▼作品詳細検索▼  →クリエイター検索


『冴月綺譚』
大神・総一郎2236
-----------------------------------
篝火に照らされ、舞台は朱色となって闇に浮かび上がっている。
朗々と流れる謡と、舞台に響く太鼓の音はどこまでも遠く暗闇を伝い、静けさに拍車をかけていた。
すらりと宙を滑った手が、中空でぴたりと止まる。身体全てで物語を表現するのが、能というものだ。足の先、爪の先までに神経を集中させるその動きには、無駄なものなど何一つない。
能は身体の動き、速度、些細な仕草と、独特の謡と囃子だけで物語を織り成す、日本の伝統芸能だ。話の主役となる役者たちは、たいてい面を被るために、表情はわからない。怒りや悲しみ、喜びといった表現を、顔の表情以外で表すところに、能の真髄があるのだ。
舞台に立てるようになるまでには、絶え間ない稽古と厳しい修行が必要である。
タン、と闇を打ち据えて、太鼓が音を立てた。
日の暮れた闇の中でざわめいていた人の気配は、舞台に出ると不思議なほどに引いていった。すぅっと気配は闇に吸い込まれる。舞台の外の景色は視界に入らなくなり、篝火に照らされた舞台だけがぼんやりと輝くようになる。
篝火によって照らし出された舞台は、神域だ。舞っている間、大神総一郎は人ではなくなる。舞台に立っている彼は神であり、鬼であり、時として女性であった。次期家元が舞う舞台は、「神ですらも足を止めて舞いに見入る」と絶賛されたほどだ。
総一郎の身体は、舞台に出た瞬間、何も考えなくても動き始める。
火の爆ぜる音までがはっきりと聞き取れる。謡に連れて、身体が動く。一つの動きが、すでにもう一つ先の舞への布石になっている。重力すらも感じさせず、人の気配すらも見せず、囃子に乗せて、総一郎の身体は舞台の上を自由に舞った。
薪能の舞台を、よく人は幽玄、と表現する。その意味は優雅で妖艶。どこか現世から隔離された世界である。
現実と能の世界の境界が曖昧になり、総一郎からは、自分が能を舞っているのだという意識もどこかへ薄れていく。
身体だけが、何をするべきかを承知していて、寸分の乱れもなく、流れるように舞った。
太鼓も囃子も、周囲に立ち込めた静謐な空気を打ち壊すことはない。篝火に照らされ、衣の裾を翻して舞う総一郎の姿に、人々は吹き付ける風の冷たさも忘れて引き込まれていった。


舞台を終え、帰り支度を整えた総一郎と舞台仲間たちは、暗がりに月明かりを薄く反射する砂利石を踏んで、能楽堂を後にした。
舞台が終われば、役者たちは帰り支度が整ったものから、自由解散してもいいことになっている。先輩格や師匠を置いて帰ることはできないから、若い者たちは皆、最後の最後まで残るのが常だった。
むろん、次期家元である総一郎は、最後まで残っている必要はない。古参の者たちに挨拶を済ませれば、比較的早く帰らせてもらえる。
だが、風格を漂わせているこの次期家元は、若い連中を待って談笑しながら帰るだけの気さくさも持ち合わせていた。
総一郎には、決まって一緒に帰る相手がいるわけではない。弟と舞台を共にすれば、同じ家に帰るのだから当然肩を並べて帰ることになるが、その程度である。弟がいなければ、気が向いた時に、ころあいを見てふらりと家路に着く。若者たちが荷物を纏めるまで待つこともあったし、年の離れた古参の者たちと帰ることもあった。
その日は、帰り支度を終えた総一郎を若い連中が誘ったので、彼らは六、七人で夜の敷石を踏みしめながら、神社を後にしようとしていた。
神の世界から解き放たれた体には、冬の夜風は冷たい。口々に寒い寒いと繰り返しながら、若者たちは足を速める。
「うぅっ、寒い。今日は冷え込むなぁ」
「おでんとか、食べて帰ったら身体が暖まりそうですね」
闇に白い息を輝かせながら、彼らは口々にそんなことを言い合っては、神社の外へと急ぐ。
空気がきんきんに冷えているせいか、空は高く、満天の星明りのせいで足元は明るかった。月も出ている。
今日は満月だろうか。粛然と構えた神門の裾に、月が掛かっている。
「…………」
若者たちの会話に返事を返しながら、総一郎はふと言葉を止めた。
「どうかしましたか?」
「いや。……ちょっと、思い出したことが」
怪訝そうな顔をしている仲間たちに軽く笑みを作って、総一郎は立ち止まった。
「すまないが、先に帰っていてくれないか」
「忘れ物ですか」
「ああ。ついでに先生のところへご挨拶に伺おうかと思っている。遅くなるだろうから、先に帰っていてくれ」
若者たちは首を傾げたが、稽古や舞台の帰りに、総一郎が意見を求めに年配の能役者のところへ行くことはよくあったので、さして疑問に思わなかったようだ。
「それじゃ、お先に失礼します」
と頭を下げ、団子状態に固まって寒さを凌ぎながら、門へ向かって歩いていく。
彼らの姿が闇に紛れて見えなくなるまで見送ってから、総一郎は空を見上げた。
月と星明りの下で、巨大な神門は星を散らした夜空を切り取るように聳えている。
平坦にならされたはずのその屋根が、一箇所歪に歪んでいた。
歪な影は、人の形をしている。額の中央から、突起のようなものが出て天を衝いていた。
「舞に釣られて出てきたか」
普段若者たちと居るときには窺わせない声色で、総一郎は声を投げ上げる。
能は、もともと神を祭るためのものだ。だから、こうして人外の者に出会うことも少なくない。
能につられてやってくるのは、たちが悪い悪鬼悪霊から、その土地の守り神のようなものまでさまざまだ。
(善き鬼……には、見えないか)
空気を通して伝わってくる波動が不快なのは、それが悪意を持っている証拠だ。長年の経験から、総一郎はそれを知っている。
と……ゆらり、と鬼の姿が揺らいだ。
途端に、静謐だった神社にぞわりと瘴気が広がる。総一郎が鋭敏な感覚で捕らえた邪の気配は、みるみる膨れ上がってその正体を露にした。
置物のように大人しかったその影は、月明かりに剥き出した牙を白く光らせ、屋根を這うようにして、総一郎を睨み据えている。
「皆を帰して正解だったようだな」
吹き付ける鬼の乱暴な気配に、肌がぴりぴりと攣れる。殆ど意識せぬうちに、指が掴みなれた柄の感覚を探した。
総一郎の意志にすぐさま反応して、緩やかに握られた手のひらの中に、刀の柄の感覚が生じる。
朧な感覚だったその感触は、総一郎が強く柄を握り締めるとさらに存在感を増した。やがて、総一郎の手には確りと刀の重さと感覚が感じられるようになる。泰山天斉仁霊刀。総一郎が手にする刀は、天覇と呼ばれていた。
ごつごつとした鬼の足が、神門の屋根を蹴る。一瞬宙に浮いた鬼の身体が、次の瞬間には目にもとまらぬスピードで総一郎の前に迫ってきた。
刀を振り上げるのを躊躇ったのは、鬼の表情に悪意がなかったからだ。
人を襲う意思は感じられるのに、そこには憎しみも、恨みも見当たらない。
長い、永すぎる年月が、鬼に昔の記憶を忘れさせてしまったのだろう。
「…………」
鬼のカッと開いた口が眼前にまで迫っている。
これ以上躊躇っていることは出来なかった。
スラリと夜の闇に白く刀が閃き、夜空に弧を描いた。
まるで力を入れたようにも見えないその所作で、鬼は軌道を外した。
刀の動きに釣られるように、総一郎には当たることなく、身体が宙に舞う。
完全に刀を振り切った、数秒後に、鬼が地面に落下した。
まるで碁石をぶちまけたように、砂利が夜の静寂を破る。
霊刀によってしとめられた鬼は、もう動くこともなく、やがて闇に紛れるように掻き消えた。
後には、巨大な人の形に、砂利が乱れているのが残っているだけである。
それも、明日になれば宮司の手によって清められるだろう。
小さな息をついて、総一郎は空を仰いだ。
「次にこの世に生を受ける時は、もうこんな運命を辿ることがないといいんだが」
誰にも届くはずのないその呟きは、紺碧の夜空に吸い込まれた。
空では星が、耳を澄ませているかのように、ちろちろと瞬いている。




―「冴月綺譚」―




PCシチュエーションノベル(シングル) -
在原飛鳥 クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年12月18日

投票はログイン後にできます。

ログインはこちら












©Frontier Works Inc. All Rights Reserved.