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『小さな主の探し物 』
セレスティ・カーニンガム1883

 限りを知らない知識の海に、人々がふつり、と言葉を波に攫われるその空間。棚に配列良く押し込められた本達が、さながら自分を呼んでいるかのようで。
 ――漂う紙の香りに、真昼の図書館。古びた建物に反響するやわらかな陽光を従えるかのようにして、そこには一人の青年が立っていた。
 セレスティ・カーニンガム。
 深く揺蕩う海色の瞳に、秋の夜の如く長く糸を下ろした、波間の軌跡を思わせるかのような銀の髪。漆黒のスーツをその身に纏い、銀細工の杖を床に突かせたその青年は、久々に感じたその静寂さに、ふとした安堵を覚えずにはいられなかった。
「……我々は芸術によって、最も確実に俗世間を避ける事が出来る、」
 同時に芸術によって、最も確実に俗世間と結びつく事が出来る、――ですか。
 直接の光を遮るかのようにして周囲を取り囲む本棚の沈黙に、あの有名な『ファウスト』を描き上げたドイツ人文豪の言葉が思い出される。
 思い返せば疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドラング)も、そういえばもう大分昔の話になってしまった。が、しかし、あの頃の芸術の急激な発展具合には、セレスも知らず目を見張ったものであった。
 長く、生きているのだ。
 見目こそは若くとも、セレスは実際は永き時を生きてきているのだ。時代の交代の瞬間も、何度となくこの目で見つめてきている――否、光を失った瞳の代わりに、より研ぎ澄まされた感覚で、何度もそれらを捉えてきた。
 ――そうしてここには、その記録があるのですから。
 セレスには、図書館が、歴史そのものを、又、芸術の歴史を、想いの歴史の全ても封じ込めた、不思議な空間であるように思われてならなかった。さながら、今と世界の想い出とを繋ぐ、数々の道を管理する時空の扉であるかのように。
 時間が時間だけに、誰も居ない小さな町角の図書館。とある御節介な秘書によって企画された休暇旅行の最中の、久しぶりの図書館。
 旅行も旅行で面白くはあるが、やはりたまには一日中、静かな空間で数々の??想い出?≠ノ浸っていたくもなる。夜の読書だけでは、知りたい事の半分しか知る事ができないのだから。
 静まり返った思考空間に、セレスの足音だけが鮮明に響き渡る。
 そうして何気無く歩む内に西洋音楽の本棚に差し掛かり、軽くバッハ、ベルリオーズとその名前に心を惹かれたその辺りで、
 おや……と、
 何の前触れもなく心を過ぎった違和感に逆らう事もなく、セレスは左手に杖を持ち代えると、右の手を本棚へ向って伸ばしていた。


 欠けていた。
 表紙も裏表紙もなく、背表紙も裂かれてしまい、題名すら読む事が出来ないほどに、その本は欠けてしまっていた。
「これは……」
 厚めの本の間に窮屈そうに挟まっていたその本を抜き取り、ぱらぱらと捲り内容を確認する。
 人魚姫の、お話……ですよね。
 大分手前の方が削がれてしまっているのか、突然物語の一番の盛り上がりらしき所から始まってはいたが、それは明らかに、この場所にはあってはならない本であった。
 本を閉ざし、心の中に感じられた短い物語をざっと反芻する。
 本来なれば童話の本棚にでもあるべき本を手にしたそのままで、
 ――あまり関心しませんね。
 途方に、くれる。
 何よりも、本の管理の具合にまず疑問を抱いてしまう。これほど欠けた本が、それもお門違いな本棚に差し込まれているなどと。
「一体、」
 どういう――
 或いは、事情でもあるのかも知れませんが――、
 と、
「めーでしょっ、めっ!」
 不意に、考え込むセレスの耳が、不機嫌そうでありながらも愛らしい少女の声音に容赦なく叩かれたのは、それから暫くしての話であった。
 何の前触れもなく現れた気配に、ふとして振り返る。
「その本はダメなのっ! あたしに返して!」
 そこにあったのは、小さな少女の気配であった。静寂を突き破るかのように響き渡る声音に、セレスは更に困り果ててしまう。
「キミ、お母様か、お父様とご一緒――、」
「パパとかママとかなんていないよ! ねぇ、それよりおじさん! 返してってば!」
「お、おじ――……」
 言葉が、止まる。
 突然礼儀知らずな子だと思ったわけではなかった。勿論セレスには、おじさんではなくて、お兄さんでしょう? と少女を軽く咎める気の方も毛頭もない。しかし。
 ただ、
「おじさん、そーやってあたしにイジワルするつもりなのっ?! おじさんったら、せぇタカいからとれないよ!」
 しかしただ、??おじさん?≠ニ、そう呼ばれた事が初めての経験だったのだ。
 ――突然出会い頭に、それもおじさん、ですか。
 今日の格好が取り分けて壮年染みたものであるわけでもなし、なぜそう呼ばれたのか、単純に理由がわからない。セレスの生きてきた時の長さはともあれ、
 ……おじさん、に、見えますかね? 私は。
 何か原因があるのではないかとふと考えを巡らせるも、セレスには思い当たる節は一つもなかった。あるいはこの少女の??おじさん?≠フ範囲が、??おにいさん?≠フ範囲より極端に広いだけなのかも知れないが、
「んもうっ! いいから! ちょうだいっ! あたしはきがみじかいんだから!」
「それ、普通自分で言う事ではありませんよ」
「いいの! 本!」
「はい、ええ……」
 状況も良くわからぬままに、棚から取ったばかりの本を、流されるままに少女へと手渡す。
 少女は自分の頭の少し上で、セレスから飛び跳ねてそれを横取りすると、着地するなりほっと一息安堵を浮かべた。
 そのまま、破れた本へとじっと真剣な眼差しを向ける。
「……った、」
 セレスの方も、先ほどとはくるりと裏返ったその雰囲気に、自然と少女の方へと意識を惹かれざるを得なかった。下の方からは、慣れた手つきで本を捲るその音と、何やら小さな呟きの声とが聞えてくる。
 知らず、苦笑してしまう。
 突然怒涛の如く現れた少女に、まさかのおじさん呼ばわりされ、挙句の果てには見つけた本まで取られ。しかしそれでも、腹立たしさを感じていない自分への自覚が、
 ……もしかしたら私も、少し変なのかも知れませんけれども。
 苦笑いへと、甘い砂糖を降らせ溶かすかのようであった。
「よかったあ……」
「何か、お探しだったのですか?」
「うん、きちんとあったよ、たりないけど。でも、おじさん、ありがとう!」
 問えば素直に帰って来たお礼の言葉に、セレスはそっとその身を屈ませる。
 ――セレスには少女の姿を見る事はできないが、これで少しは、対等に並んで話をする事が出来るような気がして。
「何を、探していらっしゃったのです?」
「玄関!」
「玄関?」
 あまりにも想像からはほど遠い回答を耳にし、軽く眉を顰めたセレスに、
「そう、玄関! お玄関だよ! 他にも部屋とか、ドアとか絨毯とか。カーテンとか。とにかく、そんなかんじ」
 両手をぱっと大きく広げ、スカートをふわりと翻しながら、少女は太陽のように微笑んだ。
 対等な視線にあるとはいえ、それでもまだ、少し高い位置にある??おじさん?≠フ海色の瞳をじっと覗き込む。
「こわされちゃったの、あたしのヤツは。サイキンのワカイヒトってこれだからこまるって、司書のおねーさんもいってたけど」
 じーっと、じーっと更に見上げ、
「ね、おじさん、」
「……私はセレスティと申します。お好きなように呼んで下さっても構いませんけれど、」
「じゃあおじさん!」
「おじさん、は少々……ご勘弁願いたいかも知れませんね」
「あたしのオネガイ、きいてほしいの!」
 慣れない呼ばれ方に苦笑する青年の言葉も無視し、少女は愛らしい声音で更に言葉を続けた。
 ??おじさん?≠ェ小さく溜息をついたのも気にせずに、手元の欠けた本を胸の内に抱えなおすと、
「あたしのさがしもの、まだのこってるんだ。だから、ね? よかったら、オテツダイしてほしいの!」 


 仕方なく、読書の??ついで?≠ノ少女の探し物を――本の断片を探す、という事で合意し、そうして日が沈み始め、全部の本棚の捜索が終わったその頃。
 再びセレスと少女とは、先ほどの場所で言葉を交わしていた。
「……しんじて、もらえないかもしれないけれど、」
 セレスの見つけた本の断片は、五つ。本当に嬉しそうに受取りながら、再び現れた少女はセレスに、ようやく事情の説明を始めていた。
「とつぜんだけど、あたし、本の精霊さんなの。この本がお家なの。この本に、すんでるんだよ?」
 自分の見つけてきた本の断片と、セレスの見つけてきた本の断片とを正しい順序に並び替えながら、ここが絨毯でここが壁だと、色々と丁寧に説明してくれる。
「だけどね、オトコのコたちがね、あたしのお家でタカラサガシごっこをやったみたいなの……あたしのねてるあいだに。ほら、あたしの家って、ふるいから。背表紙よわっちゃって、すぐにやぶけちゃうの。それでばらばらにされて、いろんなバショにかくされちゃったみたい……しかも、トチュウであきたのか、かえっちゃったみたいで。だからきのうから、あたし、ずーっとお家、さがしてるんだけど……やっぱりどうしても、ベッドがみつからないみたい……」
 きのーのよるは床でねたけど、もうイタイからぜったいにイやだもん、と付け加え、手元の作業を終えた少女は俯き加減にセレスを見上げた。
「……おじさんは、しんじてくれる?」
「まぁ――信じざるを得ない、でしょうね」
 見上げられて、苦笑する。言われてみれば、先ほどはあまりにも突然な展開に良く考えはしなかったが、この少女の気配はどこか人のものとは違っているのかも知れない。
 他にも、そうと確信できる理由はいくつかあった。その上セレスは、本の上に魂が宿るという事が、大して珍しい事ではない事も良く知っていた。実際知人や友人にも、人以外の存在は数多いのだから。
「わ、さすがおじさんっ! ね、それじゃあひとつそーだん! ね、あたしどうしよう。ベッドのないお部屋でなんてねられないし、おひるねもできないし、あたし、どうしたらいーかなぁ……ねー、おじさん、」
「宜しければ、おじさんというのはお止めいただけますと、」
「おじさん! もうかんがえるのめんどいし。いっそのコト、おじさんのお家にいそーろーしてもイイ?」
「――はい?」
 知らず半ば呆然と、今、何やら重大な事をさらっと言ってのけた少女の方へと問い返してしまう。
「やだなぁ、ぽーかーふぇいすがダイナシだよ、おじさん!」
「キミ今、さらっと私の所に居候する、って言いませんでしたか?」
「ねぇ!」
 不意に少女が勢い良く手を叩き、胸元の本を無理やりセレスへと押し付けてきた。
 少女はぐい、とセレスの大きな手に、いつの間にか一冊に纏められていた本をしっかりと受け止めさせると、
「おじさんは、あたしがワカってないとでもおもってるのかもしれないけど、そんなにワカヅクリしたおじさんなんてほかにみたことないしっ! きっと本の一冊や二冊やしなったってダイジョウブ!」
「若作り、ですか……?」
「あ、いっとくけど、ホメてるんだからね! としをとってもきれーなのって、とってもうらやましいもん。おじさんは、ほんとうにきれーだよね。だからさすがに、おじいさんじゃシツレイかなー、とおもって、だから、おじいさんってよばなかったじゃない!」
 ――本人にしてみれば、それこそ手放しで褒めているつもりらしい。えへん、と胸を張り、
「よしっ、きーめた。あたし、おじさんのお家にすむ! あー、モチロンとーかこーかんってヤツで、あたしもおじさんのオテツダイ、するから! まぁ、本の修理とか整理とか、トクイだし! おじさん、本すきなんでしょ? ねー、いーでしょ?」
 果して、それで本当に等価交換にはなるのだろうか。確かにセレスの家には蔵書もあり、別荘の方に関してもそれは同じ事なのだが、
「……お止めになった方が、」
 苦笑する。考えるに、それでは絶対等価交換にはなるまい。
 何せ、セレスの蔵書と言えば――、
「おじさんは、あたしのコトキライなの? だってあたし、いくばしょないんだよ……みすてるつもりっ?!」
「いいえ、そのようなつもりで申し上げたわけではありませんが……」
 相手は、身寄りのない『本』なのだ。彼女を自分の屋敷の本棚に加える事で、セレスに何か被害が及ぶというわけでもないのだから――ただでさえ静かとは言い難い屋敷の中が、更に少々、賑やかになりはするかも知れないが。
 しかし、
「本当に、良いんですか?」
 もう一度、確認する。
「だってこの図書館にはおいてもらえないよ、きっと。あたしのコトなんか、しんじてもらえないだろーし……それにいったでしょ、ベッドのない部屋じゃあねむれないんだもん、って」
 そういう意味では、ないのですけれどもね。
 少女のその答えでは、セレスの懸念は拭われない。
 しかし、
 けれどもそれは、
 彼女自身が決める事、ですか――。
 ベッドさえつけてくれれば! と付け加えた少女のへと微笑み、とりあえず、と、セレスは胸元の欠けた本を抱えなおした。
 右の手で銀細工の杖に甘く力を込め、それを支えにゆるりと立ち上がる。
 静かに読書をしにきた所で、一体どうしてこんな事になったのか、と、ふとそんな疑問が頭の片隅を過ぎり通る。しかしこれも、ある種の運命の御導きなのかも知れませんね、と一つ頷き、
「館長に、交渉してみましょう。このままキミの『家』を持ち出したのでは、私はただの泥棒になってしまいますからね」
 陽光に抱かれた銀髪が、漆黒のスーツの上にするりと滑り落ちる。
 振り返った??おじさん?≠フ陽だまり言葉に少女の笑顔がより深くなったのは、もう間もなくの話であった。

 その後、一人の小さな使用人が、カーニンガム低の蔵書管理を一手に任されたらしいのだが。
 ……が、その少女が、あまりにも多すぎる蔵書数に、日々大声で文句をぶーたれているという話は、セレス本人とその周囲の者しか知らない微笑ましい逸話でもあった。
 今日も又、滞在する別荘が変わる度に聞えてくる少女の叫びを聞きながら、セレスはふと、新聞を片手に秘書の用意してくれたエスプレッソを口にする。
 ――少しだけ遅い朝の香りに、ほっと息を吐きながら。
「だから私は聞いたんですよ……本当に良いのですか――とね」


Finis

Grazie per la vostra lettura.
10 dicembre 2003
Lina Umizuki
PCシチュエーションノベル(シングル) -
海月 里奈 クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年12月11日

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