなかったが。


 今日は、寒い。
 空も冷たいし、風も凍っている。


 昼休みに、都昏は中身が溢れ出しそうなゴミ箱を抱えて、校舎の裏手に向かった。ゴミ箱の様相が見苦しいものになったら、日直が校舎の裏手にあるゴミ捨て場にまとめて持っていくのが決まりだった。
 ゴミ捨て場の隣には焼却炉がある。近頃ではダイオキシンの発生が問題視され、都昏が通っているこの中学校でも、すでに何年も前から焼却炉は使われていなかった。
 しかし、火を入れてゴミを燃やす目的には使われずとも、くだらない遊びにはまだ役立っている。雨草露子をはじめとしたいじめられっこの持ち物が、時折この焼却炉の中に突っ込まれているのだ。
 都昏は一度、露子の上履きをここから見つけだした。そのときも彼は、入れた人間や入れられた人間を馬鹿だと心中で罵っていた。
「……雨草」
「あっ、……あ、……た、橘くん……」
 その雨草露子が、また焼却炉の前にいた。都昏はわずかに顔をしかめて、いつもの調子で毒づくのだ。
「また、何かやられた?」
「え、あっ、や、やられたって……?」
「……聞き返すってことは、違うんだな。……あ」
 にぃ――
 露子の足元に、小汚い猫がうずくまっていた。精一杯の威嚇を、都昏に見せつけているかのようだった。都昏はまたしても顔をしかめた。べつに猫は嫌いではないが、敵意を剥き出しにされてはいい気持ちがしないもの。
「――やっぱり」
「し、知ってたの?」
「4時間目、鳴いてたからね。机の中に突っ込むなんて、何考えてるのさ」
「……それは……だって……放っておけなかったんだもの……」
 露子は、苛立ちと不安を誘う語り口で、猫を拾った経緯を説明した。都昏にとっては、よくある単純な話で、露子がやりそうな話としか捉えられなかった。要するに、登校中、河川敷の片隅の段ボール箱に入っていたのを拾い上げてきただけのことだ。
「冬だし……まだ、小さいし……」
「先生に見つかったら、どうするんだよ。……怒られることくらい、君、わかるだろ。前に犬が入ったときは、大騒ぎになったじゃない。猫も犬も同じだ。放しなよ」
「……」
 露子は唇を噛むと、明後日の方向を恨めしげに見つめながら黙りこんだ。
 都昏の心の中に、冥い焔が宿る。音もなく燃え上がり、露子を食らい尽くそうとしていた。
「……じゃ、勝手にしたら」
「! ち、ちょっと、まって」
「……なに?」
「……ど、どうしたら、いいかな……」
 いつもこうだ。彼は自分で何かを考えようとはしない。いや、考える力はあるのだが、都昏がそばにいるとひとまず都昏を頼るのだ。都昏は思わず露子を睨みつけた。露子は金の視線にたじろいで、小さくなった。怯える栗鼠を前にしても、角の生えた狼の態度は全く変わらなかった。
「知らないよ。……でも、僕なら机の中になんか突っ込まないね。本当にその子のこと、考えてるならさ」
 ――馬鹿じゃないの? ほんとに馬鹿だね。馬鹿は馬鹿を見るんだ。そして、自分が馬鹿をやったことに気づかないのさ。
 都昏は空になったゴミ箱を乱暴に掴むと、今度こそ踵を返した。
 みぃ――
 出来れば、耳を塞ぎたかった。
 ――馬鹿だから気づかないんだ。僕じゃなくても、きっと気づく。あいつは馬鹿だから、わかってないんだ。
 あの、薄汚い猫の、目ヤニだらけの眼には、光がない。毛並みにはつやがなく、ぱさぱさと乾いている。仰向けに転がしてみなくとも、あばらが浮き出て、四肢に力が入っていないことが見て取れた。寒さと餓えに痛めつけられているのだ。あの猫はもう助からない。今になって温かいミルクと毛布を用意してやったところで、手遅れなのだ。
 都昏は、長い前髪の奥からそれを見た。
 近い死を見たし、それを知らない純真さを見た。
 露子の中のあの子猫は、見る見るうちに元気を取り戻し、ごろごろと喉を鳴らして、毎朝顔をあらうのだ。
 ――ぜんぜん意味ないじゃないか。今さら優しくしたって、何にも返ってきやしない。
 馬鹿だ。
 馬鹿だ。
 馬鹿だ。
 都昏は乱暴に、ゴミ箱を教室の定位置に戻した。間抜けで、馬鹿な音がした。


 放課後、都昏はまたしても露子を見てしまった。日誌を職員室に提出した帰り、校舎裏が見える窓から。
 露子は、焼却炉の中から猫を出していた。猫はぐったりとしており、尾すらも動かさず、露子の制服に爪を立てようともしなかった。
 都昏は唇を噛んだ。知らず足は露子を追って、視線は冷たく露子を追っていた。露子に見つかって色々と話しかけられ、最終的に頼られるのはごめんだったが、都昏は隠れようとは思わなかった。隠れずとも、今の露子には周囲がよく見えていない。
 露子が向かうのは、保健室だ。「のろまで、気が弱くて、名前まで女みたいな」と有名な露子が、走っていた。血相が変わっていた。
 ――当たり前だろ。その猫はもう弱りきってるんだ。寒空の下に捨てられて、何日も何も食べてなくて、誰かさんに机の中と焼却炉の中に突っ込まれてさ。
 猫はもう、鳴く力さえ持っていないだろう。さすがの露子も、異常に気がついたはずだ。馬鹿だから、「病気になったら保健室」という発想しか思い浮かばないのだ。保健室は具合を悪くした人間が、少しだけ休むところだ。弱った猫を救える場所ではない。露子は、保健室の保険医ならば何でも出来ると思っているのだ。きっと、そうだ。
 自分では何も出来ないけれど、何かしてやりたいから、何か出来る人間を頼るのだ。そばに都昏がいたら、都昏を頼っていたに違いない。
 都昏は唇を噛んだ。昼休みに生まれた焔の勢いがますます強くなっていく。

 ――何だろう、この気持ち。

 露子が、保健室の中に駆けこんだ。

 ――そうか。

 ほとんど動かない猫は、保険医の手に移った。

 ――僕はあいつがうらやましいんだ。

 珍しく、早口で事情を説明している露子が、ドアの向こうにいる。

 ――あいつなんかが。

 助かる? 助かるよね? きっと、元気になってくれるよね?
 ええ。大丈夫。あったかくして、ミルクを飲ませてあげましょう。
 ありがとう、先生。僕、飼うから。絶対面倒見るから。
 ほんとうに? 生物を飼うのは大変なことよ。それに、この子はまだ小さいわ。3ヶ月くらいかしら。
 信じてるんだ。先生なら絶対この子を治してくれるって。だから先生、僕も信じてよ。
 あら……頼もしいわ。今日の雨草君は、ちょっと違うわね。
 この子、治るよね?
 出来る限りのことをしてみるわ。

 ドアの向こうで、露子が微笑む。
 心の底からの安堵と希望が滲み出ていた。

 ごオうっ!

 焔が、心を灼き尽くす。隙間だらけのその心は、金の目の少年のものだ。

「そんなに、笑うな」
 都昏は目を背けて、吐き捨てた。
「何で、笑うんだ」
 あの猫は、もう助からない。
 くッ、
 知らず彼は、そばにあったゴミ箱を蹴り飛ばしていた。
 馬鹿で間抜けな音がした。ゴミ箱の中は、すでに廊下掃除係が出した後だったらしい。ゴミ箱の中は空っぽで、賑やかなのは下駄箱の周辺だけになっていた。


 都昏は露子が保健室から出て来る前に、学校を出た。
 彼は、逃げてしまったのだ。
 夕暮れの外は、昼休みのときよりもずっと寒かった。風は、頬を切るようだ。
 ……あと1日、露子が、河川敷の段ボールに気づくのが遅れていたら。
 ――きっと僕は、こんなにイライラしなかったんだ。
 あの猫が死のうが生きようが、今日の都昏の心が塗り返されることはない。
 ――もし僕が、露子より先に、猫を見つけていたら?
 答えはわかりきっている。どうせ死ぬ命に、自分が必死になって駆けずり回ることはない。自分が走り出すのは――
 こうして、苛立ちを紛らわせるため。
 そして忘れようとするためだ。

 都昏は今や、走って逃げていた。




<了>
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2004年02月09日

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