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『破滅に至る病〜水紋〜 』
九耀・魅咲1943

 愛している。愛されている。
 いつしか言ったその言葉に嘘偽りは無く、全てが真実の言葉であったと胸を張って言える。愛していた。愛されていた。共に生き、そして共に死を分かち合おうと……!
 だがそれは、昔の話。遠い遠い、遥かに遠い記憶の奥底の思い出話。奥底でゆらゆらとただただ揺れめいているだけ。ゆらゆら、ゆらゆらと。

 男は不意に視線を感じ、首の後ろを摩りながらあたりを見回した。だが、男をあざ笑うかのごとく何も変わったところは無い。
「なぁに?どうしたの?」
 傍らに立っていた女が、きょとんとして男を覗き込んだ。可愛い女だ。今時、というのが正しいのかもしれない。脱色された髪、キラキラと光る化粧のラメ、長い爪の綺麗に塗られたマニキュア。
「いや、何でも無い」
 男はそう言って、女の腰にそっと回した。至極自然に。女もそれを承知で男に体をすりつける。膝上のミニスカートからすらりと伸びている足は、カツカツという音を響かせるブーツを履いている。
(いい女だ。今時の、綺麗な女だ)
 男はそう思い、一層強く女の腰を抱き寄せた。女は嬉しそうにそれに寄り添う。
(かつての女はこのような女ではなかった……)
 其処まで思い、男は一瞬苦笑した。どうして思い出すのか、不思議でたまらないとでも言わんばかりに。
(かつての女、か)
 男はそう心で囁くように思い、今の女を見た。元の睫毛よりもマスカラによって伸ばされた長い睫毛が、ぱちぱちと男を見上げていた。キラキラと目元が光る。
「どうしたの?今日はずっとあたしの顔ばかり見てるのね」
 ふふふ、と女はそう言って甘えるように男に体を任せた。男はそれを支えながらそっと額にキスしてから口を開く。
「余りにも良い女だから、ずっと見ていたくなってさ」
「いやあねぇ。照れるじゃん」
 女は顔を赤らめながら、ぽん、と軽く男の背を叩く。下から男を上目遣いに見上げながら、形良く見えるようにひかれたピンクの口紅の唇をそっと開く。
「これからは、いつでもいつまでも見る事ができるじゃない」
「それもそうだな」
 男も微笑んだ。
(そうだ。俺は、この女と一緒になるのだから)
 自分に体重を預けてくる女。流行のものが好きで、それを身にまとう女。また、それが似合っている女。言動は不思議な所があるし、ちょっと頭の足りない所があるかもしれないが、根本的には明るく可愛い女だ。
(軽い)
 男は、そう感じていた。今、隣にいる女は全てが軽かった。体重も、心も、言葉も、頭も、そして存在が。全てが軽く出来ていた。
(あの女は、重かったから)
 昔の女を思い出すなど、不本意ではあった。だが、隣にいる女を比較しようとした時、どうしてもそれは前の女と比較するようになっていた。仕方が無い。それ程までに、今の女と昔の女は正反対なのだから。
(俺には、こういう女の方が合っていたんだ)
 重い女は、不相応だったのだ。確かに、昔の女の重さに惹かれた時はあった。だが、気付いてしまったのだから仕方が無い。否、気付く事が出来たのだから良かったのだというべきか。
「……愚かな」
 ふと聞こえた声にはっとし、男はあたりを見回した。だが、当然の如くその声に該当するような人物は見当たらなかった。声に似合わぬ、響きがあった。
「どうしたの?今日、なんだか変よ?」
「……今、何か聞こえなかったか?」
「何が?あたしにはなーんにも聞こえなかったわよ?」
 女はきょとんとして首を傾げた。男は今一度あたりを見回してから「気のせいだったみたいだ」と言って、首をすくめて見せた。女は笑い、再び男に寄り添った。男はそれを支えながら、ふと思い返す。先ほど聞こえた、不思議な声を。
 それは、幼き少女の声であった。

 信じていた。信じられていた。
 確信は強く、そして疑う事すらなかった。それほどまでに互いを知っていたのだし、それほどまでに互いを信じきっていた。囁く言葉に、呟きですら。全てが互いの為に存在しているかのようであった。
 だが、もっと早くに気付くべきであったのだ。互いに互いは他人でしかなく、別個の人間であると言う事に。もっと早く、疾く。

 男は、女と再び会う約束を交わしてからその日は別れた。もうすぐ、そんな事すら必要ではなくなる。結婚するのだ。その為に、今住んでいるアパートの契約を今月一杯で切って、今よりも広い間取りのマンションを新しく買った。その為に、女は今やっている仕事を今月一杯で辞める事にした。全ての出来事が、結婚と言う新しい生活に向かって歩き始めていた。
「本当に、良い女だな」
 男はそう呟き、ふとアパートの天井を仰いだ。今いるアパートから来月にはいなくなるのだと思うと、妙に名残惜しい気もした。そんな中、ふと思い出してしまったのだ。このアパートにも遊びに来ていた、昔の女を。昔の女は、何と重かったことか。今の軽い女は、なんと扱いやすい事か。
『反対、されているの』
 昔の女はそう言って、肩を震わせていた。今の女とは違い、漆黒の闇のような髪であった。さらりとしたストレートで、風が吹くとさらさらと揺れていた。
『絶対に、駄目って言われたの』
 昔の女はそう言って、目に涙を溜めていた。今の女とは違い、理知的で静かな喋り方であった。口から出す言葉はどれも意味があり、そして綺麗だった。
『でも、私はそれだけは嫌なの』
 昔の女はそう言って、男をじっと見つめていた。今の女とは違い、化粧気は無いが整った顔立ちをしていた。そして、痩せぎすではなく健康的な体型をしていた。流行を追いかけるのではなく、自分が好きなものを着ていた。また、流行のものが似合わなかった。落ち着いた色や形の服ばかり着ていた。
 そんな女が、男は昔好きだった。共に居る事が全てだった。
『ずっとずっと、一緒にいたいのに』
 昔の女はそう言って泣いた。泣かれるのは嫌いだった。苛立ちを覚えてしまうから、どうしても嫌いだった。男は必ず手を取り、微笑んで見せた。
『じゃあ、ずっと一緒にいよう。ずっと、だ』
 男がそう言うと、必ず昔の女は笑った。嬉しそうに、頬を赤らめて……。
「俺も、若かったな」
 煙草に火をつけ、ぽつりと男は呟いて苦笑した。昔話が綺麗だなんて、一体誰が言い出したのだろうか?こんなにも苦いものを伴っているというのに。
 ぽちゃん。台所で水滴が落ちた音が響いた。男は億劫そうに立ち上がり、蛇口に手をやってぎゅっと硬く絞った。が、既に年季の入ったアパートである。硬く絞っても、水滴は止まらない。男は苦笑した。
「まあ、来月からはこういうのも無いからな」
 貴重な体験だ、と付け加えながら男はじっと水滴を見つめた。来月に引越しをするマンションは、新築だ。新たな門出の、新たな生活の場所。
「……新しい生活だからな」
 ぽちゃん。蛇口から滴る水滴は、水の溜まったタライの中に落ちる。その拍子にゆらゆらと水面が揺れた。男はそれを見て、顔を曇らせた。嫌な思い出が付きまとうのを、払いのけようとするかのように。
「……無理だな」
 男は不意に聞こえた声にはっとし、後ろを振り向いた。昼間に聞いた声であった。振り向くと、そこには声に似つかわしい少女が立っていた。赤い目で男をじっと射抜き、口元だけで笑っている。
「いつの間に……お前」
 男は少女に向かって問うた。男の知らぬ間に、少女は存在していたのだ。少女はふっと小さく笑い、少女としては似つかわしくない仕種で口元に手をやった。くすくすと笑うと、少女の黒髪が小さく揺れた。
「考えても見る事だな。果たして、お主に新たな生活を営む権利があるかどうかを」
「な……何だお前は!一体どうやってここに入り込んだんだ?」
 男が喚くようにそう言い、少女を指差した。少女は指された指を払いのけ、逆に男の後ろに位置している蛇口を指差した。ぽちゃん、と再び水滴が落ちる。
「我について思案するよりも、お主には思案すべき事柄があるのではないか?」
 ぽちゃん。男が微動たりともできぬ間に、再び水滴が滴り落ちた。

 共に生き、共に死す。
 出来る筈など無かった。一方通行の思いで、そのような事は叶わぬものなのだから。揺れる揺れる、静かな水面。渦を巻き、じわりじわりと侵食して。

「共に死のうとしたのではないのか?」
「……した」
「お主だけ惜しくなり、そして共に生きる事さえ億劫になったか」
「……お前、こう言いたいんだろう?俺があの女を見捨てたってなぁ!ああ、そうさ!俺はあいつがうざったくなったんだよ!重く重くのしかかってきた、あいつがな!」
 男はそう叫び、肩で息をする。少女はじっと見つめていた。叫ぶ男を、冷ややかな目でじっと。
「俺は命が惜しくなった!……死にたくなくなったんだ」
「それは、女も同じだったのではないか?」
「さあな!……踏み台にしたから覚えてもねーよ」
 かつて、男は昔の女と入水心中を図った。認められぬ二人の恋仲に、全てがうんざりして。互いに二人だけの世界へとした。だが、男は気付いてしまったのだ。己の命の尊さに、そして女の存在の重さに。そして水の中、男は生き延びる為に女を足蹴にして浮かび上がったのだ。
「俺はなぁ、途中から気付いたんだよ。あの女さえいなけりゃ、俺はもっといい人生になれたんじゃねーかってさ」
「なるほど。……なんとも醜悪だな」
「何とでも言えばいい!……あの沼は透明度が低い。藻や水草も多く繁茂している!」
「当時、女は失踪したと報じられていたな」
「ああ、万々歳だぜ。女の遺体はあがってこねーから、ただの失踪と思われてる。しかも、付き合っていた俺にも聞かれはしたが反対されていたから別れたって言えばいいだけの話だからな!」
 男の目が、次第に狂気を帯びてくる。
「自分だけ生き延び、昔の女を沼の奥底に置き去りにし、自らは新たな生活か」
「何が悪い?何がいけない?あいつはあれが幸せだったんだよ!俺は今の方が幸せだ!だったらそれでいいじゃねーか!」
 あはははは、と男は豪快に笑った。少女は覚めた目のまま、じっと男を見ていた。男は笑うのをやめ、そっと後ろ手で包丁を握り締めた。
「……なぁ、気付かないのか?この事を知っているのは、俺とお前だけだってことを」
 少女はただ、じっと男を見ている。
「どうやって知ったかはしらないが、こんな事を知っているのはきっと俺とお前だけだ」
 少女は身動きすらせず、じっと男を見つめている。
「ならば、こうは考えないのか?……お前さえいなければ、平気だってな!」
 それでも少女は微動たりともしなかった。男は口元に笑みさえ携え、包丁を振りかざした。
「……醜悪な」
 ぽつりと少女は呟き、赤の目でじっと男を射抜いた。少女は最初に立っていた位置から、寸分違わず立っていた。全く動いていない。包丁で簡単に終わりを告げることが出来ると、確信していた。ぼたぼた、と赤い血が円を描きながら床に滴り落ちていく。「ぐっ」といううめき声と共に、口からも大量の血が吐き出された。それは全て、少女に起こるべき筈の事柄であった。
「……な……ぜ」
 それらは全て、男の身に起こった出来事であった。男の体が、視界が、全てが赤く赤く染まっていく。
「言うなれば、お主は裁きを受けたのだ」
「お前……何様、だ?」
 絶え絶えの声で、男は少女に尋ねた。少女は小さくせせら笑う。
「我は九耀・魅咲(くよう みさき)……否、お主はこのような答えを望んでいたのではないな」
 少女……魅咲はそう言って笑った。男の目は鋭く魅咲を射抜いたままだ。
「お主は自らに裁かれたのだ。我が裁いたのではなく、お主自身が裁いたのだ」
 男の目が大きく見開かれた。赤く染まった口が、大きく開いたかと思うと、突如大声で笑い始めた。暫く笑い続け……そして絶えた。しんとした静寂が、あたりを包む。赤く染まった、空間内を。
「……果たして、軽いやら重いやら感じていたのは、お主だけだったのかな?」
 魅咲がそう笑いながら小さく呟くのを最後に、アパートの一室は完全に静かな空間へと成り果ててしまった。
 ぽちゃん。締まりきらない蛇口だけが、水滴を滴らせて音を響かせた。静寂の中で、その音だけが妙に響き渡るのであった。

<水滴は水紋を描き全てに広がり・了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
霜月玲守 クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年12月11日

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