祈りよ。
願いよ。
祝福よ。
天上へ届け。
思いを込め、紡ぎ出されるその音色の総てよ。
神の御許へ。
賛辞と賛美の限りを尽くし。
我らの為に。
貴方や貴女が死して後も、生きとし生けるこの世のすべてのもののために。
奇跡の子よ。母なる者よ。
祈り給え。
この祈りを聞き遂げ給え。
一時たりとも眠りもせず。
ただ永劫に。
我らの為に、祈り給え。
祈りにより浄化されても、また凝りもせず穢れ続けるこの魂の為に。
祈り給え。祈りを聞き遂げ給え。
そして人の心に平安と安らぎを齎し給え。
それこそが、神の――貴方がたの、存在する理由。
*
軽い頭痛を覚えた。こめかみに当てる指先が酷く冷たい。
かすかに血の気が下がっているようだ。
数時間、同じ姿勢でいたせいだろうか。窓硝子に身体を預けて座り込み、ぼんやりとベランダの柵越しに見える街の光景を眺めていた。その間、自分がしていたのは瞬きと呼吸だけ。何の思考もなく、ただひたすら、そこから見える物質と様々な色合いの光や影の動きを見つめていた。
頭痛は、おそらく今そうと気づいただけであって、数時間前から持続しているものなのだろう。鈍痛が頭蓋に反響し、不快な事この上ない。
……いや、響いているのは痛みだけではない。
なんだろう? 何が響いている?
思いながら、ゆっくりともたれかかっていた窓硝子から総身を離して立ち上がると、ラスイル・ライトウェイはキッチンへと足を運んだ。
すでに日は暮れ、灯りを点けていない室内は酷く薄暗い。だがずっとこの闇の中にいた彼にとって、それは行動を阻む物にはなりえなかった。
鈍く銀色の光を帯びるシンクに右手を置き、左手でグラスを取り、水道の蛇口を捻って水をグラスに注ぐ。ぼんやりとその水の流れを見ていた彼の手を、グラスから溢れた水が濡らして行く。
不思議と冷たさは感じなかった。もしかしたら手の冷たさの方が勝っていたのかもしれない。
再び、今度は先刻とは逆方向に蛇口を捻って水を止め、グラスに満ちた水を口にする。
酷い味だ。舌を刺すような苦味と、不味さ。不自然極まりないその水は、けれどもこの地に住まう者たちにとってはきっと、自然極まりない水。
……そういえば冷蔵庫の中にミネラルウォーターがあったはず。
今更そんなことを思い出すが、グラスの水をシンクに流し、再びそこにペットボトルから冷えた水を注ぐという作業を思うと、なんだか酷く億劫になる。それでも一先ずこの薬品臭さが染み付いた舌を無味の水で濯ぎたいような気はしたが――億劫さの方が勝った。気だるげにグラスをシンクに置く。振動でゆらと揺らぐ水。見た目は確かに透明なのに、その中には様々なものを内包している、水。
……見た目と実際がそぐわないのは、何も自分だけではない。
そんなことを思いながら舌に残る苦味を確かめるように人差し指で舌先に触れ、かすかに笑ってラスイルはまたリビングへと移動する。
そしてその途中にふと、ようやくさっきから頭の中に響いている「頭痛」以外の「もの」に気づく。
それは、寝室から流れてきていた。
確か弟子は仕事に出かけているはずだが、と思いながらわずかに開いたドアの隙間から寝室内を見やる。
室内は真っ暗だった。が、たった一つ、闇の中にぼんやりと明かりを灯しているものがある。
ベッドの傍らに置かれているミニコンポだった。普段なら絶対に、金に煩い弟子が電気代の無駄だとかなんとか言い電源を入れっぱなしになどしないはずのそこから、頭痛以外に頭に響くものが流れてきていた。
だがそれは痛みとは違い、むしろどこか心地よさを感じるもの。
優しい、音色。
優しさの中に祝福、そして敬虔な祈りを紡ぐ聖歌隊の歌声。
紡がれる詩は「天使祝詞」。
Ave Maria gratia plena Dominus tecum.
Benedicta tu in mulieribus et benedictus fructus ventris tui, Jesus, Sancta Maria, mater Dei, ora pro nobis peccatoribus ……
「……聖なるマリアよ、神の御母よ……祈りたまえ、我ら罪人の為に……か」
呟き、ラスイルは唇を歪めた。
祈って懺悔すれば何でも赦されると言うわけでもあるまいに。
「神というのも大変なものだ」
日々繰り返される祈りと願いは、止むことがない。たとえ美しいメロディに乗せていたとしても、聞き続けていたらそのうち気が狂れないだろうか?
それとも「神」だから、そんなことにはなりえない?
優しい顔をしながら残酷な事を平気でしでかすようなものに、そんな常識など押し付けても意味はない?
低い笑いが、ラスイルの唇から零れる。
神がこの世にいるのなら、教えて欲しい。
何故、この世を創られたのか。
何故、この世に罪なる物を創られたのか。
何故、人の中に愚かしさなど創られたのか。
何故、私の中に「人ならざるもの」の魂の欠片があるのか。
日が経つにつれ、時が流れるにつれ、自分の中が腐れていくような気がする。抱く魂に近づき、堕ちていく気がする。
実年齢に伴わない外見。歳を経ても、若いままの身体。
それゆえ、幼き日に見ていた夢を叶える事も出来なかった。一つのところに留まる事も出来なかった。
両親を、捨てざるを得なかった。
……神よ。
もしこの世に本当に貴方という存在があるのなら、教えて欲しい。
何故、私はここにいるのか。
あとどれだけのものをこの手から捨て去れば、私は楽になれるのか。
このような生に、一体何の意味があるのか。
――意味など、あるのか?
「……――っ!」
苛立ちが沸点を越えたのか、ラスイルは左の拳を壁に叩きつけていた。
と、その時。
ふっと、背後が明るくなった。驚いて振り返ると、そこには驚いた顔をした弟子――香坂 蓮(こうさか・れん)が、壁にある電灯のスイッチに手をついたままの姿勢で立っていた。
「……何……してるんだ、お前。壁、なんか……手で……」
声が途切れ途切れになるのは、驚きと共に怯えを覚えているからだろう。殴る、という事柄に関して、強い心的外傷がある故に。
ふっと短く吐息を漏らし、ラスイルは寝室に向けていた身を蓮の方へと向け直した。その顔に、もう先程までの苛立ちや嫌悪、憎悪と言った負の感情はない。もしそれらのものがまだあったとしても、きっと東京の不味い水を口にしたせいだと片付けられる程度のもの。
「貴方こそいつ戻ったんですか。言っているでしょう、出先から戻ってきたら必ず『ただいま』と言いなさいと」
「……言ったが聞かなかったのはお前だろう。それより、手は」
「ああ、心配には及びませんよ。貴方と違って、別に痛めた処で将来に影響がある訳でも無し」
紡がれた言葉にどこか自虐的な色を感じ、蓮はやや神経質に、わずかに眉を寄せた。だが何か言って今度はその感情の矛先が自分へ向けられても困ると思ったのか、そのまま無言で彼から離れてコートを脱ぐ。そしてふと、何か思い出したようにその脱ぎかけたコートのポケットから何か取り出し、ラスイルに向かって放り投げた。
「……?」
綺麗な放物線を描いて飛んで来たものを受け取り、暫し眺める。掌程の大きさの、モスグリーンのカラージュートでラッピングされた、四角い缶のようだった。耳元で振ってみると、中から何か乾いた何かが擦れる音がする。それは聴き覚えのある音。
「……紅茶のリーフですか?」
「依頼で買い物頼まれたんだが、そこで安売りしていたから」
「安売り、ですか。……まあいいですが。にしても、何故わざわざその安物にラッピングなんてしてもらったんですか。余計なお金がかかったでしょう?」
「……いや、今日は……」
言いかけて言葉を止め、脱いだコートをソファの背に投げやってその足で寝室へと向かう蓮を見ながら、ラスイルは緩く首を傾げた。
今日? ……何かあっただろうか?
怪訝な顔をしているラスイルをちらと振り返り、蓮はコンポの電源を切った。流れていた曲――ブルックナーのアヴェ・マリアが途絶え、室内にはしんと張り詰めた静けさが戻る。
その手で、今度はそのコンポの傍に置いていたヴァイオリンケースを開き、中から愛器を取り出した。
グァルネリ・デル・ジェスの、コピー。
元々はラスイルが使用していたそれを、手馴れたように調弦し弓を張り、彼の方へと差し出した。怪訝な顔のままのラスイルに、半ば押し付けるようにして愛器を手渡す。元の持ち主の手に返すように。
「『グァルネリは空隙を通して歌い、その歌は深遠である。その音は聖教会のステンドグラスの赤を思い出させる。人は特別である必要はなく、それは普通の人に訴えかける』」
紡がれた言葉に、ラスイルが渡されたヴァイオリンに落としていた瞳を上げて蓮を見る。蓮は、いつもと変わらぬ氷のように温度を感じさせない蒼く冷えた瞳と無表情のままだった。優しさだとか慈愛だとか――そういう温もりを有しない、精巧な人形にも似たその眼差し。別に感情を押し殺している訳でもなく、それが彼の常。
その眼差しのまま、蓮は言を継ぐ。
「と、言った奏者がいたが。……もしかしたらお前には、ロッカよりもむしろこっちの方が合っているんじゃないかと思うことがある。もっとも、これは本物のグァルネリではないが」
「…………」
何故、今、蓮がその言葉を持ち出したのか。ラスイルはそれを思ってかすかに笑った。
特別である必要は、なく。
普通の人に訴えかける、と。
お前もその音色が理解できる「ただの人間」だろう、と……そう彼は言いたかったのだろう。
抱く魂が何であれ――お前はお前だ、と。
無言のまま薄く笑うと、ラスイルはリビングへと移動し、抱えていたヴァイオリンを構えた。
元々は自分の愛器だった、ヴァイオリン。家を出る前に両親の元から盗み出してきた、自分と親とを繋ぐ唯一の品。
もう蓮に渡してしまい、自分もジュゼッペ・アントニオ・ロッカという愛器を手に入れてしまった為、よほどの事がないと触れる事もない、親との絆の形。
ゆっくりと、弦の上に弓を滑らせる。
流れ出るのは、美しい高音のソプラノ。鋭く噛み付くような高音ではなく、柔らかな――まるで羽が天上から舞い落ちてくるかのような。
いつものような、何か裏が隠されているような笑みではなく、自ら紡ぐその音色に心を洗われているかのような穏やかで安らいだ微笑を浮かべて、ラスイルはさっきまでコンポから流れていた曲を紡いでいく。
アヴェ・マリア。
神の子を身篭ったばかりに、自らも神として、罪人の為に祈り給えと言われる存在になった一人の母の歌を。
……思い、ラスイルは演奏を続けながらまた、唇を歪めて笑った。
どうも今日は、必要以上に卑屈になっているようだ。蓮が、何の為にかは分からないがあんな曲など流してたせいだ。自分的にはあまりぼんやりした後に聞きたい曲ではない。どうせならチャイコフスキーの1812大序曲でもかけてくれればいいものを……それはそれでどうかと蓮には言われそうだが、繊細で情緒的な部分もある曲には違いない。意識を現実に戻すに、あれは丁度いいだろう。
「――――。……それで、どうして今日とこれが関係あるんでしょう?」
演奏を終え、ヴァイオリンを下ろしながらラスイルは顎先でソファの上に置いた蓮からの贈り物を差す。それに、蓮は下ろされたヴァイオリンを受け取りながらかすかに笑った。
「安物でも、祝いには違いないだろう?」
「祝い? 何のですか?」
「……え? だから、今日……」
気づいていないのか、と眼差しで告げる弟子に、師は眉を寄せる。
「何ですか。勿体つけていないではっきり言いなさい」
いつもの威圧を含んだその言葉に、無意識のままわずかに身を引きながら、溜息をついて、蓮は無表情に戻ってぼやくように呟いた。
「誕生日だろう?」
「……え?」
ほんの少しだけ反応を遅らせたラスイルに、同様に少しだけ蓮も次に紡ぐ言葉を一瞬躊躇うように口を閉ざしてから、視線を逸らせて、低く言った。
「……セレスト・セルヴァン・シュレベールの」
「あぁ」
それに、ラスイルは吐息のような声を漏らして肩の力が抜けたように顔を伏せて笑った。
「なんだ、覚えていたんですか」
「何を? 誕生日を? それとも何かの嫌がらせのように長ったらしい誰かの名前を?」
一度しか蓮の前で口にした事がない、その名。
それは『ラスイル・ライトウェイ』という偽名を名乗る者の、真名だった。
前髪を指先でかき上げて、ラスイルは優美に微笑んだ。
「両方ですよ。大したものだ。一度しか聞いていない嫌がらせのように無駄に長い師の名前も、そしてその師の誕生日も覚えていてくれるだなんて。なんて師思いの弟子なんでしょうね」
「……お前がそう言っても空々しい」
「安物のプレゼントを買ってくる弟子にはそれで十分でしょう?」
ソファに腰を下ろして肘置きに身を預け、指先で金色のリボンを持ちぷらぷらと目の前でプレゼントを揺らせながら笑うラスイルに、蓮が溜息を漏らす。
「お前の誕生日は、忘れたくても忘れられないんだ。子供の頃、その日が来るのを何度待ち侘びた事か……」
「私の誕生日を祝いたくて?」
ラスイルが、違うと分かっている事をわざわざ問いながら悪戯っぽく笑いかける。それに対して蓮が思いきり嫌そうな顔をした。
「莫迦を言え。自分の誕生日だけはお前、レッスンしなかっただろうが。俺にとってその日は一年で唯一、殴られずにゆっくり休める日だったからな」
「そんな昔の事、よく覚えていますねえ」
「別に特別覚えていたい事でもなかったが……何となく、覚えていた」
「で、これ、と言うわけですか。まあ有難く頂戴しておきますよ。味によっては……ねえ? 分かっているとは思いますが?」
明言はせずとも既に今までの経験で師が何を言わんとしているのか分かっている蓮は、抱いた諦観を示すように溜息を漏らした。そしてそのまま無言でヴァイオリンを片付けに寝室へ戻っていく。
ふと、ラスイルは手の中にあるモスグリーンの包みに落としていた視線を上げ、寝室に消えた蓮の背中を追うように蒼瞳を動かした。
「――……」
……あの、コンポから流れていたアヴェ・マリア。頭痛と、そして不味い水と共に自分をこの上なく不快にさせた、あの曲。
もしかして、蓮がわざと、電源を落とさずに流しておいたものなのか?
もしかしたら、誕生日の祝いのつもりで流していたのではないか?
でなければ、普段は絶対に主電源まで落としていく蓮が音楽を流しっぱなしになどするわけがない。
もっとも、彼にそんな事をするロマンティスト的な側面があるのなら、の話――だが、意味もなくそんなことをする者でもない事はよく知っている。
「……やれやれ」
その歌を聞き、なんだか酷く荒んだ気分になっていた自分を思い、自然と苦笑が零れた。弟子の意を汲む事も出来ないとは、自分もまだまだのようである。
「……蓮、ちょっと」
呼ばれて、蓮がヴァイオリン片手に顔だけを寝室から出す。
「……なんだ」
「こちらへ来なさい」
早く愛器を片付けたいのだが、という言葉を明らかに顔に出しつつ、蓮がそれでも従順にラスイルの前に立つ。それに向けて、にっこりと微笑み。
「歌いなさい」
短く言った。わずかに蓮が眉を寄せる。そこには明らかな拒絶の色があった。
「何故。歌わせるくらいならヴァイオリンを弾かせ……」
「聞こえませんでしたか。歌いなさいと言っているんです私は」
笑みを消した鋭い視線と共に紡がれる威圧的なその言葉は、指示ではなく、命令。強い口調のそれに反抗を示したが最後、どうなるか身を持って熟知している蓮は、諦めたように視線を落とし、ふっと短く息をついた。
「……何を歌えと」
「ブルックナーのアヴェ・マリア」
「…………」
ぴくりと頬を引きつらせた蓮に、ラスイルは優しく微笑んだ。
「こんな日にまで貴方の奏でる頭痛を増長させるような機械的な曲は聞きたくないですからね。歌ならば、多少はマシでしょう? ああ、歌詞なら問題なく覚えているはず。ですよね?」
「……本気か」
「無論」
鮮やかな笑みと共にそう言われては、それ以上拒む事も出来ず。
蓮はまたしても諦めたように溜息をついてその場に立ち、大きく一つ息をついて静かに息を吸い込んだ。
静まり返った空気を震わせ、響く、歌声。彼の紡ぐヴァイオリンの音色に似たやや硬質な雰囲気を持つ、低すぎない声音が紡ぐ聖なる歌。
Sancta Maria, mater Dei, ora pro nobis peccatoribus ……
――本当は。
頭痛云々ではなく、批判する心を持たずに彼の音色を聞きたかったのかもしれない。
ヴァイオリンを奏でられしまうと、どうしても自分はそれを批判し、彼に教えを授けたくなる。それが分かっているからヴァイオリンではなく、今は歌で聞きたかったのだ。きっと。
既に彼は、技術的にはかなりのものだ。それでもまだ叩き込むように何かを教えようとしてしまうのは、自分が彼に過度の期待をしているせいだろう。
――…否。
それは期待ではなく――希望。
自分が、こんな身体を持つせいで叶えられなかった夢を、彼に叶えてもらいたいと思っているためだ。
それは、もしかしたら希望ですらなく、強すぎる「願い」なのかもしれない。
幼い頃に夢見た、ヴァイオリニストという職に就き世界を見たいというその願いを、自分は蓮に託しているのだ。
それが蓮にとって重荷でしかなくとも。
……けれども彼は今、その夢へと続く道を歩き続けている。ラスイルに託されたからではなく、自分の意志で。
紡がれる蓮の歌声を聞きながら、ラスイルはゆっくりと瞳を閉ざす。
自分が生きている意味なら、ここにある。
彼と出会い、彼にヴァイオリンの手解きをした事。
それだけで、自分の生にはもう十分な意味があるのではないか?
たとえ自分の自我が、強すぎる暗き魂の破片に引かれて堕ちてしまっても。
彼に教えた事はきっと、彼がこの世にあり続ける限り消える事はない。
彼が誰かに手解きをしたなら、そこには必ず、自分の教えも引き継がれるはず。
次から次へと。
それはある種、血の繋がりにも似た――…絆。
「……おい?」
歌い終えた蓮が呼びかけるが、答える声はなく。ただ紡がれるは静かな寝息。
溜息をつき、蓮は寝室から毛布を持ってきて師の身体にかけてやった。
「人に歌わせておいて自分は寝入るなど……俺はお前の子守唄を歌う為にいるんじゃない」
呟くが、やはり、師からの返事はない。よほど深く寝入っているのだろう。
別に返事を期待しての言葉ではなかったので、構わず蓮は再び寝室へと戻っていく。
師から受け継いだ、今は何よりも大切な愛器をケースの中で静かに眠らせてやる為に。
リビングに残されたラスイルは、変わらず、穏やかな眠りの中に居る。
もう、先刻まで感じていた頭痛はなくなっていた。
*
願わくば、この穢れた魂を抱えし我が祈りを。
全てのものをこの手から奪ってもいい。
けれど、たった一つ。
私の希望だけは、残して欲しい。
私の罪を癒すための祈りも。
願いも。
祝福も。
何も要らない。
ただ一つ、私の、夢だけを。
この手に残して。
神よ。
貴方がもしこの世にいると言うのなら、この願い、聞き届け給え。
罪深き魂を抱えし者が生まれた日の、この夜の祈りを――…
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