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『――痛いの、飛んでけ―― 』
蓮巳・零樹2577)&雨草・露子(1709)


 しん、と静まりかえった店内に、ひそひそと笑い声が飛び交っている。しかし、静まりかえっているのである。ただ、店主が人形の髪を梳る、静かで密かな音が続いているきりなのだ。笑い声と囁き声は、飛び交っているが、聞こえない。
 この日の夕暮れに限らず、日本人形専門店『蓮夢』に向けられる客足は多くない。絶対的な静寂と、聞こえない笑い声と囁き声に、一見の客は大概尻ごみする。そして二度とやってくることはない。
 それでいいのだと店主は嗤う。
 人形というものの魅力は、何となく気が向いたときに気軽に手に取れるものではないからだ。店主は――蓮巳零樹はそれを知っているのだった。
 本当に人形に魅せられている客だけが、何度も何度も『蓮夢』に足を運ぶ。
 それでいいのだと、店主は思う。
 買い手がついて、箱に入れられ、大事そうに持って帰られる人形たちを、店主はひそかに物悲しい笑みで送り出す。その日の夕方も、そうして、「ひとり」送り出していた。

「―――――せん」

 笑い声と囁き声が、心持ち大きくなっていた。
 けれども、零樹は人形の手入れをやめることはない。

「――す……ませ――」

 くすくすくすくすくす、
 うふふふふふふふ……
「何だい、もう、騒がしいなぁ」
「あッ……」
 そのとき初めて、零樹は人間の存在に気がついた。いつの間にか入ってきていた少年が、怯えた声を上げたのだ。零樹はようやく手を止めて、顔を上げた。
「――すみません、あの……」
 黒い瞳をおどおどとせわしなく動かして、黒い鞄を抱えた少年は、一歩引いた。
「あぁ」
 零樹は苦笑して、立ち上がった。ただ立ち上がっただけなのだが、少年はぴくりとまた一歩下がった。
「ごめんごめん。今のは君に言ったことじゃないから」
 とりあえず謝ってから、零樹は「いらっしゃい」の一言を言う機会を逃したことに気がついた。少年は小学生にも見えたし、どんなに大きく見積もっても高校生までは届かないような年の頃だった。若い客は、『蓮夢』には珍しい。人形たちも小馬鹿にしている風情だ。
 納戸色の着流しについた絹糸の屑を払い落としながら、零樹は少年に歩み寄る。少年は鼠のように何かに怯えているようで、その様子は零樹にとって微笑ましくもあり、苛立たしくもあった。
「あの、……ええと、……」
 少年は白い手を動かし、鞄を開けて、大事そうに中のものを取り出した。
「ん?」
 零樹は少年が事情を説明する前に、屈みこみ、少年が抱えている人形を検めた。
「これはまた……随分と虐めたものだねぇ」
「す、すいません。あ、えと、ごめんなさいっ」
「君がやったの?」
「あっ、えっ、ち、違います……」
「じゃ、謝ることないじゃない。というか、僕に何で謝るのかって話だよね」
「……あ、ご、すみません……」
 やれやれ、とゆるやかにかぶりを振ると、零樹は人形を受け取った。

 いたい、いたいわ、けれど、この子が、ぶたれずにすむのなら。
 ああ、いたい、いたい、ああ、もげてしまう。

 『蓮夢』の中に並ぶ人形たちに比べれば、全く値打ちもなさそうな、ごくごく普通の日本人形だ。着物の織物も機械織りであろうし、絹糸を使っているかどうかも怪しい。
 いや、もっと見るべき特徴がある――人形がひどく傷めつけられていることだ。
 首はがくがくと揺れている。右腕はだらりと垂れて、少し引っ張れば取れてしまうだろう。化粧も汚れ、目は虚ろ。人形というものを何も知らない赤子に、遊び道具として与えたか――何かの憂さ晴らしに、殴りつけ、叩きつけたか。
「かわいそうにねえ」
 ぽつり、と零樹は呟いた。
 この、蛙よりも気の弱そうな少年がやったのだろうか。
「あ、あの、それ……母の形見なんです。……大切なもの、なんです。直してもらえるところを……探してて……」
「うーん」
 零樹は人形を前にして、眉をひそめ、首を傾げた。
 『蓮夢』は小売店にすぎない。零樹の祖父こそ、名高い人形職人ではあったが、彼自身には人形を直すほどの技術が備わっていなかった。持っているのは、特殊な人形を『作り出す』程度の力なのだ。そして、聞こえない人形たちの声を聞くこと、身動きが取れない彼女たちの代わりに身繕いをしてやること、つややかな黒髪を梳ってやること、それが零樹に出来ることだった。
「うちはそういうことはやってないんだよね。電話帳とかさ、見た? やってくれるところの広告出てるかもしれないでしょ」
「……あの……見ました。でも……無理だって……直しづらいところが……壊れてて、古いものだから……構造が変わってるとか、あちこち……まわったんですけど……」
「職人さんがさじ投げるような状態、僕だとますます手に負えないよ。――それはわかるよね?」
「そ……うですか……」
 少年は、深い溜息をついた。
 人形たちが黙りこんでいることに、零樹は気がついた。
 茶の視線が……視線が、視線が、視線が視線が視線が。
 この子は、ほんとうに困っているのだ。あれほど小馬鹿にしていた人形たちがもう、この少年を慕っている。人形のことで、少年の頭の中は一杯なのだ。
 そして零樹は小さな溜息をつく。
「……仕方ないなぁ」
 その一言で、少年が顔を上げた。それが、初めて見せた機敏な動きだった。
「ただし、安くはないよ。それでもいいんだね?」
 こくり、と少年は頷いた。大きな黒い目が濡れているようだった。魂を持った人形のような目でもあった。
「いつ直るかもわからないよ?」
「……それでも、……」
「いいの?」
「――い」
 はい、と言ったに違いない。
「じゃ、名前と電話番号を教えて」
 手入れの途中だった人形が乗ったままの作業台に戻り、零樹はメモとペンを取った。少年はおずおずと作業台に近づいてきて、作業台に置かれた自分の人形を心細げに見つめてながら名乗った。
「あまくさ、です」
「天草四郎のあまくさ?」
「いえ、……雨の草って書いて……」
「ああ、はいはい。下の名前は?」
「……つゆこ……」
 思わず確認したその顔は、確かに『少年』のものである。
 それでも、彼の名は、雨草露子。


「……と、引き受けてみたはいいけれど」
 奇妙な角度に首を傾げる人形を前にして、零樹は腕を組んだ。
 よく見れば、着物も綻んでいるのだ。
「どうしたらいかなぁ?」
 店の隅にひっそりと置いてある異形の人形に、零樹は苦笑を投げかける。人形は笑ったようだった。かんたんよ、と言っているようだった。
 そのにんぎょうにはこころがある。いたいってないているでしょう。こころがあるものはいきている。いきているものは、じぶんでけがをなおそうとするわ。
「僕が直すわけじゃない、ってことか。……露子君が知ったら、どう思うだろ?」
 ふうっ、と緑の目を細め、零樹は小さな札を取り出した。
 この人形にはこころがある。
 だが、まだ、生きていると言えるほどではない――
 ならば、与えてやるまでだ。
 零樹は札に唇を寄せ、かさこそと言の葉を紡いだ。それこそ、人形たちの囁きのように、小さな小さな声だった。
 札が、着物の襟口に滑りこむ。どくり、と脈打つ音がする。ざわざわと、筋や骨が呟いて、かたかたと首が揺れ始めた。

 ああ、いたい、いたい、けれど、あの子がよろこぶのなら。
 わたしは立ち、そばに歩いていきましょう。

「その顔じゃ、あの子は怖がって泣くかもしれないよ」
 笑って、零樹は筆をとる。
 白い肌に一層の白を、小さな唇に艶やかな紅を。
「さぁ、できた。あとは、怪我が治るのを待つだけだね」
 でも一体、誰がこんな――
 そっと人形に触れたとき、零樹のこころに入り込んでくる光景があった。


 露子と云う名の、あの少年。
 店に来たときには見当たらなかった痣が顔にある。白い肌に咲いている花は、すべてが痣とすり傷で、左手の小指には奇妙な節があるのだ。いちど折って、長いことまともに治療をされていなかったからに違いない。
 傷だらけの身体を陰に隠して、こっそりこちらを伺っている。
「ごめん……ごめんなさい……」
 少年は人形を抱き上げたらしい。
 大きな影が、陰にかぶさる。露子は怯えた目で影を見上げた。
 だがその黒硝子の瞳に、はっきりと浮かんでいるのだ。
 憐れみが。
 その光をかき消すためにか、影の腕がふるわれた。
 ――わたしの首は、そのとき、折れた。


 1週間が経ち、零樹は露子に連絡を入れた。連絡を入れてからすぐに少年は店にやってきた。それこそ、連絡から30分も経っていなかったかもしれない。
「張り込みでもしてたのかい? 早かったねぇ」
 零樹は少年を、苦笑も含めた微笑で出迎えた。
「あ、あのっ……それで、人形……」
「居るよ」
 その言葉の意味を、露子はしっかり受け止めただろうか。
 ともかく、露子は足早に店の奥に向かっていった。
「……」
 綺麗に治った人形を見て、露子は無言だった。無言のまま、ふわぁ、と微笑んだ。
「……こんなに、きれいに……直った……」
「僕が治したわけじゃないようなものだけど、まぁ、そんな感じでいいのかい?」
「……はい……」
 露子は人形を抱え上げようとして、あ、と声を漏らした。慌しい手つきでポケットと鞄を探る。
「あぁあぁ、いいよ、お金は」
「……え……」
「どうせ払えないから」
 零樹の身も蓋もない言い方にも、露子はきょとんとして――びくびくと、上目遣いに零樹を見ていた。
「人形は好き?」
「あ、……ええと……」
 露子は、おどおどと店内を見回した。
 くすくすくすくすくす、
 うふふふふふふふふふ……
「嫌いでは……ないと思います……けど」
「『けど』、なんなのかが気になるけどー……まあいいか。この子たちも気に入ってるようだし。――決めた! 僕の気が済むまで、ここで働いてくんない?」
「――え? あ……」
「そんなに忙しいわけじゃないから、時々でいいよ。でも、僕がいいって言うまで、顔出さないとー……」
「や、やります」
「そう来なくっちゃ。じゃ、明日また来てよ。その人形はちょっと疲れてるから、今日は君の家で休ませてあげないとね」
 露子が手に取る前に、零樹は人形を取り、そっと露子に手渡した。

 ありがとう。

「こちらこそ」
 まだお礼は言っていない、と言いたげに、びくりと顔を上げる露子を見て――零樹はまたしても微笑み返すのだ。
 そして、店はまたしても、しんと静まりかえるのである。




<了>
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2004年01月30日

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