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『路上のアメージング・グレース 』
香坂・蓮1532)&シュライン・エマ(0086)



SCENE-[1] 年末の風物詩


「本当に最近、天気予報が当たらないわね」
 シュライン・エマは、路上を吹き抜ける一陣の北風にコートの襟許を掻き合わせ乍ら、冬空に向かって独り言を投げ上げた。吐く息が冷気に触れて白色を得、風に流れてゆく。
 確か、今朝の天気予報では、今日は午後から雨が降ると報じていた筈だ。しかもその確率たるや70パーセント。行き当たりばったりに日々を過ごしている楽天家でさえ、「傘、要るかな」くらいは考えつきそうな数値である。当然、シュラインも傘を持って家を出た。地球の温暖化が進んでいるとは言え、さすがに年末も押し迫ったこの時期、雨に打たれて風邪をひかない自信はない。
 それだというのに。
 草間興信所で溜まりに溜まった事務処理を一気に片付け、何とか今後の見通しが立ったところで帰宅の途に就くべく外へ出た彼女を待っていたのは、ここ数日にないほど冷え込み張り詰めた空気と、夕暮れ時の乾いた薄闇だった。
 降らないなら降らないで別段構いはしないのだが、決して少なくない荷を腕に抱えた帰り道、出番のない傘を持ち歩くというのは、億劫なものである。
 そんなことを思い、大通りに面した老舗デパートの角をすいと曲がったシュラインの眼に、ふと、風に靡く赤い幟旗が映った。
『年末ジャンボ宝くじ発売中! 1等、前後賞合わせて3億円のチャンス!』
 (宝くじ、か)
 シュラインはチャンス・センターの前に長蛇の列を作っている宝くじ購入客達を何気なく眺め乍ら、脳裡に一人の友人の姿を思い描いた。
 香坂蓮。
 シュラインの中で、「宝くじ」という単語からすぐさま連想できる対象と言えば、彼を措いて他にない。1等の賞金が幾らだとか、何日から発売開始だとか、そんなことよりも何よりも、とりあえず香坂蓮である。
 きれいな顔立ちに無愛想を張り付け、時間と金にやたら煩い青年ヴァイオリニスト。
 彼は、傍から見ていると滑稽なほど、宝くじに拘っている。いや、正確には、宝くじの賞金に拘っているのだろう。
 1等、前後賞合わせて、3億円。
 改めてそう言われてみれば、一介の社会人として拘りたくなる額ではあり――――同時にあまりに途方もないその金額呈示に現実感を覚えず、どうせ当たるわけがないという諦念も加わって、シュライン自身はさして購入意欲が湧かない。
 だが、蓮は、当選確率云々など知ったことかとばかりに、自分の手の届く範囲で宝くじの入手に真剣のようである。その様子を見ていると、彼の場合やはり、一時の夢を買おうとしているのではなく、何としても金が欲しいということなのだろう。
 金にばかり執心しているとなれば、一体どんな俗物かと邪推したくもなるが、友人として日常的に蓮に接していると、彼が手にしたがっている「金」というものの向こう側に、何か大きな存在が垣間見える気がしてくるから不思議だ。
 そんな勝手な想像は想像として、今確かにここにあるのは、今年の夏、秋の宝くじ発売シーズン、シュラインがそれぞれ売り場で蓮を見かけたという事実である。
 偶然と言えば、偶然。
 宝くじ売り場などあちらこちらに点在しているというのに、夏も秋も、ちょうど眼を遣ったそこに彼はいた。
 そう、夏も、秋も――――。
「……二度あることは、って言うわよね……?」
 シュラインは、何となく気になって、チャンス・センターに眼を向けた。
 予めバッグから取り出した財布を手に手に、購入の順番を待つ客達が織り成す雑踏。連番で、バラで、などと短い掛け声がカウンター越しに繰り返されている。
 そんな中。
「……あ」
 シュラインは、思わず二度、瞬きをした。
「まさか、本当にいるなんて」
 カウンター前の列からは少し外れた売り場脇に、蓮はいた。
 並んでいないところを見ると、もう買った後なのだろうか。しかし、それにしては――――何か考え込んででもいるのか、彼は右手で自分の左肩を掴んだ姿勢で、あらぬ方をみつめている。その左手にいつものヴァイオリン・ケースが提げられているのは、どこかで演奏してきた帰りだからか。
 これまで宝くじ売り場で蓮を見かけても声をかけそびれていたシュラインだったが、今回は一人思い悩んでいる風な彼をこのまま見過ごすのも気が退け、数歩歩み寄ると、
「香坂くん」
 声を、かけてみた。
 刹那、蓮の視線が揺らぎ、その青い眸がすっとシュラインの方へ向けられた。
「……ああ」
 アンタか、と言いたげな表情で、蓮が軽く会釈した。
「宝くじ、納得いくまで買えた?」
 口許に微笑を滲ませて話しかけるシュラインに、蓮は僅かに眉宇を曇らせ、いや、と呟くように言った。
「あと二千円あれば、もう一組買えるんだが……」
「え? 二千円?」
「ああ。ちゃんと計算して金額を揃えてきたんだが、予定外の出費があって、二千円足りない」
「そ……そう、二千円、ね」
 シュラインは大真面目な顔で話す蓮にどう応えたものか迷い、結局手っ取り早い救いの手を差し出してみることにした。
「よかったら、その不足してる二千円、私が貸すけど」
 ぴくり、と、蓮の片眉が上がった。
 が、その分かりやすい反応はすぐに苦笑に融け、
「いや……、こんなところで気軽に借りたら、踏み倒しそうだしな。やめておく」
 そう言った蓮は、一度背筋を伸ばして空を仰いだ。
「でも、二千円あったら、あと一組買えるんでしょ? その一組の中に当たりくじがあるかもしれないし」
 シュラインが、わざと挑発するような口調で、蓮の反応を窺った。
「……そう、だな……」
 暫くの逡巡の後、蓮は何を思い付いたか、自分のヴァイオリンに視線を落とし、次いでシュラインの顔を見遣った。
「何?」
「悪いが、二千円借りる代わりに、手伝ってもらいたいことが出来た」
「……何?」
「ヴァイオリンを弾くから、それに合わせて歌ってくれないか。アンタ、確か得意だったろう、歌」
「ヴァイオリンを弾くって、香坂くん、ストリート演奏で稼ぐ気?」
「ああ」
 不足分は、自分の腕で補う。
 成る程、尤もな言い分ではある。
「……分かった、いいわよ。その話、乗るわ」
 シュラインの返辞に肯いた蓮は、周囲を見回し、「駅前に出た方がよさそうだな」と言うや、先に立って歩き始めた。


SCENE-[2] 積もらずのアメージング・グレース


「それで、曲は何にするの?」
 ヴァイオリンをケースから取り出している蓮に、シュラインが問いかけた。
「そうだな、出来るだけ、客を集めやすいような曲」
「……そう言うと思ったけど」
 シュラインは小さく溜息を吐き、駅周辺を忙しなく行き交う人の波を眺めた。
「そうね、この時期、人を集めやすいって言ったら……」
 呟いて、ゆっくり瞼を下ろす。
 冬の冷たい宵風を受け乍ら。
 心身に程よい緊張感を要求する、冴えた空気の中で。
 体内に、静かに揺れ上がる旋律がある。
「――――Amazing grace......how sweet the sound......」
 シュラインの唇からこぼれ出した澄んだ声音に、蓮がヴァイオリンに向けていた眼を上げた。
「……アメージング・グレースか」
 世間では、讃美歌としても、黒人霊歌としても、そしてゴスペルとしても知られている有名曲である。最近ではテレビドラマでもテーマ曲に取り上げられ、確かにこれなら衆目ならぬ衆耳を集めそうである。
 もともとは、ロンドン出身のジョン・ニュートンという奴隷船の船長だった男が、航海途中に遭遇した嵐で落命しそうになり、必死で神に祈ったところ奇跡的に助かったというその一事を以て改心した後に、聖書を学んで歌詞を書き上げた作品である。日本では単にクリスマス・ソングの一環として纏められることもあるが、「アメージング・グレース」のルーツは聖書にある。教会育ちの蓮には、身近いといえばあまりにも身近い曲だ。
 蓮は駅前の人工的な明るさに向かってヴァイオリンを構えると、手頸の動きしなやかに、弓を弦の上へ送った。決して圧し付け過ぎず、滑るように。
 ヴァイオリンのクリアな音が、
 凜冽たる気を斬るでなく、その粒子の間へ流れ拡がる。
 凍てついたもの達を外側からくるむでなく、その内側を響き抜ける。
 寒威を敵に回すでなく、その冷艶さえパッセージを彩る装飾と成す。
 冬天に鳴り満つ蓮のヴァイオリンに、シュラインの透明な歌声が添い巡り、二人の奏でる音はあっと言う間に周囲に人集りを作った。


 Amazing grace, how sweet the sound

 That saved a wretch like me

 I once was lost, but now I'm found

 Was blind, but now I see......


 数度のリクエストに応じ、ようやく演奏を終えた時には、二人に向かって盛大な拍手が惜しみなく捧げられ、用意周到に蓋を開けて置いておいたヴァイオリン・ケースの中に、次々と金が抛り込まれた。
 人の輪が次第次第に夜色深まりゆく街に解けて行った後でケースを確認し、そこにコインだけでなく千円札まで数枚あったのには、軽い驚きと伴に蓮とシュラインは顔を見交わし合った。
「随分、お客さんに愉しんでもらえたみたいね」
 そう言って、シュラインがヴァイオリン・ケースから顔を上げた時、鼻の頭にひんやりとした感触を覚えた。
「あ……」
「……雪、だな」
 蓮は頭上に冥く塗られた空を見上げ、片手を高く突き伸ばした。
 ――――ゆき。
 ついさっきまでヴァイオリンの弦を押さえていた蓮の指先を、白い冷たさが掠めた。
「東京では、きっとこれが初雪ね。……雪も、アメージング・グレースを聴きに降りてきたのかしら」
 シュラインが嬉しそうに言い、それから「あ」と自分の左掌を凝視した。
 蓮は訝しげに眼を眇め、シュラインの視線の先を追った。
「……どうかしたのか」
「見て、雪の結晶」
 促されるままに見たそこには、六花結晶の雪の一片が、シュラインの手のぬくもりにも融けずに留まっていた。
「雪が融けないなんて……、手、そんなに冷え切ってるのか」
「……きっとこの雪、香坂くんのヴァイオリンを聴きたくて残ってるのよ」
「え?」
 あからさまに、何を言うかと思えば、と醒めきった眼つきをした蓮に、
「いいじゃないの、たまにはこういうのも。ロマンティックで」
 年末ジャンボ宝くじをもう一組買うための資金稼ぎに精を出しておいて、今更ロマンティックも何もないものだ――――と心の裡にひとりごちつつ、それでも敢えて蓮の同意を引き出そうと、シュラインは静かな笑顔を向けた。
 蓮は暫く黙していたが、やがて、
「……それで。俺は、その雪に聴かせるために、もう一曲弾けばいいのか?」
 溜息交じりに言った。
「あら、香坂くんでもそういうこと言えるのね」
 シュラインはついそう言い返し、蓮の自嘲気味の微苦笑を誘った。
「たった一片のお客様だけど、弾いてくれる?」
「……融けはしないが、これ以上積もりもしない雪が客か」
「そう、積もるほどは降らないでしょうね、この雪」
 シュラインの言葉に、ヴァイオリンの音色がゆるやかに重なった。


SCENE-[3] 祈り


 再び二人は、先刻出逢ったチャンス・センターの前に戻り来た。
 蓮は、ヴァイオリン・ケースに集まった金額の半分をシュラインに手渡し、
「アンタは買わないのか、宝くじ」
 と訊ねた。
 シュラインは、一瞬躊躇ってから、頸を振った。
「私はいいわ」
「そうか。……じゃ、俺は買ってくるから。少しでも当たるように祈っててくれ」
 蓮は口許に笑みを浮かべ、シュラインに軽く手を上げて背を向けると、未だ少しも短くなっているようには見えない売り場前の列に紛れて行った。
 (宝くじについて語る時の香坂くんって、口が笑っていても、眼が笑ってないのよね)
 シュラインはしみじみとそんな感想を胸に、蓮の姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。
「……祈っててくれ、か」

 香坂くんの宝くじが、当たりますように。

 シュラインは、素直に蓮の幸運を祈り、遠くに淡くアメージング・グレースの余韻を聴いた。二人であの曲を奏でた今なら、多少は天も祈りを聞き届けてくれるような気がした。
 雪は、いつの間にか止んでいた。


[路上のアメージング・グレース/了]


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2003年12月11日

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