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『蕾、蛹、分裂する細胞 』
藤咲・愛0830


 車窓にうつる、藤咲愛。
 がたんがとん。
 自覚はしていない、藤咲愛。
 がたん、がとん。
 都内の何の変哲もない高校の、どこでも見かける制服を着た少女だった。下校時間から外れている列車だったために、空いている列車の中の女子高生は、愛ひとりだけだった。疲れた顔のサラリーマンと、どこかの廃墟をねぐらにしていそうな薄汚れた老人、ウォークマンでラップを聞きながら寝ている器用な若者、控えめな音量で談笑するカップル、そのくらいしかその車両には乗っていなかった。
 愛が降りた駅で他に降りた客と言えば、髭の剃り残しがある黒ぶち眼鏡の男ぐらいのものだった。
 ぴぃいいいいーっ、ぷしゅう、がこん――がたん、がとん、がとんがたん――

 ひとりの夜の下校は、愛にとってはさほど珍しいことでもなかった。彼女はハードなことで名が通っている新体操部に所属しており、彼女なりにその部活動を楽しんでいたし、頑張ってもいた。若いこともあって、疲れは心地良いほどだった。夜の下校も嫌いではなかった。疲れて汗ばんだ身体を夜風が撫でる、何とも言えないこの清々しさを楽しめるから。
 ふと、彼女は振り返る――
 見返り美人。
 愛は、周囲の学校にまで噂が流れつくほどの端正な顔立ちを持っていた。化粧次第で、穏やかにも、威圧的にも化けられそうな、自在の美貌であった。彼女はしかし、まだ化粧をしていない。母親の鏡台に座って、こっそり控えめの色彩の口紅を塗っては、鏡に向かって微笑んで、コットンで唇をすぐに拭うような――そんな少女であったから。
「化粧をしてくれよ」
 このときばかりは、夜風がうらめしかった。
 肌が、ぞっと粟立った。
「あの口紅、とってもよく似合っていたよ」
 だれ、とも訊かずに、愛は恐怖に顔を歪めて後ずさった。なぜ知っているのだろう。怒られるだろうから、まだあんたには早すぎると怒られるだろうから、その口紅は高いんだよと怒られるだろうから、愛は両親がいないときを見計らって鏡台に座っているのだ。
「今日は、ボールだったね。でも、リボンがいちばんいい。どうしてかって? リボンはいちばんオーソドックスだし、新体操って感じだし、きみにいちばんよく似合っているからさ」
 闇の中から現れた男を、新体操で毎日運動している程度の少女が、どうして投げ飛ばすことなど出来るだろう。
 愛は暗がりから奇声を上げて襲い掛かってきた男に押し倒されて、白刃を見せつけられた。悲鳴を上げる暇はなかった。悲鳴を上げるチャンスは、逃してしまった。もう、声は喉に張りついて――出て来ようとは、しなかった。きゃあもいやあも飛び出さず、ただ、ひいっと情けない『音』だけが――唇の間から漏れてくるのみ。
「口紅を、口紅を出せ!」
 そんなものは、もらっていない。
 否。
 そう言えば、ポストの中に、色つきリップクリームが入っていたことがあった。あのときは、家族で「何だろう、気味悪いね」で済ませていた。
「手紙、手紙の返事くらいしろ!」
 そんなものは、もらっていない。
 否。
 上履きの上に、白い封筒がのっていたことがある。下手な字で綴られたロマンティックな愛の言葉だった。友人たちが、「愛は美人だからね」と囃しただけだった。
 下駄箱の中の見慣れない長さの髪の毛、
 視線、
 息遣い、
 愛はすべてを捨てていた。こんな、髭の剃り残しのある男など、見たこともないつもりだった。何度も何度もすれ違っていても、愛にとっては知らない他人だったから。
「俺を愛してるんだろ?! 俺を愛しているはずだ! 俺の愛に気づいているはずなんだから!」
 その愛を永遠のものにしてやる!
 野太いサバイバルナイフが振り下ろされた。そこで初めて、愛は悲鳴を上げた。恐怖が彼女の身体のリミッターを外し、少女の両腕に素晴らしい力をもたらした。愛は、自分よりも一回り大きい男の身体を突き飛ばしたのだ。
 男はよろめき、尻餅をついた。愛は立ち上がろうとしたが、すっかり腰が抜けていた。悲鳴は再び喉に張りつき、愛は手でじりじりと身体を後退させるくらいしか出来なくなった。もう、男を突き飛ばすほどの力は出て来そうになかった。
 男は――
 しかし――
 激昂もせず、立ち上がりもしなかった。
 どうやら、突き飛ばされたはずみで自分の手を少しばかり切ったらしい。サバイバルナイフでついた傷を、男はしげしげと眺め、ふうわりと愉しげに微笑んだ。はぁあ、と満足げな溜息をも漏らした。
 は、は、は。
 声も漏らさずに笑うと、男は、やにわにナイフを振り上げて、ぐさりと自らの胸に刺した。愛は目を見開き、口を開けたが、舌はぴったりと上顎にはりついてしまっていた。
「ああ、ああは、あはあは、あ、は、あは、あひ、あ、か、あああははは、あはあはあはあはあはあはあ」
 ぐさりずぶりと生きた肉に刃が突き立てられる、そのリズムが速くなっていく。
 男はきっと涎を垂れ流していた。今口から流しているのは、どろどろとした血ばかりだが。とにかく、その血と笑顔が、愛は恐ろしかった。男は間違いなく狂っているが、間違いなく悦んでいる。
 サバイバルナイフの、刃の背にあるぎざぎざに――これは、釣った魚の鱗を取るものであり、また、刺して抜いたときに傷口のダメージを増やすものでもある――毛細血管が絡みついていた。
 男が絶叫した。
 高みに達した声だった。
 声とともに、愛は気を失った。
 その声が、ようやく、救いをもたらしたのだった。


 藤咲愛は簡単とは言えない事情徴収を受け、翌日は学校を休んだ。その次の日も休んだ。次の日も次の日も。暗い噂が飛び交ったが、どれも同情的なものだった。新聞の片隅に、事件は載った。要約すると、「変質者が女子高生の前で自殺」。ただそれだけで、周囲から事件の価値は消え去った。愛は事件から1週間後、犯人の男が頭のおかしい自殺者だと片付けられた頃に、ようやく登校した。
 だが、藤咲愛の中では、事件はまったく色褪せず、生々しいままである。
 そして、彼女にとってのはじまりだ。
 ――あたし、あの人に何をしただろう?
 リップクリームを捨てた。手紙を捨てた。
 突き飛ばした。
 ――あの人に、何が起きたんだろう。
 自分を刺した。笑っていた。
 恍惚としていた。きっちり絶頂まで迎えて。
 ――あたし、きっと……あたしは……あたしが……!
 その瞬間だけ、愛はあの男とひとつになった。
 ――いや!!



 がたん、がとん。
 ストーカーという言葉が使われるようになっていた頃だ。勿論、ストーカーというもの自体がその時代から生まれたわけではない。ただの異常者か、しつこいやつとして、世間の闇の中で息づいていた。
 藤咲愛の力も、おそらくはそうなのだ。彼女が気づいていないふりをしていただけで、実は生まれたときからその身体の中にあった力なのだ。蕾をこじ開け、蛹を切り開いたものが、あの男のサバイバルナイフだった。
 がたん、がとん。
 赤い目を開けば、こんな暗い夜に、制服を着た少女が向かいの席に座っている。きっと、部活帰りだ。ラケットの柄が、スポーツバッグのファスナーの間からはみ出している。疲れに心地良さを抱きながら、彼女は眠っている。車掌が次に停まる駅の名を告げた。少女が、目を覚ます。
 ――気をつけて帰るのよ。
 もう彼女が振り回すものは、リボンではない。
 ドアが開き、
 ぴぃいいいいーっ、ぷしゅう、がこん――がたん、がとん、がとんがたん――
 藤咲愛と、疲れた顔のサラリーマン、どこかの廃墟をねぐらにしていそうな薄汚れた老人、ウォークマンでラップを聞きながら寝ている器用な若者、控えめな音量で談笑するカップルを乗せて、列車は動き出した。




<了>
 
PCシチュエーションノベル(シングル) -
モロクっち クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年12月10日

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