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『ひとひら 』
八尾・イナック2430

「イナチャン、今日は多分、夕方からもっと人通りが激しくなるよ。クリスマスだからね」
 そんな言葉と共に、半分に割った焼き芋の包みを手渡されて初めて、今日が『クリスマス・イヴ』と呼ばれる日だった事に気づく。
 どうりで、昼間からカップルが多いなと彼――八尾イナックもぼんやりと気づいてはいたのだ。
 駅前、人通りの激しい大通りの道端で。
 彼は大きな布を目の前に広げ、その上に手製のブレスレッドやら指輪やらチョーカーやらキーチェーンやらを雑然と並べている。あぐらを掻いている膝の上にまだ暖かい焼き芋の袋を大切そうに抱えて、それをくれた同業者にありがとうと礼を言った。
 今日は娘に、ケーキを買って帰るって約束したンさァ――縫い目から鳥の羽根が所々はみ出てしまっている薄いダウンを羽織った中年の男が、照れたふうに頬を掻きながら続ける。この男は、時々ふらりとこの大通りに現れては小さなカンバスを広げ、新聞の風刺画のようなタッチで通行人の似顔絵を描いた。その絵を気に入った客は、幾許かの金を払って男からその絵を買い取るのだ。物珍しげに足を留める客ならたくさんいたが、実際にその絵を買うと言う客はごく稀である。イナックは男を不器用だと思う。
「じゃあ、次に会うのは年明けかな…次は私がおごるからねぇ、あの今川焼き屋が戻って来たら」
 今川焼き屋というのは、週末だけこの通りで屋台を開く中年の女性の事だ。恰幅と気前がとても良く、『路上仲間』に愛されているおばさんである。年末年始は田舎に帰って温泉に入るんだと言っていたが、本当がどうかは誰も知らない。
 気にすンなィ、そう言って駅へと歩いていく男の後ろ姿を、イナックはしばしの間見送っていた。そして、この芋と娘とやらへのケーキで、今日の彼の稼ぎはすっかり飛んでしまうのだろうなと想像した。男の小さく汚れた背中は人の波に紛れ、やがて見えなくなってしまう。
 寒空の下、すっかり凍えてしまった指先を充分に温めてから、イナックは焼き芋の包みをそっと開け、中身をちびちびと千切って口に運ぶ。鼻の中を甘く柔らかな香りが通って、少しだけイナックは嬉しくなる。そして別れ間際、男にメリークリスマスと良いお年を、を言わなかった事を少しだけ残念に思った。
 もともと、人情から来る感情の起伏に乏しい男なのだ。

 男に言われてから改めて周囲を見回せば、時間の割りにいつもよりずっと明るい。街頭にこれでもかと言うほどの電飾が施されているからだ。どうしてこんなに街の風景が変わっている事に気が付かなかったのだろう。イナックは口の中で芋をゆっくりと咀嚼しながらそう思う。
「すみません、それ、触ってみてもいいですかァ?」
 イナックの目の前でしゃがみこんで、長い髪を耳に掻き上げているOL風の若い女が言った。もぐもぐと口を動かしながらも人懐こい笑顔で、どうぞ、とイナックが言葉を返す。
 彼女は白く細い指を伸ばして、これなんか可愛いよねぇ、と言いながら十字架をあしらったシルバーのピアスをそっと手に取った。傍らには同じように男がしゃがみ込んでいて、うんうん、と判っているんだかいないんだかの曖昧な、それでも決して不愉快ではない様子で女に相槌を打つ。2ヶ月、なんて所だろうか――イナックは思った。目の前のカップルがつき合い始めてからの日数の想像である。
「良く選んで、手作りだからみんな違う顔してるの。あなたに買って欲しいって言ってる子をきちんと探してあげて」
 押し売りはしない。客を自分から選ぶような真似もしない。
 それがイナックの遣り方である。
 欲しい、欲しくないの感情や、安い、高いの値段の価値だけでは計れぬ何かを感じ取れる人の所に、全ての人や物は導かれて生きるのだ。自分が生み出した手製の小物達にも、そしてそれを手に取る人たちにもそれはある。
「う〜ん、難しいやぁ。ねえ、一緒に選んでよぅ」
 女が連れの男の腕を掴んで、甘えたような声を出す。別の品物に目を奪われていたのだろうか、男が慌てて女の指先に視線を戻した。
「うんうん、可愛いんじゃない? それでも良いし、どれでも良いよ。好きなの選びなよ」
 男が言う。
 女はう〜ん、と鼻に掛かるような高い声で唸りながら、しゃがんたスカートの裾を気にした。

 飽きもせずアクセサリーの1つ1つを手に取っては眺め、また置いては男の腕を引っ張る女の、俯きがちな睫毛の辺りを何とは無しに眺めていながらも、イナックの心は疲弊する。
 理解する事が、どうしてもできないのだ。
 ちょっとしたイベントごとに浮き足立ち、愛だの恋だのと浮かれて些細なプレゼントに一喜一憂する――そんな彼らの瑞々しい心の内が、イナックには判らない。
 自分に恋人がいないからそう言った気持ちを理解できないのかもしれないし、理解できないからこそ恋人がいないのかもしれない。彼自身にも良くわからない。
 ただ、疲弊する。
『あなたの欲しがってた絵の具、ほら、これよね?』
 愛情の証は、目に見える物でなくては伝えきれないのでしょうか。
『だから良い子でいられるわね、1人でも大丈夫ね』
 手の掛からない子供でいる事でしか、自分の居場所は貰えなかったのでしょうか。
『坊主、お前にゃ何の恨みも無いが、堪忍な…パパとママを恨むんだぜ』
 1つずつ積み重ねてきたものがもろもろと跡形もなく崩れ去ってしまったあとで。
『ガキんちょの落書きなんざ、一銭にもなりゃしねえなァ…ったく』
 自分は、何を信じて生きて行けば良かったのでしょうか?
「――これが、ちょっと気になるんだけど。どうよ?」
 男の声に、はっと我に返ってイナックが目を瞬かせる。
 手のひらの中で焼き芋はすっかり冷えてしまっていて、イナックはそれを再び紙包みの中にしまい込んだ。
「あ、きれーい! すごいね、きらきらしてる」
 見ると、先ほどから男がちらちらと視線を投げていた鈍金色のブレスレッドだった。雪の結晶を意識して加工したモチーフが、それぞれ長さの違う細いチェーンの所々にあしらってある。今年は雪が早いと耳にして、2ヶ月前に作ったものだ。
「これなら、そのセーターにも良く合うと思う。どう?」
「うんうん、これがいい!」
 いくらですか、と朴訥な口調で男がイナックに問う。値段を告げると、値切る様子も見せずに男が財布を開いた。
 今すぐここで付けて行くと女が言ったので、二連にするともっと綺麗だからと言って細いチェーンを一本おまけしてやった。いつも、値切られる事を踏まえた上で値段を言うのだ。チェーン1本くらいつけてもまだ儲けは色濃い。
 大切にしてやってね、と言うと女がにっこりと笑って頷いた。
 選ばれたんだ、とイナックは思う。
 メリー・クリスマス。
 男と女は腕を組み、寄り添いながら人込みの中へ消えていく。
 擦れてしゃらしゃらと結晶が鳴るのを、イナックはしばらくの間耳の奥に聴いていたような気がした。 
PCシチュエーションノベル(シングル) -
森田桃子 クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年12月22日

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