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『―胡蝶― 』
柏木・アトリ2528)&大神・総一郎(2236)


緋と金色(こんじき)が乱舞している。
華麗に舞うは胡蝶の精。
其れは最早人で在って人為らず、アトリの観る目に映るのは春を謳う場となっていた。


笛が謳い、太鼓の四重奏が紡ぎ促す。

嬌。

嬌。

魂。

魂。

紅梅に戯れる喜びが胡蝶の命の芽吹き。

嬌。

嬌。

魂。

魂。


「胡蝶」は幽玄能とは称されないが、では此の舞をなんと称すればよいのだろう。
早春にのみ咲く紅梅を慕い恋焦がれ、其れを想って已まない姿にふと自分を重ねてみる。
旅の僧に依って紅梅との縁を持ち、喜悦に満ち華麗に舞う胡蝶の精。
其の喜びが此れほどにも胸に伝わってくる。
いつでも恋する者にとり、焦がれる気持ちは甘美な痛み。
其れが成就した胡蝶の歓喜はいかばかりか。


舞手の袖が翻り、頂く金冠が煌き、紅梅を想う。
紅梅は凛とし、静かに其れを見つめて立つ。



――春夏秋の花も尽きて、霜を帯びたる白菊の、花折り残す枝を廻り、廻り廻るや小車の、
   法に引かれて仏果に至る、胡蝶も歌舞の菩薩の舞の、姿を残すや春の夜の、
   明け行く雲に羽打ち交し、明け行く雲に羽打ち交して、霞に紛れて失せにけり――



我知らず涙が頬をつたわっていくのにアトリは気づかず、其のまま夢幻の舞に魅入っていた……。





ロビーへ出ると、そこには裏口へ走っていく女の子たちが沢山いた。
皆一様に綺麗に包装された包みや袋を持ち、はしゃいでいるようだ。
そんな様子を見て柏木・アトリ(かしわぎ・あとり)は小さく溜息をついた。

「ここは走るところではないのに……。」

これではせっかく夢幻の世界に浸っていたのに興ざめてしまう。
そう思いつつも手にした包みをぎゅっと抱きしめた。


―今日は二月十四日。

一般的にはバレンタインデーといった方がわかりやすいだろう。
折りしも神想流能楽堂にて春の特別公演が催された。
題目「胡蝶」。
シテは今若手能役者の第一人者と云われる大神・総一郎(おおがみ・そういちろう)。
その卓越した技の冴え、指先に至るまでの舞の表現に、古典芸能故の辛い筈の評価も高い。
また秀麗な容姿に人気も高く日本全国に能ブームを起していた。
弟と舞う舞台はその幽玄、荘厳さに神をも足をとめると評され
この兄弟の出演する公演は従来の能愛好者だけでなく、若い女性の姿も多くなった。
が、然し……


「ねぇねぇ、大神総一郎ってどこにいた?」
「わたしもわかんなかった。お面被ってたのがそうなのかな。」
「この“シテ”ってなんだろね、ここに名前あるけど。」


パンフレットを見ながら通り過ぎていくファンの言葉にまた溜息。
能を鑑賞しに来ていながらそれさえも勉強していないのか。

(お面じゃなくて“面(おもて)”、それに“大神総一郎さん”、でしょ)

総一郎のみの目的でなくて、きちんと能も鑑賞してほしい。
そうでないとあの舞が色褪せてしまう。
もともと古典芸能に興味を持っていて、昔から大神兄弟の事を知っていたアトリには
能の幽玄さを無視されるような言動に哀しかった。
またこれまでずっと見続けてきていたので、自分のこの気持ちが浮ついたものではない事を知っている。
それにそれはとても小さいけれど、総一郎と自分とを繋ぐものがある。
ほんの僅かなものだが、その接点さえもが嬉しい。
アトリはそれを少し意識してこそばゆくなった。

それにしても今日の舞の華やかさはどうだろう。
あれ程までに喜びに溢れた胡蝶の精は、見るものを微笑ましくさせてくれる。
舞手は胡蝶の喜びを知っているのだろうか、恋慕うものの気持ちを……。


―――。


建物の裏手の方から女性達の嬌声が聞こえてきた。
物思いに耽っていたアトリは我に返る。


「あ、私も……、」


実は駄目で元々、とアトリもバレンタインのチョコレートを持ってきていた。
渡せなくても相手のことを想いつつチョコレートを作るのはとても楽しかった。
自分の作ったチョコを総一郎に貰ってもらえる、そう考えるだけで幸せになった。
もし渡せるのなら、そんな事があるのなら……。
走り出そうとするアトリの耳に次々と嬌声が飛込んでくる。


「ちょっと、大神総一郎、頬被りしてるわよ!」
「きゃー、大神総一郎が走ってるー!」
「あっちにいったー!」


聞こえてくる情報は常に落ち着いた雰囲気の総一郎らしからぬ様子のようだ。
もしや逃げているのだろうか。
それでもとりあえず裏手へ向かおうとした。
するとその進路方向に
威風堂々とし、その周囲だけあきらかに雰囲気の違う
紬地の着物姿の男性が目に入る。


「……馬鹿者が。」


その長身。
その容貌。
その風格。
普段着ている、着物に袴姿と違う着物に羽織の対の姿は――


「……そ、総一郎さん、」


急に己が名を呼ばれ訝しむは、大神総一郎その人であった。





夢にまで見たあの総一郎が、今目の前に立っている。
夢にまで見たあの総一郎が、今呼びかけに反応している。
夢にまで見たあの総一郎が、今自分を見ている。


「……え、見て……って……あ……!」


小さいながらも細く鋭い悲鳴がアトリの口から発せられ、それを押えるように口に手をやる。
ところがその拍子に手に持っていた荷物やら包みやらが全て落ちてしまった。
真っ赤になりながらそれらを拾うアトリの姿を、総一郎は暫く見ていたが
やがて自らも散らばった物を拾うのを手伝った。

何やら最近自分のまわりが煩くなり、何処へ行くにも人(主に女性)が多く辟易していた。
本人には周囲の騒ぎの原因である自覚が無く、彼なりに難儀していたのだった。
然しこの髪の長い娘は、そういった彼らとは少し毛色が違っているように思えた。
理由は無い、彼特有の勘からくるものだ。

最後に使いこなしているらしい古ぼけたノートを渡す。
受け取りつつ何度も頭をさげる姿に総一郎は少し警戒心を解いた。
おっとりとしたその性格は自分をも落ち着かせているのだろう。
然し不思議と違和感は感じなかった。
余程この娘は育ちがよいのだろう、そう、ふと思った。
そして初対面の相手にそう思っている自分に内心苦笑する。

あまり勢い良く下げるもので、その拍子にノートに挟まれていたものが
ふんわり、と舞った。
色鮮やかな物や薄い物など数枚。
下に落ちる前に掬い上げると、それは折り紙大の紙だった。


「……和紙?」


見れば色々な手触りの和紙である。
これまでも職業柄多くの和紙物には触れていたが、これほど多くの種類は初めて見た。
総一郎の興味を持った様子にアトリはそれまでの恥かしさから一転、顔を輝かせた。


「はい、今総一郎さ……じゃなくて大神さんが手にしてらっしゃるのが
 芭蕉紙といって主に書画に使われています、沖縄で作られているんですよ。
「こちらの薄いのが鳥の子紙、文化財修理などで使うんです。
 それからこの厚い地の方は……、」


アトリはまるで水を得た魚のように、これまで収集してきた和紙の数々を説明しはじめた。
その活き活きとした表情は、本当に和紙が好きなのだと誰にでもわかる。
また説明もわかりやすく、興味をそそる話し方だ。
総一郎も思わず傾聴する。


「……では“流しずき”は日本で生まれた技法なのか。」
「そうなんです、洋紙と和紙の違いはそこにあるわけで
 流しずきのすけたを動かすことにより、原料の繊維どうしがよくからみ合い強い紙になります。
 ゆり動かすことにより繊維がきれいに並び、なめらかで美しい紙になるんですよ。」
「成る程……。然し、まさかトロロを使用していたとは……、」
「ええ、面白いですよね。」


何やら和紙談義がはじまり、場が更に和んできた。
先程よりは少しは落ち着いたアトリは、まだ名乗っていなかった事に気がつきあらためて名乗る。


「そうか、柏木さん、面白い話を有り難う。」
「いえ!と、とんでもないです!こちらこそ、聞いてくれて有り難う御座いました。
 私、つい夢中になってしまって……、」


よくやっちゃうんです、と苦笑する。
どうしても和紙や画材の事になると我を忘れてしまうのだ。
そのせいで有耶無耶に忘れていたが、何故総一郎は此処にいるのだろう。
そして先程の外の騒ぎを聞いてみる。


「あの、外にいたのは総一郎さ……じゃなくて大神さんではなかったんですね?」
「あれは、弟だ。別の場所へ誘導する等と云っていたが、かえって騒ぎをおかしくしてしまった……まったく。」


憮然として云う総一郎の横顔に吹きだしながら、
ふとアトリは先程までの舞台の上での姿と目前にいるその姿とを重ねてみる。

あの夢幻の世界で舞っていた人が、今ここにいる。
手を伸ばしても遠かった人が、今自分の目の前にいる。
“距離”という言葉が夢散したかのような錯覚に陥っていく。
己が紅梅に焦がれる胡蝶のような感覚さえ……これは……。


「……胡蝶の舞、とっても素敵でした。」


その声に総一郎は振向き礼を云う。
長身を見上げながら、アトリの心に波紋が広がる。


「前シテではとても切なくて、苦しくて、儚く見えていたのに……、」


――誰か想う人がいるんですか


「後シテでは喜びに溢れて、これ以上ないくらい美しかった……、」


――あの胡蝶のように想い焦がれる人がいるんですか


心の中で叫ぶ問いは発せられようも無く、ただその中で木霊となってはもどってくる。
人の想いとはなんと貪欲なものだろう。
求めるものが満たされると、更に次を求めてゆく。


「胡蝶の舞は深遠や幽玄とは違う、喜びの舞だと俺は思っている。
 想いがとどいた胡蝶の気持ちは、純粋な喜び以外ないのではないか。」
「……それともうひとつ。」
「?」
「勇気を出した己への褒顕。」


ほう、と眉をあげる総一郎に
アトリはそれまで大事に抱えていた包みを、両手でしっかりと差し出す。
その拍子にまたノートが落ちても、今度はそれさえ気づかない程に意識は包みへ集中している。


「あ、あのっ、これチョコレートです、受け取って……下さい。
 煩わしい意味じゃなくていいんです、素敵な舞のお礼にって云うか……お礼の気持ちです。」


いきなりのことに驚く総一郎だったが、差し出されている包みに目をやる。
やわらかなちりめん紙を幾重にし折形に則った包装様式のようである。
色も萌黄色を中心に早春を意識したらしい、慎ましくも可憐なそれに思わず目を細めた。

本来ならば初対面の者からいきなり物を受け取る総一郎ではない。
然も今日はバレンタインデー、朴念仁の彼でもその日が何の日であるかは知っている。
それはつまり彼女の気持ち、だ。
単なる憧れのようなものであれ、何であれ
人の想いを全て受け止められるほどの度量を持っているとは未だ思えず、
更に花伝書の教えに従っている身でもある。

(然し……“お礼の気持ち”とはな)

直接にぶつけてくる無遠慮な気持ちではなく、舞に対するお礼の気持ち。
その慎ましい心遣いは総一郎に好感を与えた。
それはきっと彼女の美徳なのだろう。

静かにそれを受け取る。
と、同時に顔をあげたアトリの目にみるみる涙がこみあげてきた。
突然の事に狼狽する総一郎。
涙が零れるのを堪えるアトリ。

深く一礼し、真っ赤な顔に泣きそうな笑顔をのせて、アトリはそのまま走り去っていった。
長く艶やかな黒髪が消えていくのを総一郎は見送っていた。
手に残るは『お礼の気持ち』と称する彼女の気持ち。
そして落ちたままの古ぼけたノート。
彼女こそ胡蝶のようだと、ふ、と思う。



――春夏秋の花も尽きて、霜を帯びたる白菊の、花折り残す枝を廻り、廻り廻るや小車の



走るアトリの胸に去来するものは何だろう。
喜び、だろうか。
切なさ、だろうか。
想う気持ちに押しつぶされそうになりながら、それでもそれに囚われる。



――法に引かれて仏果に至る、胡蝶も歌舞の菩薩の舞の、姿を残すや春の夜の



あとで髪の長い娘がこれを取りに来るから、と
ノートを受付に渡しながら総一郎は伝言を書く。
筆ペンで書かれた文章は短いものの、同じ小学校の後輩へチョコレートのお礼の言葉だった。
運動会で貰った景品のノート。
小学校の印がノートの後ろに微かに残っている。
慌てて取りに戻るだろう姿を想像し、総一郎の口元が綻んだ。



――明け行く雲に羽打ち交し、明け行く雲に羽打ち交して、霞に紛れて失せにけり



今は誰もいない舞台の上の紅梅は、凛としてその姿を現していた。
早春のまだ寒さの残る時期に咲くそれは、楚々とした中に芯の通った強さが垣間見える。
そして緑の綻ぶ季節が近づくと、霞に紛れて姿を隠す。
その潔さやあはれなり。

梅が香に昔をとへば春の月こたへぬ影ぞ袖にうつれる




ひとひらの金色の胡蝶がひとふり、ふたふりと微かに舞い……静かに消えていった。





―了―
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
伊織 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年02月09日

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