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『静止する、時 』
新久・義博2516)&新久・孝博(2529)


 どれ程思い悩もうと。
 この仮面は脱ぐ事が出来なかった。


 五歳離れた清廉な弟。
 誇り高き青の薔薇。
 その彼――新久、孝博に。
 新久義博はただ、惹かれていた。
 彼の前でなら自分を隠す事など厭わない。
 毒の滴るような内面を。
 人の魂はすべて美しいもの、と信じる彼に見せたくはない。
 紙一重の、美醜を。
 曝してしまえばどれ程楽か。
 彼がその私を見てどんな反応を示すか。
 ふと、考えるだけでも甘美過ぎる事柄。
 けれど曝してしまえば――私は。
 彼は――弟は。
 考えれば考える程、それは決して為されてはならない事だと。
 その答えしか出て来ない。
 醜いが故の心の美しさ。
 孝博はそれを理解出来ない。
 ましてや。
 そんな私が、孝博を心底愛しているなどと――。


 肉親に対する想いでは無い事は――疾うに気付いていた。
 決して相容れぬ想い。
 孝博は。
 私を肉親として以外――以上で見る事は無い。
 そう、確信出来るから。
 兄としてなら愛されている。
 これ以上無い程、深く。
 ならば。
 私には。
 孝博が、尊敬出来るような…立派な存在で居る事しか、残されていない。
 孝博の愛している、兄として。
 ずっと。
 ずっと。


 ………………私たちは前世では夫婦だったのですよ。


 いつだったか、静かに告げたその科白は――孝博にはどう聞こえていたのだろうか。
 …願わくは。
 伝わる事を。
 伝わらない事を。


 そこにある美しく長い髪と透けるようなまっさらな瞳、その姿を纏う心だけは――私にとって特別だ、と。


 孝博は。
 兄の想いを知ってか知らずか、誰よりも尊敬出来る兄だと信じ。
 慕い続けている。
 …否。
 兄の本当のその想いを知っている筈もない――もし万が一知っていたとしても、理解は出来ない。
 その“想い”は孝博の辞書には存在しないから。
 可能性を考える事さえ、有り得ない。
 ただ、純粋な好意だと。
 大切にされているのだと。
 そう、信じている。
 異常な程深い愛情だと感じたとしても。
 それは、私自身が兄に心底愛されているが故の事。
 …肉親として――弟として。

 わかっている。
 決して伝わらぬ事はわかっている。
 …ああ、私は。
 いつになれば、この狂おしいまでの想いから逃れる事が出来るのでしょうか。

 くしゃりと。
 握った掌の上には、深い深い血赤の花弁。
 腐り落ちる寸前の。
 腐臭にも似た甘い甘い馨しさ。
 小さくも、決して朽ちない非情なる棘を纏い。
 毒を滴らせ、堕ちる、魂。

 ――これが、私。
 高潔なる青い薔薇とは、未来永劫、交わらぬ。



 義博は、静かに遠くを見遣る。
 その表情は優しげで、穏やかな。
 どろどろに渦巻く内面など想像も出来ない、華麗さで。



 次第に。
 自分の行動がおかしいと気付いたのは――いつ頃だっただろうか。
 そう。
 普段からしている行動。
 けれど。
 自分でもおかしいと思う程。
 自分の望む行動が。
 エスカレートして来ていて。


 …だから、何ですか?
 死にたければ死ねば良い。
 愚かしい貴様はそれが一番だとお思いになっているのでしょう?
 どうせ真っ当に生きてはいない。
 その手がお嫌いだと言うのなら切り落とせば簡単に済みますよ。
 いえ、死なれては後の処理に困りますね。…死んでも迷惑なんですか。どうしようもないですね。


 夢の中で。
 追い詰める。


 生きる価値の無い人間など居ません。
 …価値の無いひとりが、貴様ですね。

 一緒に頑張っていきましょう。
 …どうぞひとりで野垂れ死になさい。貴様に味方する物好きなど存在しませんよ。


 普段なら。
 この程度の輩、放っておく。
 …ほんの時折、我に帰れば何故かと思う。

 恐ろしいくらいの攻撃性。
 どうあっても曝す事の出来ない、こもる熱。
 孝博。
 そう。
 …孝博の事を考えるたび。
 この熱は。


 消えない


 正常な判断など疾うに鈍っていた。
 だからこそ。
 あんな事件に――巻き込まれてしまったのだろう。


 その事件で。
 私は、生を喪いました。


 その最期の瞬間ですら。
 考えていたのは、孝博の事。

 この場に立ち会う事が無くて良かった。
 死に瀕した愚かしい私の姿など孝博には見せたくない。


 ああ、これも。
 新久の家の汚点になるでしょうか。
 否。
 両親が、隠すでしょうね。
 弟には。
 私の死、その事自体は隠し切れなくとも。
 語られるだろうその経緯は――すべて嘘。
 真相は漏らされる事は無い。
 新久が動くなら。
 そう、孝博には、無難な言い訳しか、知らせられる事は無いだろう。
 それで良い。
 すべての物が美しいと、信じている弟の為にも。


 けれど。


 …それでも。


 私は。


 ただ


■■■


 ある日、孝博は両親から唐突に聞かされた。
 兄の、死を。

 それは。
 弟――孝博の世界が壊れた刹那。
 兄――義博はそれを知る事もなく。
 …自らが、最愛の者に刻む事が出来た――何よりも深く残酷な傷痕を。


 後になって私はそれを知りました。
 愛しい孝博が、私に、私の死に囚われて、雁字搦めになっている、その事を。
 …背筋が、ぞくりとしましたね。
 私にしか出来ない。
 私だからこそ。
 孝博に。
 あんな思いをさせられる。
 譬えようも無い心持ちでした。
 孝博が私の事だけを考えている。
 私は――死ぬ事で、最愛の弟を漸く、自分のものに出来たのでしょう…ね。


 けれど。
 人は時を止めたままでは生きていく事が出来ない。
 その為のメカニズムが存在する。
 ――忘却と言う名の。
 優しくも呪わしい装置。

 時が経つ。
 一年。
 二年。
 三年。
 …七年。

 それは、完全に忘れた訳では無い。
 けれど。
 幾ら嘆いても、その存在だけを見ていても、戻っては来ない。
 手の届かない場所に行ってしまった、兄。
 時が想いをやんわりと静めて行く。
 自分を見守ってくれていた、他の優しさに気付き始める。
 兄の死、その事実を孝博は漸く受け入れる事が出来始めていた。
 …そして、新たな自分の世界を。


 そうです。
 私は、もう。

 兄は。
 もう居ない。
 それでも。
 私は。
 生きるしかない。
 囚われていても何も始まらない。
 変わらなければならない。
 私は。


 孝博が漸く、本心からそう思い切れた、決意した、その時に。
 残酷過ぎる姿が彼の網膜に焼き付けられた。
 七年の間何よりも望み、そして今この時には――何よりも見たくなかったその姿。


 …それは義博の想いの顕れ。
 忘れられたくない。
 ずっと囚われていて欲しい。
 拘り続けていて欲しい。
 私に。


「…久し振りですね、孝博」


 私の居ない世界を構築するなんて、赦さない。
 孝博。
 …望んでしまう。
 それでは孝博が生きる事が出来ない。
 構わない。
 私と言う致命的な傷痕を、時に癒されてしまうくらいなら。
 私と言う重い槌で、いっそすべて砕き散らしてしまいたい。
 孝博。


 孝博の耳に流れ込んで来たのは、穏やかな快い低音。
 誰よりも聞き慣れた。
 誰よりも聞く事を望んでいた。
 けれど今、そこにあるなどとは有り得ない筈の。


 兄の、声。


 見開かれる瞳。
 そこに在る、何も変わらぬ兄の姿。
 目の前に。
 微笑んで。
 七年も時が経ちながら、何ひとつ変わらない、優しい兄。
 語り掛け、そ、と手を差し伸べて来るその姿。


 嘘だ。
 けれど。
 自分が兄を見間違う訳は無い。


 孝博の頭の中が真っ白になる。
 自らの決意、想い、常識――すべてが一瞬にして消え失せた。


 ――――――時が、静止する。


【了】
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
深海残月 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年01月09日

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