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『約束の、チェックメイト 』
セレスティ・カーニンガム1883

 青い瞳は文字を追わず、しかし、書物に触れたその手が汲み取る意思に、文字による幻影が、心の中に鮮やかに流れ込んでくる。
 古びた書物の、高く積みあがる空間。その一角にひっそりと佇む執務机にも似た質素な机には、一人の青年が腰掛けていた。
 青年が――書斎の主でもあるセレスティ・カーニンガムが、時間を忘れて読書に没頭して、暫く。
 しかし青年はふと、本との繋がりを断ち切られたかのようにして、顔を上げていた。
 ――どうやら今日も、ゆっくりと読書をさせてもらえはしなさそうですね。
 遠くから近づいてくる気配を鋭く察し、書斎の主は車椅子に腰掛けたそのままで、長い銀髪をするりとかき上げる。
 日本の長い正月も、いよいよ終わり頃に差し掛かっていた。新年早々、ちょっとした伝でお宮参りというものに参加したりはしたものの、やはり屋敷でゆるりと過ごす日々には、それとは又違った楽しさがある。
 たまには、どこかに出かけるのも確かに良い事だ。が、しかし、
 ……しかし日常も、大切なもの、ですからね。
 心の中で付け加えた、その途端、
「おじさん! チェス教えて!」
 ばたんっ! と乱暴に、扉の開かれる音が聞えて来た。それに続き、こちらへと駆け寄ってくる足音と、可愛らしい声音とが近づいてくる。
 セレスは読んでいた――正確に言うなれば、感じ取っていた本の頁へと、しおりを挟み込み、
「また……どうしたんです? チェス、だなんて」
 抱えたぬいぐるみと共に、勢い良く飛びついてきた少女の頭を、軽く撫でた。
 ――最近では、前にも増して、この少女は自分へと懐いてくれている。まるで父親であるかのように慕われ、正直、気恥ずかしい所も少しばかりはあるのだが、
「駄目秘書と、しょーぶするコトになったの!」
「――チェス、した事があるんですか?」
「ないよ! ないけど、そーなったの! だから、おしえて! あたし、かちたいんだー」
 無邪気な笑顔はセレスの気持ちも知らず、楽しそうに精一杯腕を伸ばすのみであった。言葉だけではなく、全身で語ってくれる――見えなくとも、多くの心が伝わって来る。
 正月早々、随分な試みだとは思う。正月早々仕事熱心になっているあの秘書は確か、チェスにも多少の嗜みがあったはずであった。
 それを、全くの初心者にして、勝負して勝とうとするなどと。
「本を読んでおぼえてもいーんだけど、おじさん、チェスつよいんでしょ?」
「強い、というほどでもありませんが」
「でも、ショーギもできるんでしょ? だったら、ツヨイんだよ! きっと!」
 見も蓋も無い発言ではあったが、ある意味当たってはいる。
 肯定するわけでもなく――逆に、否定するわけでもなく、セレスはただ穏かな微笑を浮かべて見せた。
 果してあの秘書の何が、この少女の闘志へと火を点けさせたのか。
 ……少々気になる所では、ありますね。
「――しかし、私で良ければ、お教え致しましょう。キミが思っていらっしゃるのよりも、強くはないかも知れませんが」
「まーたゴケンソンを!」
「おや、そんな言葉、どこで覚えてきたんです?」
「あの駄目秘書がよーくくちにしてるの。イミ、わかんないけど」
 膝の上に手を置き、見上げる気配が感じられる。
 不意にぱふん、と、顔へと何かがぶつけられ、
「ほら、このコもよろしくぅ〜、って! セレスちゃん、ヨロシクねっ!」
 クリスマスの日、枕元に置いてあったぬいぐるみをセレスの顔へと近づけた少女は、元々高い声を更に愛らしく高め、その手でぬいぐるみの頭をぺこりと下げさせた。
 くたり、と力なく垂れる情けなさが可愛いぬいぐるみに、えへへ、と大きく微笑みながら。


 机の引き出しからチェッカーボードを取り出し、机の上に、そっと置く。
 途端わぁ、と、少女が大きく目を見開いた。
「――ガラス……!」
 透明な硝子と、白く曇った硝子のチェス駒。同じ色合いの、硝子のチェッカーボード。
 触ってみます? とセレスから問いかけられ、少女はそのの手から白い駒を一つ受取った。重く、冷たい感触に、
「すっごく、きれー!」
 小さな窓から差し込む沈み始めた太陽の光に、薄くきららに反射させる。透かして世界の向うを見つめ、十分に楽しんでから、セレスの方へと向き直り、
「これ、おじさんのなの?」
「ええ、頂いた物ではありますが……きっと、綺麗なのでしょうね」
 セレスは机の上の電灯を灯すと、その光に、一瞬だけ瞳を閉ざした。
 光を避けるようにして置かれている机の上が、珍しく光に照らし出される。
「――基礎から、説明致しましょう」
 その前に、と、まずは少女に椅子のある位置を教え、自分の隣に腰掛けてもらう。その間にセレスは駒を並べ、机の別の引き出しから古びたチェスの解説本を一冊取り出した。
 たまに、ではあったが、一人チェスをやらないわけでもない。このチェスセットも、そもそもはその為に置いてある物なのだから。
「チェスについて、何かご存知な事は?」
「……ない!」
「……そう、ですか」
 予想していた返答と雖も、そこまで元気にきっぱりと返されてしまうと、少々返答に詰まってしまう。
 苦笑しながらに本を開き、それではまずは、と、ポーンの解説を指差した。
「洋書は、読めますよね?」
「んー、ナニゴでもしゃべれるし、よめるよー! なにせあたし、精霊さんだし」
 えへん、と、小さな童話の精霊は胸を張ってみせる。それを証明して見せましょう、と言わんばかりに、
「――ポーンは兵士さんなんだね? マエにむかってイッポしかすすめないの〜。でも、さいしょだけはニホすすんでもいーんでしょ?」
「そうです、その通りですよ。けれども取れる駒は、」
「ナナメマエなの! メノマエのコマはとれませ〜ん!」
「ええ、良く出来ました。その調子で、次ぎも覚えていきましょうか」
 見上げられて説明され、セレスは次ぎに、ビショップの説明を指で指す。
「ビショップは、僧侶です。それぞれ斜めに、動きますね? 目の前に駒が無ければ、どこまでも行く事ができます」
「ハシからハシまででも、だいじょーぶ?」
「ええ、大丈夫ですよ。まぁ、そのような状況には、ならないと思いますけれどもね――では、次ぎはルークです。ルークは、お城の兵士さんです。入城……の話は後にしましょうか、ややこしくなると、いけませんからね」
「にゅーじょー?」
「ええ、チェスには特殊ルールがいくつかあるのですけれども、その内の一つですよ。それは後で、まとめて説明致します。知らなくてもゲームができるようなルールも、いくつかありますからね」
 それよりも先に、何よりも先に、駒の動きを覚えなくては話になるまい。
「ルークは、前と後ろと、左右にどこまでも動く事ができます。その点は、ビショップと一緒です。……この二つを合わせたような動きを、」
「クイーンがするんだね! 女王様は、王様をシリにしいてるの!」
「……と、良いますと?」
「だーってそこをみると、キングのコマはジブンのまわりにしかうごけないんでしょ〜? だったら、やっぱり王様はシリにしかれてるんだよ!」
「はぁ……」
 やっぱりオンナはつよーいんだね! と、両手を叩いた少女は笑顔でセレスから本をひったくると、
「さ、のこりはナイト、だねっ! 騎士様だよ、騎士! お馬に乗った王子様〜!」
「王子と騎士とは、ちが――、」
「白馬の王子様! 実は騎士様のしょーたいは、とーい異国のお姫様をマモるためにやってきた王子様なの!」
 その夢に満ち溢れた声音に、セレスは知らず、口を噤まざるを得ずにいた。
 ――ナイトは、一軍の中に二つ、あるんですよ?
 それでは三角関係ではないかと、ふと思いはしたものの、
「じつは王子様とお姫様は、むかしにいちどだけあったことのある仲なの! でね、恋におちていたんだ〜。そのサナカに、お姫様の国でせんそーがおこっちゃうの! しんぱいになった王子様は、お姫様をまもるためにお城をとびだすんだよ!」
「――色々とお話をお考えになるんですね」
「そりゃああたし、本の精霊さんだし!」
 よーし! と少女は本を閉ざすと、突然勢い良く、椅子の上へと立ち上がった。身を乗り出し、白いポーンを一歩、前へと進ませる。
 ――e3の、ポーン。
「おじさん! サッソクしょーぶしよ! イロイロとおしえてー、ね?」
 その素早さに、セレスは小さく微笑むと、良いでしょう、と、透明なチェス駒に、そっと手をかけた。


 その日の夜、夕食も終わり、一段落をついて暫く。
 珍しく、静かな時間がずっと続いていた。
 向かい合う、青年と少女。少女の隣からひっそりと耳打ちをする、セレス。
 局面は、白と黒との織成すチェッカーボードの上で。今度は少女は打って変わって、木製のチェス駒と何度も悩み、唸りながら。
 ――そうして、ついに。
 審判の時が、下り来た。
「チェック――チェックメイト!」
「――……う……、」
「ウソじゃないって! あたしのかち! やったーっ!」
 喜びの声をあげたのは、秘書ではなく、あの少女。
 秘書の操る黒のキングは追い詰められ、行き場をなくしてじっと佇むのみであった。どこへ動こうとも、もう白の軍隊からは、逃れる事ができない。
「やったー! かったあああっ! かったよおじさんっ!」
「ええ、勝ちましたね」
 息を詰まらしたかのようにチェッカーボードを見つめる秘書とは対照的に、少女はご丁寧に黒のキングを取り上げる事の出来る位置まで――白のナイトの守備範囲まで動かすと、ほらほら! もー逃げられないでしょ! と言わんばかりに騒ぎ立て、胸元に抱きかかえていたぬいぐるみの手を引っつかみ、すぐ傍の空間でくるくると即興のダンスを踊り始めていた。
 秘書は思わず大きく項垂れ、喜びに喜んでいる少女の方を一瞥する。
 ――その手元に振り回されているぬいぐるみが、
 さながら自分であるかのように見えてしまって。
「……総帥!」
「良いではありませんか。それに私は、少しお手伝いを致しただけですよ」
 珍しく、セレスに向って諫言染みた声音をあげてしまう。目の前で暢気に微笑む上司の瞳をじっと見つめると、
「――約束、していたんですよ!」
「何を、です?」
「お宮参りです!」
 助けを求めるかのように、言い放った。
 ――安易な約束を結んだ自分が悪いとは雖も、
「セレスティ様がお宮参りに行って来たのを見て、あたしも行きたい! と言い出していたんですよ――それで思わずその場のノリで、チェスに勝ったら連れてってあげますよ、と……」
 正月は、忙しいというのに。
 私とした事が、何たる失態を……!
 秘書は頭を抱え、チェッカーボードをもう一度見据え直した。
 行き場を無くした黒のキングが、どうしてか今日は、いつも以上にもの悲しさを醸し出してくる。
 ……ああ、
「まさか……あの子がチェスをやりたがるだなんて、思っていなかったんですよ……」
「ええ、私も正直驚きましたよ。彼女が、チェスを教えて欲しいだなんて」
 退屈だ、と、暴れ出すものだとばかり思っていましたからね。
 付け加え、セレスは紅茶を一口する。甘やかな香りに、ほっと一息を吐くと、
「――でも、そのような約束なら、別に困る事はないのではありませんか?」
 少しだけ、意地悪く問いかける。
 ――どうせこの秘書の事です。
 セレスとしても、彼が何を言いたがっているのかは、わかってはいたものの、
「一緒に行って来てさしあげてはどうです? ほら、あんなに喜んでいらっしゃるんですし」
 どたどたという音と、わーい! という声の心地良い和声を聞きながら、秘書へと向かってにっこりと微笑みかけた。
 少女の喜びの気配も、一入に。しかし、だからこそ、
「いけません……お正月は、忙しいんです。そんな中お宮参りに行くとしても、あの子に付き合い切れる自信が――、無い、んです」
 秘書の悩みも、一入に。
 セレスは、そんな秘書の言葉に素直に苦笑すると、間合い良く二人の方へと戻って来た少女を呼び寄せる。
 少しだけ息を切らしている少女の肩に手を添え、耳打ちするかのように、しかし、秘書へと聞える声音で呟いた。
「どうやらお宮参り、連れて行って下さるそうですよ」
「ええっ?! おじさん、それ、ホント?!」
「ええ、心配なのでしたら、キミからも聞いてご覧なさい」
「駄目秘書、ほんっとー?!」
「セレスティ様!」
「……良いではありませんか」
 少女の背を、秘書の方へと押してやる。
 ここ最近で、すっかり兄弟のような仲になってしまった二人。だからこそ、
「たまには二人きりで、お出かけしていらっしゃい。仕事の方なら、私がどうにかしておきましょう」
「しかし――!」
「でしたら、こうしましょう」
 だからこそ、たまには楽しく過ごしてもらうのも、決して悪い事ではあるまい。
 ――普段楽しみを頂いている分、
「これは、秘書としての、お仕事です。私の代わりに、財閥の行く末をお祈りして来て下さい」
「総帥! 総帥はもう、お宮参りに――、」
「ええ、行って参りましたよ。しかし、一本の矢も――、と言いますでしょう。ああ、キミも是非、お祈りしてきて下さいね?」
「うん、するー! あたしもおいのりしてくるからね!」
 その分の楽しみを、少しでも、享受してきてもらうのも。
 それに、
「それに、それから……お宮参りの後は、お話も聞かせて下さい。色々な事が、あるでしょうからね」
 その思い出話は、きっとセレスにとっても、楽しいものとなる。
 セレスは白のナイトを手に取ると、黒のキングと置き換えた。白の騎士に、捕われの身となった黒の王の駒を、静かに取り上げ、
「改めまして、チェックメイト、ですよ」
 諦めたように――けれども照れたように頭を下げた秘書へと、ふわりと、手渡した。
 海底にやわらかく揺れる日溜りの光を、瞳に優しく、揺蕩わせながら。

Finis


05 gennaio 2004
Grazie per la vostra lettura !
Lina Umizuki
PCシチュエーションノベル(シングル) -
海月 里奈 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年01月07日

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