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『■ K ■ 』
御影・涼1831

「わかった、このまま行くよ。但し電話を2本かけるから、少し待てよな」
 随分と長い間考え込んだ後、涼は女達にそう告げた。
 解き放たれた妖街の方に飛来していっているのが見える。猿に良く似た奇怪な生き物が鬼火を纏って宙を明るく染めていた。
 鼓膜を突くような金切り声を上げて静かな夜を蹂躙していく。
 遠くで叫び声が聞こえた。
 たぶん最初の被害者なのだろう。一刻の猶予も無さそうだ。
 不意に女の唇が綺麗な三日月を描いた。
 楽しそうに声の聞こえた方を見ている。
 美しい横顔が、涼にとっては醜悪なものに思えた。
「構わないわ……連絡したとて同じ結果でしょうからね」
 女は言った。
 何の感慨も無さそうな表情からは微塵の感情も見えない。
「そうか……」
 涼はポケットから携帯電話を出すとアドレス帳から従兄弟に電話をかけた。ニ、三言告げて電話を切るつもりだった。
 従兄弟はすぐに電話に出た。
『もしもし』
「俺……涼だけど…」
『ん?…どうした?』
「あとを頼む」
『はァ?…なんだよ、やぶからぼうに』
「あの鬼を追ってたんだけど……他の妖も解き放たれたみたいで……」
『何!! 一体どういう…』
「悪い、時間が無いんだ。上手く説明できなくてごめん。既に被害が出てるみたいだ。遠くで誰かが叫び声が聞こえたし……」
『……そ、そうか。分かった、後はこっちで何とかする。鬼を追ってるって言ったな、頑張れよ』
「ありがとう……じゃ」
『健闘を祈る』
 涼は電話を切った。
 履歴ボタンを押す。そして、もう一度電話をかけようと、ついさっきかけた番号を選択すれば、Kの文字で手が止まる。そして、ボタンを押した。

 トゥルルル……

 トゥルルル……

『もしもし』
 少し眠たげな声が聞こえる。
「…………」
 液晶ディスプレイを見つめ、涼は不意に携帯の電源を切った。
 携帯は高い警告音を立て、電源が落ちる。細々とした光源が消え、辺りは真っ暗になった。
「もういいのかしら? それで二本目の電話のようですけれど?」
 女が言った。
 涼が頷く。
 迷いは無かった。電話に出て、下手に相手を心配させる事も無いだろう。
 涼はまっすぐ見つめた。
「可愛い方は随分と豪胆だこと。引き裂かれるのを見るのは楽しみだわ」 
 女達はひとしきり笑うと、ふわりと宙を舞った。水鏡を失った池の真中に向かって歩いてゆく。涼も後をついて行った。
「ん?」
 じっと見つめれば、真ん中の方だけに水溜りがあった。
「な……何?」
 水溜りとしか見えなかったそれは、赤く水を汚し、闇の空を映していた。
 覗けば、闇の水に見事に咲き誇る見知らぬ花が見えた。
「これは……」
「そこが我が世界」
 赤い髪の女は言って白蛇のような滑らかさを持った仕草で手招く。
 涼は近づいていった。
 その水底にあの男が映っている。
 闇のような黒髪が宙に舞って、白い手が涼を呼んでいた。
『久しぶりだね……』
「俺の事を覚えているのか?」
『俺を呼んでいただろう? 気も狂いかけながら…ね?』
 クスッと男が笑う。
 その瞬間、涼の背に戦慄が走った。
「あ!」
 男は忌まわしい水の中から、腕を伸ばしてくる。近くにいた涼の手を掴めば、その手に接吻した。愛しげに涼の手にキスすれば、その筋に沿って下で舐めた。
「……!!!!」
 うろたえた涼の手を掴んだまま、男は自分の方へと引っ張った。どんな抵抗も徒労に終わるよな碗力に、抗う事も出来ずに涼はその中へを沈んでいった。
 一面の暗い色彩。
 闇のような、絶望のような、何もかもを放り出してしまいたくなるような色の空間に、息苦しくなって涼は眉を顰めた。
「離せぇ!!!」
 思わずがむしゃらに涼は手を振った。
 纏いつく水を振り解こうとするが出来なかった。闇の飲み込まれた赤い花びらが、涼の息を止めようと襲い掛かる。
「くッ! ……ぐァああああ!!!」
「ほらほら……今殺してしまったら面白くないだろう? お前達はあっちへおいき」
 すいっと手を凪げば、花びらは涼から離れた。
 まるで巨大な華が引き千切れるかのようだった。
 身を捩りながら華の欠片は消えていく。
 うっすらと目を開ければ、水闇をまといつかせて男が微笑んでいた。
 水の底は近く、涼はやっと地を踏んだ。
「良く来たね……御影・涼」
「何故というのは無意味かな……」
「そうだね。妹達が大層、君を気に入っていてね。こちらは色々と知っている」
「光栄な事かな、この場合」
 涼は苦笑した。
 此方が知らぬのに、相手は知っているなどというのは分が悪い。
 男は無造作に近づいてきた。
 思わず涼は逃げる。
 男は涼のそんな姿を見て、さも面白そうにクスリと笑った。
「望みは? 御影・涼……」
「お前と戦う事」
「そうか……」
 男は微笑んだ。淫靡な笑みだった。跪いて全てを委ね、切り裂かれたくなるような美しさだった。
 綺麗に弧を描いた唇。氷の瞳も何もかもが現実のものとは思えない。
 あの夏の日に見た姿のままで、涼を手招いている。
「壊れにおいで……」
 男は囁いた。

 そして。
 地を蹴った。

「がぁああああああああッ!!!!」
 避けると同時に涼は黄天を呼び出した。
 白光を放って黄天が具現化する。薙いだ瞬間、水闇が蒸発し、叫び声をあげて蒸発していった。
「私たちの住処を脅かすなら、本当に壊してしまわないとね」
 男は言って、涼に切りかかる。
 涼も前に歩を進めて相手の剣戟を受けた。
 細腕から繰り出される重い衝撃に目を細める。
 長い黒髪が水闇に舞って、涼の体に纏いついた。
 体の自由が利かない。纏いつく闇も粘性を持った存在のように涼の体の動きを封じていた。
 涼は斜め横に黄天を切り下ろす。
 泳ぐような滑らかな動きで男が避けた。軽く地面を蹴った男は涼との距離を縮めた。
 男は涼の手を掴むと、手から黄天を引き剥がそうとする。
「う…ぁっ…」
 不意に腕を掴まれ、その握力に痛みを感じて涼は眉を顰めた。
「ほら……大人しくしないと」
 屈託なく笑って男は涼の自由を奪う。それだけでは足りなくて、自分の刀を涼の腕に突き刺した。
「ッく……」
 かろうじて悲鳴を上げるのだけは堪える事が出来た。それは覚悟が出来ていたからであろうか。男は涼の腕を地面に縫い付けようと、腕を掴んだままだ。
 下手に動けば、失血症に陥るのが目に見えて分かる。逃げるタイミングを探しながら、涼は男を睨みつけた。
 涼の腕に刀を突き刺して自由になった手で、男は涼のシャツを引き裂いた。
「離せッ!!」
「ほら、暴れると血が零れるだろう?」
「…ぅ……」
 男はポケットからナイフを取り出すと、涼の胸に薄く朱の線を描いた。
 喉奥で笑う声が涼の耳に届く。
 膝を割って足を押さえられてしまえば動く事も出来ない。
 溢れてくる血玉を執拗に舌で舐めとっては、傷にわざと歯を立てた。
「うぁあああッ!!」
「辛いか?」
 男は言った。
 低めの良く通る声が鼓膜を擽る。
「……ッ!」
 涼は思わず上がってしまった自分の声に目を瞬かせた。
 非常に直接的な方法で男は涼の気力を抜こうと企てる。
「ここはどうなんだろうね?」
 小さな声で呟くと、男は涼のシャツの下部分をズボンのベルトごと切り裂く。
 肌蹴たシャツを除けて、男は涼の腹を指先で撫でた。ひやりとした感触に、思わず眉を顰めてしまう。
「…ァ!!」
 細いナイフの先で男は涼の腹に傷を付けていった。
 深さは1センチも無い。僅か数ミリ程度。長さも15センチ程度の傷。しかし、内臓が近い腹を切られる恐怖は耐えがたかった。
 切り裂かれた皮膚に当たる切っ先が冷たい。柔らかな皮膚を裂く硬い感触に唇を噛んだ。
 四肢は見えない力によって自由を奪われている。痛みに力を入れることが出来なくて涼は焦った。これでは攻撃に転じることなどできない。
 男は腹の血を舐めようと顔を近づけてきた。
「離せッ!」
「活きが良いと楽しみが増える……」
「……っ…」
 男は傷に舌を突っ込んで、ご丁寧にも傷を抉ってくれる。涼は思わず奥歯を噛んだ。
「本当にいい表情をしてくれるな」
 男が笑った。
 唇を涼の赫に染めて。
 出会ったときそのままに笑っていた。
「お兄様だけなんてずるいわ」
「私たちにも可愛い人を分けてくださいまし」
 妖の美姫たちの声が聞こえた。
 さざめくような笑い声も疲労した涼の耳に届く。
 長い衣服の隙間から滑らかな素足を見せて、するりと近づいてくる女の姿を涼の瞳は捉えた。
 細められた女達の目は涼の血肉のみを見ている。
 白い喉から嚥下する音が聞こえた。
「好きにしろ……」
 男は呆れたように言った。
 その言葉を聞いて、女たちはゆっくりと近づいてきた。
「……くそ…動かな……」
 涼の脳裏に携帯のディスプレイが浮かんでは消える。

 最後に掛けた電話番号。

 あの『K』の文字が、閉じた瞼の奥で瞬いていた。


 ■END■
PCシチュエーションノベル(シングル) -
皆瀬七々海 クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年12月11日

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