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『熊との遭遇 』
藤井・百合枝1873)&藍原・和馬(1533)

 藤井・百合枝(ふじい ゆりえ)は会社から漸く開放されたのを心の奥底から喜んでいた。緑の目は店先に並ぶ物たちに自然と目が行くし、軽やかな足取りに黒の髪は嬉しそうに風に靡く。
(ああ、いいなぁ)
 心の中で呟き、百合枝は笑う。
(何と言うのかねぇ……つい、色々なものを買いたくなってしまう。いけないとは思っているんだけどねぇ)
 くくく、と口元だけで笑う。仕事が終わると、つい開放的になる。財布の中身が軽くなるのも構わず、つい色々買ってしまう。
 そんな中、ふとケーキ屋の前を通った。キラキラと光に照らされて光る、色とりどりのケーキたち。その中でも、ザッハトルテに目が行く。
(今度はあれに挑戦しようかねぇ。……美味しそうだ)
 料理上手な妹の所に行き、お菓子を作るのが百合枝の小さな楽しみとなっていた。尤も、楽しみにしているのは百合枝だけで、妹の方は逆に困っているのだが。
「おや」
 そのケーキ屋の前で、茶色い熊のぬいぐるみが子ども達に風船を配っていた。子ども達は嬉しそうに風船に手を伸ばしたり、熊のぬいぐるみに抱きついたりしている。
(おやおや、中に入っている奴は大変だな)
 百合枝は苦笑し、その光景を通り過ぎようとした。別に百合枝は子どもじゃないし、風船にも興味は無いし、ましてや中身があることを知っている巨大な熊のぬいぐるみにも興味は無いからだ。
 ただ単にどこにでも転がっている風景の一つとして認識し、通り過ぎようとしたのであった。


(やってらんねぇ)
 藍原・和馬(あいはら かずま)は心の中で呟いた。否、実際には小さく小さく声に出してしまったのかもしれない。だが、誰の耳にも届いていないだろう。周りはきゃっきゃっとはしゃいでいる甲高い声ばかりなのだし、ここは雑踏の中。小さな呟きなど、容易に流されていってしまう事だろうから。
(別に嫌じゃないけど、何故だかもの悲しくなるんだよなぁ)
 和馬はそう心の中で呟き、溜息をついた。外はまだ寒いようだが、和馬は温かい……どちらかというと暑かった。理由はただ一つ、着ている物が暑いから。
「風船頂戴!」
「赤いのがいいー!緑は嫌なのー!」
 子ども達に取り囲まれ、好き勝手に文句を言われ。和馬は小さく狭い視界を駆使し、ようやくその黒の目で赤い風船を選び出し、文句を言っていた子どもに与えてやる。子どもは嬉しそうに去って行く。そうすると、また別の子どもがやって来て、風船を欲しがる。中には抱きついてきたり、タックルをかましてくるのもいる。たかが子ども、されど子ども。子どもの力でも、全力でタックルされると……いくら和馬でも……痛い。
 和馬が着ているのは、茶色の熊だった。街頭で風船を配り、子ども連れの親の足を止めさせる。あわよくば、何かしら買っていってもらう。そういう、大事な仕事だ。
(楽勝だと思ったんだけどなぁ)
 最初この仕事の説明を受けた時には、なんと簡単な仕事だろうと思った。ただ街頭に立ち、子どもがいたら風船をあげ、手を振ればいい。ただそれだけだと思っていたのだが。
(甘かったかな)
 今まで、様々な仕事をしてきた。それこそバナナ売りから危ないものまで。クリスマスにはサンタの格好をしたし、商店街の福引の為にはっぴも着たし、居酒屋では額にねじり鉢巻を巻いたりもした。だが、何故だかこのきぐるみとか言うものにはまだ挑戦していなかった。
(一度はやってみようとか思ったんだけど……早まったか)
 冬でも暑い、この格好。夏はさぞかし悪夢だろう。しかも、汗の匂いがしみついていて臭い。除菌も出来るとか言う消臭剤を用いたにも関わらず、染み付いて臭い。きぐるみの匂いが、きっと体にも染み付いている事だろう。さらに、決まりごとまできっちりあった。喋っては駄目だというのだ。
(何が『子どもは夢を持っているから、それを壊すような事はしちゃ駄目だぞ』だよ)
 和馬は思わず苦笑する。中に人が入っていると殆どの子どもは既に知っているのではないだろうか?それでも、このきぐるみを着ろと命じた店長はにっこりと笑って言ったのだ。喋るな、と。欠伸も呟きも、できる事ならばくしゃみもするなと。
(熊だってくしゃみくらいすると思うけどな)
 そして、思わぬ出来事もあった。子どもはただ風船を貰って喜ぶだけの存在ではない。タックルをかますだけでもない。
「あ、熊だ!死んだふりしないと!」
 つぶらな瞳に、にっこりと笑った口元。実際の熊とはかけ離れたこの愛らしさ溢れるくまに向かって、子どもの中にはこういうのもいた。泣き出したり、怒ったり、本気で立ち向かってきたり。
(本物の熊でも傷つくっつーの!)
 和馬はそう言いたい衝動をぐっと堪え、子ども相手に風船を配る。……と、その時だった。向こうから、知っている顔が歩いてきていた。狭い視界を器用に動かして見ると、それは妙に嬉しそうな百合枝の姿であった。どうやら、こちらには気付いていないようだ。
(まあ、これで気付いたら凄いんだけど)
 和馬は心の中でくくく、と笑った。そして、ゆっくりと百合枝は熊の中に入る和馬とすれ違う。丁度和馬の手に、ノルマである風船がなくなってしまった、その瞬間であった。


(何故だ)
 百合枝は目の前に立ちはだかる奇妙な存在に思わず体を固まらせた。目の前に立っているのは、つぶらな瞳を持ち、口元をにっこりとさせた熊のぬいぐるみだった。先ほど、すれ違った熊だ。子ども相手に風船を配っていた。
 それが何故だか、百合枝の前にいる。
 小刻みに肩が上下する所を見ると、どうやら必死で追いかけてきたらしいのだ。そう、必死で。
(何故……)
 百合枝は熊とすれ違い、何も気にせずすたすたと歩いていた。が、熊は何か気にする所があったのか、突如全速力で追いかけてきたのだ。地面を蹴って飛び上がると宙返りをし、綺麗に百合枝の前に着地したのだ。周りから、ぱちぱちと拍手があがった。歓声にしばし手を振る、熊。
「……あの」
 百合枝が何か問おうとすると、熊は突如百合枝の方を振り返って両手を万歳したように上げ「がるるるっ!」と唸った。
「……!」
(ぬいぐるみの分際で……!)
 ばしんっ!
 一瞬の出来事だった。百合枝の持っていた鞄は、綺麗に熊の顔面にヒットした。熊はふらりとよろめく。周りから、その見事さに思わず拍手が沸きあがった。百合枝は小さく赤面し、ごほんと咳払いしてから再び歩き始めた。風の如く、颯爽と。ふと、視界の端に先ほどの熊がうな垂れているのが見えた。妙に寂しそうな、その姿が。


(痛い)
 和馬の脳裏に浮かんだのは、この一言であった。ちょっとした遊び心だったのに、ちょっとした悪戯心だったのに……痛い。
 百合枝とすれ違ったのに、百合枝が全く自分に気付かないまま歩いていってしまったので、つい和馬の悪戯心に火がついてしまったのだ。既に手に風船が無かったのもあった。仕事はとりあえず終了しているのだから、持ち場から離れてもいいだろうと思って、百合枝を追いかけた。中々にして歩くのが早い百合枝だが、全速力で走れば何とか追いついた。だが、ただ肩を叩いたりするのも面白くない。そこで和馬は地を蹴って飛び上がり、百合枝の前に綺麗に着地したのだ。
(100点満点!)
 そう自画自賛していると、周りからも歓声が上がった。それに楽しく応じてから、和馬は改めて百合枝に向かって両手を上げた。ちょっとばかし、驚かせられないかと思って。
「がるるるっ!」
 だが、返って来たのは悲鳴でも驚きでもなんでもなかった。返って来たのは、百合枝の鞄だった。しかも、顔面に。いくらきぐるみだからといっても、痛いものは痛い。子どもにタックルされても痛いのだから、鞄だって痛い。しかも、周りはその見事な顔面キャッチに歓声まであげている。思わずよろめき、和馬は再び顔をあげた。
「あ」
 和馬は思わずしょんぼりとうな垂れた。既に百合枝の姿は、何処にも無かったからだ。
「何処行ったんだろう……」
 ちっと小さく舌打ちし、和馬は熊のきぐるみを着たまま走り出した。まだきっと、遠くには行っていないはずだから。


 百合枝は「はあ」と大きく溜息をつきながら、公園のベンチに座った。コートのポケットに入れておいた温かなコーヒーを取り出し、ぷしゅっという音と共に開ける。
「何だったんだ……あの熊は」
 そう呟き、ふと気付く。どこかで見たような炎だったように思えてきたのだ。何となくもの悲しいような、一度見たら忘れないような……。
 ミシッ。ふと気付くと、隣にあの熊が座った。至極自然な動きで、何事もなかったかのように隣に座っている。
「あんた……」
 百合枝はそっと炎を垣間見る。やはり、思ったとおりの人物だと分かる。最近妹と妙に仲がいい、藍原・和馬だ。だからこそ話し掛けようとしたのだが、一体何を言ったらいいのかが分からなくなり、ただじっと熊を見つめた。
 熊は何も言おうともせず、チャックをジジ、と音をさせながら開けると中から新聞を取り出した。そしてそれを広げ、読み始める。
(何をしているんだい?)
 百合枝がただ呆然としてみていると、熊が百合枝の視線に気付いたのか、百合枝の方を見てきた。
 視線と視線の、ぶつかり合い。
 バシッ!
 ぶつかり合いは、再び鞄によって阻まれた。
「……何度も何度も痛いな、あんた!」
「それは悪い、謝ろう。だが、こちらにも存分に言い分があるんだが」
「言い分?鞄ぶつけた言い分が?」
 和馬が失笑混じりに言った。相変わらず着ているままの熊の目は、つぶらで愛らしい。だが、中身は全く可愛らしくない。
「鞄は仕方ないだろう?つい」
「つい?つい、であんたは鞄をこんな愛らしい熊にぶつけるのか?」
「確かに愛らしいかもしれない。……外見は」
「外見とか言うなよ。夢が無いな」
 その言葉に、百合枝は思わず立ち上がる。
「夢はしっかりきっちり見ているが、目の前にいる熊はどう見ても夢を見るには値しないものなんでね」
 その言葉に、今度は和馬が立ち上がる。
「失敬だな。そんな事言うと、いくら熊さんだって傷つくぜ?」
「傷つく?私だって充分傷つく対象なんだがな」
 互いに言い合い、はあはあと肩で息をする。そして、気付く。自分たちをじっと見ている小さな目たち。
「……公園、だったねぇ」
 ぽつりと呟く百合枝。
「……しかも俺、熊ちゃんだわ」
 ぽつりと呟く和馬。
 二人は互いにごほんと咳払いし、再びベンチに座って息を吐く。その様子を見て、こちらをじっと見ていた子ども達が去って行った。暫しの沈黙がその場を支配し、そしてそれを破ったのは百合枝だった。
「悪かったね。今度お詫びに手作りのザッハトルテでもご馳走するよ」
「……いや、それはいい……」
 百合枝の料理の腕は、妹から嫌になるほど聞いている。和馬は丁重にお断りする。
「その、何だ。妹の事はどう思っているんだ?」
「あいつは……」
「あいつとか軽々しく言う仲か?」
「……あんたの妹さんは、相棒だよ」
「相棒?」
 眉を顰める百合枝に、平然とした声で和馬は言う。
「そ、相棒。大事な相棒だよ」
「それは随分と、曖昧だな」
「そうか?」
「そうだ。あんたの言う相棒というのは、オンラインゲームでの事だろう?私が聞きたいのはそう言うんじゃなくて、もっと……」
「さーてと!」
 百合枝の言葉を遮り、和馬は立ち上がった。
「俺、まだ用事が残ってるんだ。それじゃ」
「待て!まだ話は……」
 さっさと去って行く熊に、百合枝は立ち上がって声を上げるが、熊は振り返る事すらせずに去っていってしまった。一人取り残された百合枝は大きく溜息をつき、熊の消えていった方向をじっと見つめた。
「やれやれ、だな」
 小さく百合枝は呟く。とりあえず約束したザッハトルテだけは、何としてでも食べさせようと思いながら。

<去って行った熊は軽い悪寒を感じ・了>
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
霜月玲守 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年02月09日

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