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『間違ったティータイムの過ごし方 』
藤井・百合枝1873)&藤井・葛(1312)


 冬休みも終わりに近付いた1月のある穏やかな冬の午後。
 あと2割で完成するはずの『課題』をパソコンのファイルにしまい込んでから1週間が経過しようとしている現在、藤井葛は年末に終えられなかった掃除を今更ながらに決行していた。
 隣の部屋では、騒音をものともせずに、緑の居候がお気に入りのビーズクッションで平和に眠っている。
 電話のベルが鳴り響いたのは、そんな時だった。
 特に何を思うでもなく、葛は掃除機のスイッチを切ると、いつもどおりに受話器を取った。
「はい、もしもし…っと、あ、百合姉?どうしたんだ?仕事は?……あ、そっか、今日は日曜か」
 卒業論文で夜更かしをし、オンラインゲームで徹夜し、誰に咎められることもなく好きな時間に寝食を繰り返したこの冬休みの期間で、葛の曜日感覚は世間から完全に隔絶されたものとなっていた。
 まさに休みボケである。
「今日うち来んの?……へえ、リンゴが安かったんだ……お裾分けしてくれんの?……あ、違う?アップルパイを作りに…へえ………って、はいっ!?」
 百合枝の何気ない言葉が、無防備だった葛の心にいきなり爆弾を投下した。
 次の瞬間。
 迅速かつ正確に、葛は受話器を本体に返した。
「さ、アイツが起きてくる前に掃除を終わらせるか」
 いそいそと、傍の壁に立てかけていた掃除機へ手を伸ばす。
 自分は何も聞かなかった。何も知らない。居候が目を覚ます前に、掃除の次は洗濯を干すことにしよう。
 だが、電話は再び鳴り響く。少しだけ、咎めるように。
 出来れば無視をしたい。気付かないふりをしたい。だが、自分は既に一度、姉と話をしてしまったのだ。
 覚悟を決め、無言でそれを取る。
 既に心は奈落へと落ち始めていた。
 ―――――あんた、今わざと切ったね?
 確認するまでもないことを、姉は向こう側から問いかける。
 1時間後にいくという『宣告』を残して電話が切られると、葛は深い深い溜息を吐き出して脱力した。
 どうにか回避する手立てはないのか。
「…………シュークリームは辛うじて上手くいった……ブッシュ・ド・ノエルは百合姉の仕事で中止になった……でも、アップルパイは………」
 何となく窓の外に広がる青空を仰いでみる。
 無性にどこか遠くへ行きたくなった。
 『探さないで下さい』と置手紙を残して、旅に出るのも悪くない。
 思い立ったが吉日という気さえしてくる。
 だが、とても残念なことに、この素晴らしい計画は所詮儚い夢でしかないのだ。
 信じてもいない神様にとりあえずの無事を祈ってみようと思ったが、多分、不信心な自分の願いなど聞き届けてはくれないだろう。
「………………胃薬の買い置き、あったかな」
 とりあえず、あらゆることを諦めて、葛は救急箱の中身を確認しに奥の部屋へ向かう。
 そこでは主の悲壮な心情を知るよしもない居候が、未だすやすやと安らかな寝息を立てていた。
 もういちど、葛は盛大に溜息をついた。



 藤井百合枝は、大きな買い物袋を抱えて、颯爽と寒空の下を妹の家に向かって歩く。
 昨年クリスマス・ケーキをお手製にするという野望があえなくお流れになってしまったことを彼女はとても残念に思っていた。
 ベークドチーズケーキ、苺の生クリームケーキ、カスタードのシュークリームを経て、一年の締めはブッシュ・ド・ノエルと決めていたのだ。
 にもかかわらず、無情な会社からの電話がそれを実行するだけの時間をあっさりと奪ったのである。
 だから本日、偶然立ち寄った近所のスーパーで『タイムサービス☆10個入り一袋500円』のリンゴを発見した時、百合枝は天啓だと思ったのだ。
 俄然やる気は出たし、気合も入った。
 今こそあの計画を敢行するときなのだと思った。
 何も見ないで作ろうとすると妹に叱られるので、今回はちゃんとレシピ本も荷物に詰め込んできた。準備は万端である。
 気付くと、妹のアパートがすぐ目の前に迫っていた。
 お菓子作りは格闘だと言ったのは誰だっただろうか。
 そんなことを思いながら、百合枝は気合とともに外付けの階段を上り、インターホンに手を伸ばした。


 そして、運命のサイは投げられた。


「邪魔するよ?」
 葛に出迎えられながら、百合枝は荷物を抱えたままブーツを脱いだ。
「ん?どうかした?」
「…………いや」
 気のせいだろうか。妹の頬が幾分こけているように見える。表情もどこかしら憔悴しているように思えた。
「論文とゲームで不摂生してんのかい?顔色悪いよ、葛」
「いや、大丈夫。なんでもない」
 相変わらず妹の部屋は、きれいに片付いている。物が少ないせいか、広くも感じる。
 百合枝はテーブルの代わりに引っ張り出されたコタツの上に材料を並べ始めた。
 10個500円の格安リンゴ一袋、砂糖1kg、2個入りのレモン一袋、小麦粉は薄力粉と強力粉、マーガリンはお気に入りの銘柄を。卵は残念ながら特売ではなかった。
「あのさ、百合姉?」
「ん?」
「今回はアップルパイ、作るんだよな……?」
 背後から覗き込むようにして、葛がいまさらのように電話で告げたはずの名前を確認する。
「そうだけど?ほら、ここにちゃんとレシピだってある」
 最後に袋のそこから取り出したレシピ本をページを開いて見せると、その文章を辿る葛の表情はますます険しいものに変わった。
 相手を叱るときの前駆症状というヤツだ。
 今回は忘れず本も持ってきたのに、妹は一体何を怒っているのだろうか。
「……葛?」
「どこにも書いてないだろう、これとかこれとかこれとか!」
 せっかくパイの中に入れようと思っていた一口チョコレート、マシュマロ、干し柿、そしてラベンダーキャラメルなどを、袋の中から引っ張り出され、すべて取り上げられてしまった。
「全部抜いたら独創性がなくなっちゃうじゃないか……」
 妙に力の抜けた手を姉の肩にへろっと置いて、葛は疲れた表情で諭す。
「あのね、独創性はあとからだよ。お菓子の基本はレシピどおりに作ることなんだってば……それになんなんだよ、このラベンダーキャラメルって」
「食べてみる?職場の人が北海道土産にくれたんだ。色がキレイでさ、花の香りもするらしいからいいかと思ったんだけど」
 お菓子作りは体力。始める前に、疲れている葛は糖分補給をした方がいいだろう。そういう判断の元に、百合枝はキャラメルの包みを開いて、そのひとつを妹の手のひらに置いた。
「ほら」
「あ、ありがと」
 明らかに着色料を使用しているきつい紫色の物体からは、ふわりと花の香りが漂ってくる。
 何となく芳香剤の匂いを連想しながらも、葛はキレイな色をしたそれを口に含んだ。
「…へえ、本当に花の匂いが……………」
 咀嚼を繰り返す度毎に、彼女の表情が暗く重くなっていく。
 お口いっぱいに広がるこの何とも言いようのない芳香をどうすれば姉に伝えることが出来るだろうか。
 例えるなら、買ってきたばかりのポプリを無理矢理口に詰め込まれた感じ、だろうか。
 そんなことを本気で考えながら、最後は無言となって葛は何とか紫色の物体を飲み込んだ。
「さてと、これでいいかな?」
 キャラメル一粒で既に惨敗な気持ちになりつつある妹の横で、百合枝は着々とお菓子作りの準備を進めていた。
 手際よく、スムーズに。
 こんな行動指針を打ち立てた今年の百合枝は、去年までとは一味違うのだ。
 コタツの上には、勝手知ったる他人の家という言葉を再現したかのように、妹の家の調理器具が並んでいく。
 ちゃんと汚れてもいいように新聞紙だって床とコタツに敷いた。
 必要なものを最初から全て出しておけば、後で足りないと慌てなくて済む。
「始めるよ、葛…て、どうしたの?」
「あのさ、百合姉?パイ生地も自分で作るの?冷凍のパイシート使えばいいじゃん」
「それはだめ」
「なんで!?」
「レシピ通りって言ったのは葛でしょ?何よりせっかく手作りするんなら、市販品に頼っちゃダメだってことになる。最初から最後まで自分の力でやり遂げないと意味がないじゃない」
 言葉だけならば見事な説得力を持っている。
「…………」
 何か言いたげに口を開きかけたが、そのすぐ後に何かを諦めて、葛は、雑然と言うよりも混沌としたコタツのうえと周辺に眼をやった。
「あのさ、リンゴを切るのはキッチンでやった方がいいと思うんだけど。そのまま火も使うだろ?」
「ん、そうか……じゃあ、ちょっと借りるよ」
 まな板とたくさんのリンゴ、そして包丁を危うげに抱えて、百合枝はキッチンに向かった。
「葛は生地の方を頼んだよ?」
 不安を湛えた視線で姉の後ろ姿を見送ると、葛は小さく溜息をついて、レシピと向き合った。
 幸い、姉が選んだ本は比較的簡単で初心者向けの内容だった。
「パイ生地を俺が担当した方がいいよな、うん。リンゴは切って煮るだけだけど、こっちはそうもいかねえし」
 薄力粉と強力粉を量ってボウルの中に篩い、マーガリンを千切ってそこに加えると、本の指示通りに淡々とそぼろ状になるまで両手で混ぜ合わせていく。
 水の加減が少々難しいが、手順どおりにやっていけばそれほど緊張することもないだろう。
 比較的穏やかで緩やかな時間が流れていく。
 時折背後で何かを叩き割るような不吉な音が聞こえてくるが、それをあえて意識の外に追い出し、葛は生地を練り上げていった。
 このまま順調に進めば今回は比較的平和にコトが進むのではないだろうか。
 そんな淡い夢さえ抱く。だが次の瞬間、
 ガチャンダッダッガキッゴトゴトガツっっ――――
台所から響く盛大な音と共に打ち砕かれた。
「―――――っ!?なっ、なに、どうした!?」
 素晴らしい反射神経とスタートダッシュで駆けつけた葛が目撃したのは、紫のキャラメルを一箱口に入れるよりも悲惨な有様だった。
「え?あ、ごめん。ちょっと失敗したみたいだけど、まあ、大丈夫だよ」
 振り返った姉は苦笑いを浮かべた。
 百合枝の手元では、いちょう切りになるはずだったリンゴの残骸(芯つき)と、ボウルからぶちまけられた塩水、ふやかしていたレーズンが見事に混ざり合い、悪夢の競演を果たしていた。
「…………」
 だが、それ以上に葛の五感を刺激するのはキッチンに充満した焦げ臭さだった。そして目にしみる煙たさ。
 その大元に視線をやるのはとても怖いが、勇気を振り絞って近付き、ホーロー鍋の蓋に手を伸ばす。
「う゛っ……」
「ぐっ……」
 蓋を持ち上げた瞬間、ぶわっとあがった黒い煙と異臭に、2人はくぐもった呻き声を洩らした。
 息を止めたまま、葛は全開にした水道水で一気に危険物を洗い流した。
 百合枝は換気扇を回し、台所の窓を開け放ち、ばたばたとまな板で空気を仰いで追い払う。
 しばし、ホーロー鍋から放たれる異臭とこびりついたフィリングの成れの果てと悲しい格闘を繰り広げた。
「何でホーロー鍋が焦げるんだよ……」
「ごめん、葛」
 それはまったくもって不幸な事故だった。
 10個のリンゴを全て煮詰めるには時間が掛かりすぎると思い、百合枝はそれをふたつに分けた。
 5個をまず切り終えて砂糖で煮、その間で残りを切って準備する。そうすれば時間も無駄にならないし、『計画的』だと思ったのだ。
 ただ、少々リンゴを切るのに熱中してしまい、強火に掛けていた鍋の存在を失念してしまった。
「敗因はそれかな?でも、リンゴはまだこれだけ残っているし、大丈夫だよ。ちゃんとアップルパイは完成する」
 にっこりと、よく分からない自信を持って百合枝は笑った。
「だから、あんたはパイ生地作りに戻って。まだ途中だったんでしょ?」
 そして、妹の背中を軽く叩き、キッチンから居間の方へ向かわせる。
 不安というよりはむしろ、現実的な恐怖に晒されている葛は、できればリンゴのフィリングを自分で作りたかった。
 しかし、ソレは赦されない願いなのだ。
 押し出されるままに、葛はコタツ前に戻った。
 そして、到底料理中とは思えない音を背中で聴きながら、滑らかになったパイ生地を円形の型に敷き、遠くに旅立つ自分の姿をぼんやり夢想した。
 完全な現実逃避だった。
 百合枝に逆らってはいけない。いや、逆らえないようにインプリンティングされている自分が居る。
 だが、数十分後、彼女はそんな自分の弱さを激しく叱責することとなる。
 葛は知らなかったのだ。
 百合枝が、一度は妹によって取り上げられた『独創的な食材』の数々を、移動のドサクサでキッチンに持ち込んでいたことを。
 新しく戸棚から取り出した鍋の中に、砂糖、無残に切り刻まれたリンゴ(種と芯混入)とレモンの破片、水で戻したレーズンと干し柿、マシュマロ半袋をぐいぐいと押し込んで、風味付けにラベンダーキャラメル、チョコレートを足し、今度はぐつぐつと焦がさないよう慎重に煮詰めていく。
 ぐつぐつぐつぐつ。
 様々な甘みが混ぜ合わされた、複雑怪奇な匂いが漂い始める。
 予想とはちょっと変わった色と匂いになっていくが、この辺は許容範囲だと独断する百合枝。
 多分きっと間違いなく美味しいはずなのだ。なぜなら美味しいものしか入れてないのだから。これは真理だ。
 そう、百合枝は確信し、自分の信じた道を突き進んだ。
 結果。
 葛が必死になって逃避しながら作り上げたパイ生地の中に、どろりとしたよく分からないものが流し込まれることとなる。
 鍋の中の物体に何が投入されているのか知るよしもない彼女に、姉を止めることは出来なかった。
 たとえ明らかにリンゴを煮ただけでは出るはずのない色が付いていようとも、そして、たとえ見覚えのない固形物の片鱗をその中に認めようとも、気合の入りまくった姉にそれを指摘することは出来ないのだ。
 葛に出来ることは、これがヒトの食べ物のレベルであること、それを願うだけだった。

 見た目に気を使った飾り付けを施し、百合枝の手がアップルパイになるはずのものを200℃に熱したオーブンへ入れる。
 焼き上がりまでの時間、奇妙な緊張感が2人の間に漂う。特に葛は、まるで判決を待つ被告人の心境である。
 18分間が、緊迫した雰囲気の中でゆっくりと過ぎていく。

「持ち主さん?あ、持ち主さんのお姉さんも。おはようなの」
 オーブンが焼き上がりを知らせるのとほぼ同タイミングで、眠れる植物の王子様が向こうの部屋からクッションを抱いて姿を現した。
「あら、おはよう」
「………いま目が覚めたのか……」
 あれほど豪快な物音を立てていたのに、今の今まで平和に眠っていられた彼に呆れと感心を覚える葛。
「あ、いいにおいなの。おかし?おかし?」
「あんたも食べる?丁度出来上がったところなんだよ、焼きたてのアップルパイ」
 皿に乗せた少々焦げ目の強いパイを差し出して、百合枝が問う。
 そう、信じられないことに、紆余曲折を経て出来上がった『一見アップルパイの形をしたモノ』からは美味しそうな匂いが漂っているのだ。
「うんなの!食べるなの!うわ〜い!」
 製造過程を見ていない幸せな少年は、無邪気に喜んで手を伸ばした。
 わくわくしながら、手掴みでぱくりと一口。
 そして、そのまま少年の時間は止まった。
 お口いっぱいに広がるこの味を、どう伝えればよいのだろうか。
 涙目になって、彼は自分の持ち主とその姉を見上げた。
 彼の反応を、百合枝は訝しげに、葛は恐怖を募らせて見つめ、そうして自分たちも同じようにソレを口に入れた。
「………………」
「……………………」
「…………………………………」
 長く暗く重苦しい沈黙が降りてくる。
 3人は、無理矢理に紅茶で口の中のものを喉の奥へ流し込むと、蒼ざめた表情で一言も発しないまま、自分の皿に乗っている悪魔の物体を速やかにダストシュートした。


 ある晴れた冬の午後。
 スーパーのタイムサービスから始まったティータイムの悲劇は、こうして幕を閉じた。




BAD END
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東京怪談
2004年01月19日

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