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『旅を恋う 』
槻島・綾2226

 旅について語れと求められても、恐らく筆者は語るべき言葉を持たない。
 旅を愛しているかと問われれば、愛していると即答できる。しかしどう愛しているのか、それはどんなものであるのかと問われても明確な答えはない。
 恋とは太陽を背にしている相手を眺めているようなものであると、そうも言う。恋は盲目、その眩しさに目が眩み、相手を見誤る。否、その錯覚をこそ恋と呼ぶのかもしれない。
 つまりは――

「……旅に恋をしている筆者もまた、その眩しさに目が眩んで、明確に恋の相手について語る事ができない、のだ、と」
 カタカタと音を立ててキーボードの上を滑っていた指がふと止まる。
 いっそ殺風景に見えるほど装飾品の類いが見当たらない部屋の中央に据えられた机。その机についてノートパソコンを弄っている青年の名を槻島・綾(つきしま・あや)という。職業はエッセイスト。現在は仕事の真っ最中だ。
「……陳腐、だな」
 液晶のディスプレイを眺めて肩を竦めた綾は、視界を狭めていた眼鏡を片手で外し机の上に置いた。それによって広がった視界に苦笑する。案外と誤解しやすい、特に視力に不自由していない人間は生涯知らないかもしれない。近視用の眼鏡は視界を広げない、狭めるのだ。眼鏡をかけると対象は小さく、そしてクリアに見える。外すと対象は大きく、そしてぼやける。
「緊張と緩和、かな」
 一人ごちた綾は手を振り上げてんーっと背筋を伸ばし、
「大分違うかな」
 と、漏らした。愚にもつかない独り言だ。
 先日出かけた先での出来事をテキストに纏めている最中だったが、どうやら少々行き詰まっているらしい。
「……無理もない、な」
 それこそ恋をしているのだから。
 そう思って、綾は口元に拳を当てて苦笑した。正しく、そんな旅だった。



『好きだったのよ、多分はじめからずっと。だから――』

 何処へ行くのと声をかけてきた少女に、綾は小首を傾げた。
 16、7といった所だろうか、小柄で線の細い黒髪の少女である。些か当世風でない印象を受けるのは真っ直ぐな黒髪が首の後ろでゆったりと括られている為だろうか。
「何処へというわけでもないのだけれど。……君は?」
「私はここにいるの」
 くすくすと少女は笑う。綾は更に首を傾げざるを得なかった。
 ここにといっても、ここは若いお嬢さんが喜ぶような場所ではない。東京ではあるが繁華街とは言いがたい。だからこそ綾も出向いてきたのだ。
 己が住む土地、そこにもまたある種の『旅』があるだろう。それを求めて。京都や奈良ほどではないにせよ、この東京、関東の地にもそれなりに歴史はある。そうふと思いついて、出かけてきたのだ。
 だからここには若い娘の喜ぶような可愛い小物屋も喫茶店もない。
 尤も綾の喜ぶような重厚な歴史建造物もなく、単なる商店街というかベッドタウンと言うか、そんな印象であったりもしたのだが。
 少々がっくりときていたところへこの少女が涼やかに声をかけてきたのである。
「ここに?」
 鸚鵡返しに綾が効き返すと、少女はこくんと頷いた。そしてふっと空を見上げる。澄み渡る空とは行かない。どこか重くくすんだ、東京の空の色だ。
 少女に釣られるように天を見上げた綾はその色にげんなりとした。己の住む土地に宝物のような何かを探しにきてそして見つかったのは正しく己の住む土地だという証明のようなこの空ではげんなりもしたくなる。
 確かに旅は好きだ。だが、それは『旅』と呼べるものであって初めてだろう。それは距離の事ではなく、綾の主観としてそう据えられるかどうか、ということだが。
「――なにも、ないでしょ?」
 鈴の音のような声。
 重い物思いに沈みかけた綾ははっと顔を上げた。見透かされたような、そんな気がした。
「そう、だね」
 反射的に違うといいかけて、しかし綾は結局は素直にそう答えた。取り繕ってどうなるというのだろう。
 多分もう会う事もない、行きずりの少女相手に。
 少女は『やっぱりね』と笑うと、そっと綾の手を取った。
「?」
「……来て?」
「いや、だけど……」
 流石に綾は躊躇った。少女はいいから、と言って綾の手を強く引いた。
 結局その誘いにも綾は大人しく従った。
 ナンパだとか、援助交際だとか、何故だがそんな単語は少しも浮かばなかった。

 連れてこられたのは寺の境内だった。
 ひっそりとした佇まいのどこか趣のある場所だが、それは『寺』であるからで、特に別段珍しいものでもない。少女は綾の手を引いて、その中にある一点を目指した。
 少女が足を止めたところで、漸く綾は問い掛けた。
「これは?」
「梅の木よ」
 そっけなく彼女は答え、そして目の前にある木を示す。かなりの古木だろう、生きているのかいないのか、今は冬ごもりの丸裸の有様となっている。
「――ねえ?」
「ん?」
「一生懸命だったの、私」
 古木に手をついて少女は目を伏せる。
「飽きられたら捨てられるんだって、そういうものなんだってわかってたけど。でもあのひとの為に一生懸命だったの。やっぱり私はお役御免で、でもねそれでも、あのひとは新しいのを使い始めてもね、一緒にいられなくなっても――でもやっぱり私は一生懸命だったの」
 その独白に綾は目を白黒させた。逆らえなかったのはこのせいかと思った。彼女が思いつめていたから、だからかと。
 失恋の相談とは流石に思っても見なかったし、何より自分には珍しい役所だと思いながらも、綾は問い返す。突き放すことは出来なかった。
「……そう、なのかい?」
「それにね、ただ捨てられた訳じゃなかったから。多分ただの思いつきで……深い意味もなくて、それでも、私にあのひとは役目をくれたから」
 だから、
「一生懸命だったの、私」
「それで、いいのかい?」
 哀れに成る程透き通った儚い笑顔を浮かべる少女に、綾は居たたまれないものを感じた。
 少女は瞬間押し黙った。そして今度は見事に笑った。――花のように。
「咲こうと思ったの。どうしても咲きたかったの。例え実をつけることが出来なくても、あのひとの大願が叶わないって分かっていても。あのひとが私に与えてくれてそしてほんの少しの希望をかけてくれているかもしれないと思ったら、どうしても咲きたくなったの」
「……?」
 綾は目を細めた。
 何を言っているのかわからない。そして何より、彼女の体が透け始めているように見えるのは、一体なんだろう?
「理由はあなたと同じなのよ槻島綾さん」
「!?」
「誰かに自分としてみて欲しいからだとか、ほんの少しだけ逃げたいとか、そんなのは殻でしかないでしょう?」
「君は、一体……?」
「好きだったのよ、多分はじめからずっと。だから――」
 衝撃は一瞬。
 少女の体は古木に吸い込まれて、消えた。



「そうだね……」
 再び眼鏡に手を伸ばして、綾は口元を綻ばせた。
 その後どれだけ探しても彼女の姿は見つからなかった。見つかったのはその冬枯れた木の前にあった看板だけだった。
 天ヶ瀬町金剛寺『将門誓いの梅』
 熟しているようには見えない青い実を秋までつけているという珍しい梅の木。
 馬の鞭に使っていた枝を地に刺し、平将門はその枝が芽吹くかどうかで己の願いがかなうかを占ったといわれる。その枝は立派に育ち、それに感謝した将門が金剛寺を建てたと言う。流石今そこに残っているのは当時の木ではなく、何代目かの梅の木だというが。
「滅多に出来ない体験だろうね」
 梅の木の昔語りに自分を教えられる、等とは。
 何を求めてでもなく、何から逃げるのでもなくただ、
「僕は好きなのだろうね。ただ、旅が」
 どんな理由もそれは殻で、ただ本当は好きなだけ。
 彼女もまたどんな努力の理由も総てその思いから来ていたのだろう。
 笑んで眼鏡をかけた綾は、再びキーボードに向かい出した。先刻書き出した陳腐な冒頭も、結局それは陳腐だとは思えたが、否定する事は出来なくなっていた。



 ――好きだったのよ、多分はじめからずっと。だから――
PCシチュエーションノベル(シングル) -
里子 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年02月03日

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