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『そうだ、京都へ行こう ─事件編─ 』
イヴ・ソマリア1548)&ウィン・ルクセンブルク(1588)&ルゥリィ・ハウゼン(1425)

 イヴ・ソマリア、ルーンティアリ・フォン・ハウゼン(愛称ルゥリィ)、ウィン・ルクセンブルクの三人が観光旅行へ、紅葉の京都へ到着してから一週間。
 到着早々、幽霊タクシーと云う妙な騒ぎに巻き込まれたものの、その翌日からは特に奇妙な事も無く過ぎた。その間、噂には聞いていたものの予想を上回る行列に辟易しながらも都路里のパフェや鍵善の葛切りも食べたし、ウィンの希望していた寺院も全て回った。ルゥリィは殆ど大人しくはしゃぐ二人に付いていたが、それでも彼女なりに古都京都ならではの日本文化を堪能したらしい。
 
 そこで場面は鞍馬は京都へと切り替わる。
 鞍馬、と云えば温泉である。今回の旅行は、京都観光の他にも温泉、と云うのが目的の上位に挙げられていた。──別に、温泉ならば何処でも良かったのだが敢て京都の鞍馬温泉に極めた理由は、たまたまイヴに同名の友人が居たからである。
 朝、約一週間部屋を取っていた旅館をチェックアウトしてタクシーで出発したものの、市内である。京都市左京区の鞍馬に到着したのは未だ陽も登り切る前の午前だった。
 トップアイドルのお忍び故に、髪を茶色に染めているイヴの変装が暴露しない為、鞍馬での温泉はある旅館の別館を露天風呂ごと貸切ってある。直ぐにでも入浴は可能だが、宿を発ったばかりでそんな気分でも無い。入浴前に軽く汗を流そうと、鞍馬山を散策することになった。

 鞍馬山、と云えば鞍馬教総本山、鞍馬寺で有名である。
 昭和から置き忘れられたような古い日本建築の鞍馬駅駅舎からのんびりと、霧掛かった京都北山の紅葉を堪能しながら歩く。
 ここ一週間の間にすっかり紅葉した山道は、気温が低く空気自体がしっとりしている。
「……ああ……、……感傷を誘うわね」
 枯れた落葉の乾いた音をブーツの下に踏み鳴らしながら、ウィンがしみじみとした表情で呟く。古都とは云えそれなりに賑やかな市内中心部に居た時とは違い、霊感に満ちた北山の空気と、目に鮮やかな美しい紅葉の中ではセンチメンタルにならざるを得ない。片思い中の彼女には、不快では無いものの切なさに胸の痛くなる光景だ。
「……はい?」
 メモを取る為、やや余所見して脇道に逸れていたルゥリィが聞き返した。ウィンは軽く、紅葉の中に映える金色の髪を掻き揚げて軽い溜息を吐いた。
「厭よね、何だか訳も無く切ない気分になってしまうんだもの」
「嘘よ」
 悪戯っぽい笑みを浮かべながら、イヴがルゥリィの耳許で囁いた。
「理由が無いなんて、真っ赤な嘘」
「イヴ! ルゥリィに妙な事云わないでよ!」
 鋭く聞き咎めたウィンが悲鳴を上げ、イヴは「だってぇ」とくすくす笑いながら身を躱す。
「大丈夫よ☆ 明日の夜中には東京に帰れるんだもの。せっかくだし、今の内に感傷は満喫しておけば?」
「だから、違うわよ! ルゥリィ、何とか云って!」
 ──が、ウィンが助けを求めたルゥリィは姿が無かった。あら、と同時に周囲を見回したイヴとウィンは、一足先に鞍馬山の入口、山門に到達して由来書き等を写しているルゥリィの後ろ姿を見付けた。
「……入口です。鞍馬寺到着ですね」
 メモを終わり、くるり、と振り返ったルゥリィは淡々としていた。
「あ、……ええ……、」
「……豪華な門ねえ……」
 ふと我に帰った二人は、どちらかと云えばルゥリィの冷静さに対して極まりの悪い自分達のはしゃぎ様を誤摩化す為に殊更感心して見せた。ともかく、入山料を払って急斜面の山道を登り出す。

「鞍馬山の首領である天狗は別名サマートクラマ、とも呼ばれ、金星から人類を救う為にやって来た使者だとする説もあるそうです。こちらとは反対側の麓の貴船は川床で有名で、貴族の船から取った名とされますが浦島太郎伝説と同じく、昔の人間が宇宙船……つまりは未確認飛行物体を『光り輝く船』として名付けたとも……」
 常に周囲の情報に注意を怠らないルゥリィは、旅の中に於いても最高のガイドだ。ついつい、そうした事よりも恋人への感傷に意識を奪われ勝ちだったウィンは感謝しつつも興味深く頷く。想ってもどうにもならない時に、冷静なルゥリィの端正な横顔は救いになった。どんな時でも変わらず接してくれる彼女のような旅の友が居てこそ、折角の紅葉を素直に楽しむ事が出来るものだ。
「……ルゥリィはどう思うの? その、UFO説」
「興味深い説だと思います。純粋に神話としても良いですが、或いは逆に、当時の科学では解明出来無かった超常現象を、高貴な船や天狗と捉えた古代の日本人独特の感性を知る事でもあると──、」
「本当に宇宙人だったら、の話ね」
 思い当たる節のあるイヴはぽつりと呟いた。……平安時代の京都に使者として行った人間が元の世界に居たかな? 一度、確認してみようっと。
「それにしても、面白いものですよ。その天狗伝説も平安時代には鬼になっているんです。当時京都は魔物の棲む町、平安京として陰陽師が活躍していた時ですね。その時にはここから貴船までの一帯には鬼の国があると云われていたそうです。未知なる存在への人々の認識が、時代や土地ごとに異なる事が良く分かります、──」
 ルゥリィがそこまで云った時、静まり返った山道を上から下って来る足音が響いて3人は口を閉ざした。
 一人の女性が歩いて来る。女の独り旅か、珍しいが地元の人間では無いようで、黒いコートを着て顔をやや俯けている彼女は3人と同じ旅行者と見る方が自然だ。
 急な勾配を登り、また下って来た所為で疲れているものか顔色が冴えない。
「こんにちは、」
 ウィンは極自然に会釈した。
「……、」
 彼女は、ウィンと同じ位の歳のようだ。ちらり、と顔は俯けたままでウィンを見遣り、何とも不健康そうな弱々しさで一瞬だけ笑みを浮かべて返した。
「向こうからいらっしゃったんですの? お一人なのね、気分が優れないようだわ、大丈夫ですの?」
 本心から心配で伺ったウィンにも、彼女は相変わらず顔を俯けたままで手を振り、さっさと歩き去ってしまった。
「……あら……、」
 ウィンは呆然と、ルゥリィは表情を変えずに彼女の黒い後ろ姿を見送った。
「ずっと徒歩で、疲れてたんじゃない? 大丈夫よ、本当に具合が悪いのだったとしても下りだし、麓の受け付けには人もいるもの」
 イヴの意見はそれだった。……と云うのも、彼女自身大分疲れが出て来始めた所だったのだ。
 鞍馬山を登るにはケーブルカーもある。だがそれでは紅葉の美しさも空気の美味しさも半減してしまうし、ウィンもイヴも普通よりは運動能力も高い。体の弱いルゥリィも剣技や格闘技の鍛練でそれを補える程に体は鍛えている。徒歩で大丈夫だろう、と思ったのが誤算だった。
 3人共、運動仕様の服装では無かったのだ。歩く分にはスカートで大丈夫だとしても、特に足許が悪い。
 流石にハイヒールなどでは無かったが、それぞれブーツやローファー等、多少踵がある革靴ばかりだった。土埃で汚れるのは宿に帰ってから落とせば良いとしても、ここまで登山が苦しくなるとは思わなかった。ことイヴに至っては変装用の服装の為、殆ど履き慣れていない真新しい靴が痛かった。
「イヴさん、大丈夫ですか?」 
 ルゥリィはイヴの不調にも敏感に気付いて気遣う。長身のウィンなどは「背負ってあげよっか?」とまで云う。イヴは慌てて明るく手を振った。
「大丈夫、大丈夫。……でも、下りはケーブルにして貰えると嬉しいかも」
「勿論構わないわ、もう戻っても良いけど、でもここまで来たら登り切る方が近いわね。貴船からも、鞍馬に帰れる電車が通っていたわよね、ルゥリィ?」
「ええ、叡山電鉄で戻れる筈です」
「そうよ、それに、貴船には絶対にウィンお姉様を連れて行きたかったの」
 イヴは、ウィン、と強調してルゥリィと目配せを交わした。
「……どういう事?」
「昨日、イヴさんと二人で見付けたのですが──、」
 ウィンがきょとんとして見遣った、静かな微笑を浮かべていたルゥリィが口を開き掛けた所でイヴが「駄目! 内緒よ!」と叫んだ。
「そういう事は先に教えちゃうと効果が無くなるの」
「……はい、ごめんなさい」
 秘密めいた笑みを交わしている二人を前に、何なのよ、全く、と首を傾いだウィンを引くように、急に元気を取り戻したイヴが再び歩き出した。
「ちょっと、大丈夫なの?」
「大丈夫です、……ウィンお姉様、お楽しみに」
 ルゥリィまでもがそう云ってウィンの背中を押し、間もなくケーブルカーの駅が見えて来た。

「到着致しました」
 貴船に着くと、戯けたイヴがバスガイドのような身振りと口調でその先にある神社をウィンに示した。
「?」
「貴船神社、縁結びの聖地でございます」
 イヴの言葉を聞いたウィンは言葉を詰らせて俯いた。その肩に手を置き、ルゥリィが言葉を掛ける。
「……、」
「ウィンお姉様、行きましょう。イヴさんが是非、と仰って極めていらしたんです」
 
 ──然し。
 ウィンを元気付けようとしたイヴとルゥリィの期待は酷く裏切られる事になった。
 貴船神社が縁結びや恋愛成就の聖地と云うのは本当だ。が、境内に入った時から妙に空気が重苦しいと感じていたら、案の定、奥に掛けられた夥しい絵馬に書かれた願事が尋常では無かった。
「……何なの、これ」
 イヴは風ひはためいて無気味にぶつかりあう絵馬の表面を一瞥して伊達眼鏡の奥の眉を顰めた。
──……を奪った……が憎い。殺したい。
──……と……の仲が破滅しますように。
──……を呪い殺して下さい。
 ……そこに掛かった絵馬の願事はどれもこれも、そうした恨み事や他人の破滅を願う呪詛の言葉ばかりだったのだ。字面までが怨念で歪んでいるように見えるのは気の所為では無いだろう。どう考えても、恋愛成就の願いが叶うとは思えない。逆に、叶う恋も不首尾に終わりそうだ。
「ごめんなさいお姉様、こんな所だなんて知らなかったのよ。ただ、昨日携帯の情報サイトで京都にある恋愛成就の神社、ってことで見付けたから」
 イヴは慌てて手を合わせた。本当に、ただウィンを喜ばせたかっただけなのに、これでは厭がらせのようだ。
「勿論、疑ったりしないわよ。私も聞いたことがあるわ、貴船神社の恋愛成就って。……屹度、今迄に何か望みを取り違えた人達が集まった結果悪い気が蓄積したのね。仕方ないわ、知らなかったんだもの」
 イヴの悪意の無さは良く分かる。流石にこんな場所に願を掛けて行く気分には成れなかったが、まあ、思わぬ心霊スポットに遭遇したと考えれば笑う事も出来る。
「何か、空気の重さが違うものね。何かしら、……居そうよね」
 そうと極まれば、ウィンは気分を切り替えて幽霊探しでもしようと笑顔できょろきょろと周囲を見回し始めた。が、イヴは「やめましょう、本当に縁起が悪くなっちゃうわ」と反対した。自分の提案でウィンを引っ張って来ただけに、余計に腹立たしいのだろう。
「そお……?」
 気にしないでも良いのに。だが、ウィンはそこまで真剣なイヴの心遣いが嬉しかったからこそ素直に従って回れ右する事にした。
「ルゥリィ?」
 振り返ると、ルゥリィは何やらあちこちの絵馬を裏返しては文面を覗き込み、顎に片手を当てて考え事に耽っている。彼女にも、イヴが声を掛けて急かした。
「ルゥリィ、絵馬なんかあんまり読まない方が良いんじゃない?」
「……ええ。今、行きます」

 貴船からはパノラマ列車で鞍馬へ戻った。
 どうどした、鞍馬さん、と笑顔で出迎えた女中には「ええ、まあ不思議な所でした」と答え、イヴが未だ気分が晴れないのか更に云い足した。
「その後の夕食ですけど、お酒も用意して貰えます? 宴会したいので」
「畏まりましたぁ、」
 ちょっと、とウィンが低声でイヴをつつく。
「良いの?」
「良いって?」
「あら、イヴ、あなた人前では飲まないのじゃ無かったの? 私は構わないけれど」
「良ーいの☆ 京都も今日で最後なんだし、ぱあっと行きましょ、ぱあっと☆」
「……良いですね」
 本国では成人なのでルゥリィもアルコールは大丈夫だ。日本酒はワインよりも強いと云うが、嗜む程度にしておけば大丈夫だろう、と自らの身体をよく知っている彼女はそれにも笑顔を見せた。

「……〜♪」
──ああ、癒されるわ……。
 熱い温泉と、外気に晒されて冷えた岩肌の感覚が心地良い。ウィンは上機嫌だ。温泉は良いわ、身体だけじゃ無くて何だか精神的な蟠りまで洗われるようで……。
 ……今日は、とことん堪能しましょう。
 ウィンは纏めていた髪が解け落ちたのを掻き揚げ、軽く瞳を閉じて更に肩までを深く湯に沈めた。
「……あ、」
「あ、ごめんなさいルゥリィ!」
 そのウィンの向い側では、つい水面を手で叩き付けてしまい、跳ね上がった飛沫を浴びたルゥリィにイヴが慌てて謝っていた。
「いえ、大丈夫です。ちょっと驚いただけです」
 既に染髪剤を落として地の水色の髪をアップにしているイヴが、水面を叩き付けた理由を知っているルゥリィは穏やかに微笑んで首を振る。そして、未だ「ごめんねぇ、」と恐縮しているイヴに、宙に伸ばした片手を差し出して開いた。
「……わ、」
 ルゥリィが掴まえたのは、熟れ切った紅葉が枝を離れて空に舞っていた一葉だ。イヴは、無邪気にこれを掴もうと必死で手を伸ばしていたのである。
「ルゥリィ、上手〜、」
「……そんな、」
 ルゥリィから紅葉を受け取ったイヴは、それを手にそっと湯舟から上がった。
「……〜♪」
 ウィンは、未だ上機嫌で目を閉じたまま鼻歌を歌っている。
「……、」
 ──と。珍しくルゥリィが洩した忍び笑いで目を開けたウィンは、はっと頭に手を伸ばしてイヴを振り返った。彼女の頭の上には、その輝かしい金髪とのコントラストが美しい紅葉。
「イヴ!」
「やぁだぁ〜☆ ウィンお姉様、可愛い〜!!」
「もう、子供っぽい真似しないの!」
「だってぇ、わたしぃ、18だもん〜、」
「素敵ですよ、ウィンお姉様」
 ルゥリィまでもが笑顔で云うので、ウィンは全くもう、と紅葉を手に溜息を吐いた。

「今更ながらに、イヴ・ソマリア、歌手でぇす☆ たまに朝比奈・舞と名乗ってたりします。事務所の公式プロフィールでは外国出身の謎多き18歳のセイレーンで、一部真実だったり〜☆ でも微妙に違う所もあったり〜☆」
 ──完璧に酔って、頬を薄く朱に染めて陽気な声で自己紹介をするのはイヴだ。
 入浴後の美味しい和食の後、切れ目無く女3人の宴会に突入した直後真っ先に人間性が変わってしまったのは矢張り彼女だった。……尤も、別の理由で人格が変わった時にはこんな陽気でも愛らしい少女とは正反対になるので、全く問題の無い変わり方だ。今は。
「イヴ、裾」
 ワインとは違った京都の地酒の旨さをゆっくり堪能しているウィンは、冷静だ。苦笑して、ついはしゃいで裾のはだけそうなイヴの浴衣を直してやる。
 ルゥリィも同じく大人しいが、矢張り多少でもアルコールが入った所為か──。
「ええ、存じ上げています。……所で、あの、……イヴさんは最近お兄様とお付き合いを為さっているとお聞きしたのですが……」
 ──珍しく大胆な質問をしていた。恐らく、お年頃なのでそうした恋愛談に興味はあっても大人しい故に今迄はなかなか正面切って話題に出せ無かったのだろう。
 云ってしまってから、アルコールの所為では無しにルゥリィは頬を赤らめて俯いた。
「そうなのよ、もう、この間はそれで大変だったんだから」
「厭ぁ〜☆ もうウィンお姉様、その時は本当にごめんなさい〜☆」
「イヴは悪くないのよ! 悪いのは軽率なお兄様だわ!」
 ウィンは憮然と兄を槍玉に挙げ、猪口を一気に煽った。そんなウィンを伺いながらも、つつ、と手際良く新たに徳利から酒を注ぐのは良く気の付くルゥリィ。
「……そうなのよ、悪いのは、彼! そう、決定〜☆」
 イヴまでが便乗して大声で宣言した。流石のウィンまで驚いて立ち上がったイヴを見上げていた。
「……ちょっと、どうしたの急に」
「だってぇ、彼ってばあ、浮気症なんだもの〜、他の女はともかく、ウィンお姉様の想い人にまで必要以上に親しくするなんて酷い〜、」
 ──今度は泣き上戸か。本当に泣きはしなかったが、ウィンの腕に縋ってそう捲し立てたイヴを、ウィンは驚きつつ眺めていた。
「イヴ……、そうなのね、あなたも気付いてたのね? 矢っ張り、お兄様ったら! 他人の目から見ても明らかだなんて、もう許せないわ! 仲直りした所だったけど、矢っ張り許せない!」
「そうよ!」
 嗚呼!! ──と(矢張り酒が回っていたのは二人ともらしく)固く抱き合っているイヴとウィンを横目に、ルゥリィは障子の傍でぱんぱん、と手を叩いてみた。
「へぇ、」
 そう云って現れた女中に、ルゥリィは「そろそろお開きにしますので、下げて貰えますか」と卓上を示して頭を下げた。
 承知して膳を下げて行く女中を見送った後で、ハウゼン嬢は無表情ながらに自らの両手を見下ろして感嘆の呟きを発した。
「……古い日本映画などで見た事ですが……、旅館では手を叩けば女中が現れるというのは本当だったのですね。……実験の甲斐がありました」

「……ね、起きてる、イヴ?」
 ──どんちゃん騒ぎの後、俄に静かになって川の字に引いて貰った布団に入り、暗がりの仲でウィンがそっとイヴに囁いた。
「……ん」
「起しちゃった? ごめんなさいね、」
「大丈夫、丁度眠れなかったトコ」
 ──……ルゥリィは、静かだ。二人は掛け布団を被ったままごろり、と転がって彼女から離れ、顔を突き合わせた。
 殆ど吐息のような囁き声で会話が始まる。
「さっきの事なんだけど……。……矢っ張り、あなたもお兄様と彼の事、心配してるの?」
「だって、彼はあんな感じだしぃ、……あの人と喋ってる時、凄く楽しそうな感じがするんだもの。……何だかね、私には優しいけど、本当に私が一番かなー、なんて……、」
 ウィンが返事しようとイヴの耳許に口唇を近付けた時、俄にごそり、とルゥリィの布団が動いた。
「……、」
「……、」
 慌てて口を押さえた二人だが、ルゥリィは上体を起して布団から出ようとしていた。
「ごめんなさい、ルゥリィ」
「いいえ、」
 立ち上がり、障子戸に手を掛けたルゥリィが振り返ると、僅かな月明りが彼女の優しい微笑を浮かび上がらせていた。
「寝付けなかっただけなのです。わたくし、少し外を歩いて来ます」
「そう、気を付けてね」
「ごめんね、煩くて」
 本当にお気に為さらず、とルゥリィは部屋を出て行った。

「……不安なのよ、」
 ルゥリィの足音が遠離って後、静かな調子のままでウィンは天井を見詰めたまま呟いた。
「お兄様と私は、厭でも共鳴してしまうもの。……双児って、厭だわ」
 自分の愛した人は、兄も気に入る。……そうして自分の恋人をかっさらわれた事が、13歳のあの日以来一体何度あっただろう? 
「それなのに彼ったら、何の邪気も無くお兄様とああして親しくしているのよ。『ウィンちゃんって天使みたァ〜い』なんて云って、私には彼の方が天使に見えるのに……、それなのに、彼のそんな無邪気さが私にはこんなにも苦しいのよ」
 不意に、両手で目許を覆ったウィンの胸が、布団の上からぽん、と強く叩かれた。
「イヴ!」
 痛いじゃないの、ウィンはじろりと犯人を睨み付けた。愛らしい犯人は、にこにこと明るい、それだけで心が晴れるような笑顔を浮かべていた。
「だぁいじょうぶよ、ウィンお姉様☆ そうなったら私だって彼の事許さないわよ、それに、私は例え同性相手でも浮気を許す程甘くはないわよ」
「……そうよ、イヴ、ちゃんとお兄様を惹き付けて置いて頂戴よ、」
「勿論、その為にウィンお姉様も必ず彼の心をゲットしてね☆」
 イヴとウィンは微笑みを交わして大きく頷き合った。
「共闘しましょう」
「お互い全力でね」

「……、」 
 ──何だか、生臭い匂いがした気がする。ルゥリィは、彼女達の別館から旅館の母屋へ続く庭の飛び石を歩きながら息を顰めた。
 気の所為であれば、無論それに越した事は無いのだが──。
「……、」
──ああ。
 本館の勝手口には、二人の女性の姿が見えた。──否、正確には一人、ここの女中である。何故二人の影があるのに一人か、と云えば、腰を抜かした彼女が震えながら見下ろしているもう一人の女性の息が無かったからである。ルゥリィが気付くと同時に女中の悲鳴が闇の静寂を切り裂いた。
「きゃああぁぁ──────っ!!!」

「……ん、」
「今、何か聴こえなかった?」
 すっかり目の冴えてしまったイヴとウィンは、お互いに頷いて起き上がった。
「悲鳴のような……」
「ルゥリィ、大丈夫かしら?」
 二人は急いで、浴衣の上に羽織りを着込んで別館を出た。からから、と下駄の足音を響かせながら、前を行くウィンが寝乱れた髪を直しているのを見たイヴははた、と自分の頭に手をやる。
「あ……」
 ──入浴後、地色のままだった。
「……ま、いっか」

 長閑な温泉街の山道に、パトカーのサイレンが響く。明りの少ない夜闇は、赤い点滅をぐるぐると巡らせるライトで不穏な騒ぎに包まれた。
「──すると、あなたはゴミを出そうとして勝手口から出て、仏さんを見付けはった、と云う訳ですな」
「はい、……そうです」
 その様子を、そっと影から覗くウィンとイヴの前で京都府警が女中の一人に事情を聞いている。
「この女性、見覚えはありますか?」
「お客さんでした。若い女性の一人やったし、どうやろうと思ったんですけど、一週間の予定で先払いして行きやはったし……、」
「……然し、普通やないなあ……、……幾ら何でも、舌を引っこ抜いて失血死さすやなんて、異例や」
 警察の男がぼやいている。ウィンとイヴは顔を見合わせた。
「舌を抜いて、ですって」
「やだ、閻魔大王みたい」
「殺人かしら?」
「そうみたい」
 ウィンは普段着に、イヴは既に変装を済ませている。他人と顔を合わせそうだったと云うのもあるが、何よりルゥリィの姿が見えないのが心配で探しに行く積もりだ。まさか、この騒ぎに気付かず散策を続けている訳では無いだろう。
「巻き込まれていなきゃ良いけれど、」
 ウィンは目を閉じた。ルゥリィの気配を探す。──と、その彼女の袖をイヴが引いた。
「ウィンお姉様、」
「何?」
「……あの人」
 イヴが、担架で運ばれて行く女性の死体を、指差すのも失礼なので目で促した。
「昼間、鞍馬山で会った人じゃ無い? ウィンお姉様が話し掛けた」
「──あら……、」

 とにかく早くルゥリィを探さなければ。二人は警察に掴まる前に、と急いで温泉街道へ飛び出した。その時、余分に一着の上着を持って出るのも忘れない。恐らく浴衣のまま出て行ったルゥリィが、底冷えする京都の気温で冷えていないか心配だ。
「──あっちね、……ええと、どっちの方角になるのかしら?」
 意識をルゥリィの気配に集中させていたウィンが、遠方を指してそう告げた。
「山があっちだから……左で……西かな? でも真直ぐは行けないわよ、」
 ウィンの指先には、先ず山の紅葉した木々の影が聳えていた。
「全く、東京だったらお兄様の車を分捕って来れた所なのに、」
 ウィンはもどかしく云い捨てた。──まあ、イヴが一緒と知れば手放しで貸してくれはしないだろうが、運転手として使っても。
「タクシーを拾いましょ、……すみません!」
 イヴは道路へ身を乗り出し、丁度通り掛かったタクシーへ向けて大きく手を振った。
 真夜中なのに、それもこんな山中で運が良かった──と思ったら──。

 ──……。
『然し、何故分かった、異国の騎士の血を引く少女よ』
「昼間、こちらを通りかかった折に。失礼ながら絵馬の文面を見せて頂いたのです。舌、と云うのが何の事か、その時には良く分かりませんでしたが、彼女の遺体を見た時に思い出したのです。以前、とある国文学者が肉体の一部の言葉を姓として持つ人間は、自らを傷つけて神に使えた家系だと云う説を立てていた事を。もしも彼女、舌氏を持つ女性があの絵馬の持ち主であるとすれば、自らの命と引き換えにしても良いと云うほどに強い怨念をこちらに捧げて行ったのでは無いかと」
『聡明な事だ』
「仮説でしたが、当りましたようですね。……高おかみの神」

「急いで、とにかく私の云う方向へ行って下さいな、」
 タクシーの後部ドアが開くと同時に身体を滑り込ませたウィンはそう云うなりバックミラーに映った運転手の顔を認めて声を上げた。
「あ──っ!!」
 ウィンは再びタクシーを降り、イヴの腕を掴んだ。続いて運転席のドアを開けて降りた運転手を見たイヴも、ウィンに従って彼を指しながら叫ぶ。
「この間の幽霊タクシー!」
「ああ、いやー、お久し振りです、その節はどうも。……楽しんで貰えましたかね?」
 タクシードライバー──の幽霊──は、現金な程飄々とした笑顔である。一週間前、散々な目に遭わせた癖に。
「楽しい訳無いでしょう、全く運が悪いわ、こんな大事な時に通り掛かったのが幽霊タクシーだなんて」
 ウィンは吐き捨て、また別の車両が通り掛からないだろうかと周囲に目を走らせた。
「いやあ、どうぞ、乗って下さいよ。この間のお詫びに」
「乗れる訳ないでしょう! 私達は今友達を探している大変な時なのよ、地縛霊に構う暇は無いの、さっさと成仏なさい!」
「お願いしますよ、そうでもしないと僕、『あっち』の世界に帰れないんです」
「……どう云う事?」
 イヴの声に、幽霊タクシードライバーは嬉々として彼女を振り返った。
「……ほら、僕死んだの今年の始めじゃないですか。そうなもんで未だ死後の世界のルールには疎くてですね、……知らなかったんですよ、あなたがまさか魔界の女王の妹君だなんて」
「……私?」
 微笑みを向けられたイヴは、きょとんとして自らの顔を指差す。
「……まあ、確かにそだけど……」
 幽霊に隠しても仕様が無いので、イヴは素直に肯定した。
「で、あの後戻ってからそんなお方になんて失礼を、って閉め出し喰っちゃいましてね、困ってるんですよ、これじゃ成仏も出来ないし、かと云って一生幽霊タクシーで人を驚かせるだけ、って云うのもね。あ、死んでるんで一生とは云いませんかね」
「結局何が云いたいの、あなた」
「罪滅ぼしさせて下さい。大丈夫ですよ、今度は途中で消えたりしませんから。目的地まで乗せて差し上げます」
 どうする? イヴとウィンは顔を見合わせたが、妙に開き直った様子の幽霊運転手に悪意は見えないし、何よりルゥリィが心配だ。
 二人は頷いて顔を上げ、ウィンが片方の眉を吊り上げて微笑んだ。
「メーターは倒さないでしょうね?」
「勿論、商売する気なんかありませんよ」
「急いで頂戴」

「ルゥリィ!」
 結局、ウィンの誘導に従ったタクシーが到着したのは昼間、無気味だと素通りした貴船神社だった。
 タクシーを降り、真直ぐに奥宮へ駆け付けたイヴとウィンは果たしてそこに、ルゥリィの後ろ姿を見付けた。
「心配したのよ、こんな所まで来て!」
 ウィンは浴衣姿のルゥリィの肩に、持参した薄手の上着を被せてやりながら彼女を抱き締めた。
「……ああ、ウィンお姉様……。……申し訳ありません、御心配をお掛けしました」
「本当よ、全く、旅館で何があったか知っているの!? あなたまで巻き込まれたのじゃ無いかと、どれだけ……、」
「……、」
 くいくい、とイヴが、ルゥリィに必死なウィンの髪を一筋引っ張った。
「待って頂戴イヴ、それにあなた、こんなに冷えてしまって。風邪を引くわよ!」
「……、」
 くいくい。イヴは諦めない。
「……さ、戻りましょう。それにしても何故こんな所に来たの?」
「──その理由は、ウィンお姉様の目の前にあるやうな……」
 くいくい。3度目でようやく顔を上げたウィンは、ルゥリィとイヴに遅れて目の前の存在に気付いて目を見開いた。

「高おかみの神、貴船の神、……あなたが、そうだと仰るの?」
『左様』
「旅館で、あの女性を殺したのが、あなただと?」
『とんでも無い。殺めたりはしない』
「では……、」
 高おかみの神、ここ貴船神社が御祭神として祀る、水を司る神である。ウィンは身体が震えそうになるのを意思の力で留めながら、ようやく対話する事が出来た。
「あの女性、……昼間ウィンお姉様が話しかけた女性ですが、自らの舌を抜き取って神に捧げ、その見返りとして願いを成就して貰った鬼の末裔だったのです」
 ウィンも、イヴもがやや空気に呑まれているのに対し、ルゥリィは落ち着いて──と云うよりはどこかおっとりしていた。
「そうですね?」
『左様』
「彼女は今日の昼間、自分を裏切った男性の死を願ってこちらへ参拝に来たそうです。その為には自らの命をも捧げると」
「そんな、呪いじゃないの、それ」
「そこで、高おかみの神様はその願いを聞き入れた上で、先程彼女の舌を受け取りに行った、と」
「つか、何をそんなに和んでるの、ルゥリィ……、」
 呆れつつ、くるり──とタクシーを振り返ったイヴは霊の新参幽霊があまつさえ神を前にして慌てて隠れるのを見た。……逃げ出さなかっただけ未だマシか。
 
「正直、ショックですわ」
 ウィンは、高おかみの神に向かって呟いた。
「高潔な神ともあろう方が、一人の女性の命を奪うとは」
『それはどうか』
「どうか、とは?」
「ウィンお姉様」
 あらかたの事情を既に聞いていたらしいルゥリィがウィンの肩に手を置いた。
「あの女性は、想い詰めていたそうです。彼女が呪った男性は彼女を散々良い様に遊んだ挙げ句、飽きたという理由で捨ててしまったのだとか。彼女はそれで全てを失い、絶望のあまり自らの血にまつわる伝説にさえ縋る気でやって来たそうです」
「……そんな男も、そして呪いに走った彼女にも、それぞれに因果応報と云う事……?」
『左様。我が手を下すまでもなく、そうした心根の人間は何れ自ら滅びの道に落ちる』
「……そんな男、さっさと別れて良かったと割り切れば良かったのに」
 ウィンは溜息を吐いた。
「……それが出来ない人間だから、自らの命まで投げ出してしまったのです」
 イヴは爪先で地面を削っていた。あまり真剣に聞くと、気分が落ち込みそうだ。
『この事、汝らが気に病む必要は無い。但し覚えておくが良い。負の感情が尤も悪く作用するのはその意思の持ち主本人だと。──但し──』

 ──…………。
 それより2日後の朝、イヴ、ルゥリィ、ウィンは警察沙汰で足留めを喰い、予定より一日遅れて再び京都駅に向かうタクシー車中の人となった。
 因みに、このタクシーが例の幽霊タクシーである事はほんの余談だ。この幽霊ドライバーは健気にも、あの夜神の存在からは逃げつつもちゃんと3人を旅館まで送り届けてくれた。
「この際、最後まで付き合いますよ。どうせ貸し切りの予約は一日オーバーでしょう」
 妙に懐いてしまった彼の申し出に、まあ、幽霊タクシーで帰るのも一考かと3人は承諾した。
「着きましたよ」
 京都駅だ。ここからは真直ぐ東京へ帰る事になる。
「そう、御苦労様」
「ありがとうございました」
「今度閉め出しを喰ったら、私は全然構わないからって名前を出しても良いわよ」
 3人はそれぞれに彼を労い、車を降りた。
「あ、本当ですか、助かるなあ」
「……つか、私がそんなに幽霊の間で影響力があったなんて自分でびっくり」
「いや、ソマリア嬢の名前は強いですよ」
「……そ、」

 彼女達の座席を取っている新幹線車両がホームに滑り込んで来た。
「……これで最後ね。ほーんと、色々あったけど……」
 ウィンの視線に倣い、ルゥリィとイヴもホームの屋根越しに見える紅葉した山々をしんみりと眺めた。
「また、いつでも来られるじゃない。恋人と二人で京都、とか〜」
「やだ、」
 含みのあるイヴの言葉で、ウィンは両手で頬を覆って俯いた。──熱い。
「楽しみよね、東京で彼がなんて云うか」
「どうせいつも通りでしょ」
 殊更素っ気無く云い放ったウィンに、ルゥリィまで「分かりませんよ」と微笑む。
「高おかみの神がああ仰っておられたんですし」
 ──但し、とあの水神は最後に、──特にウィンに向けていたような──云い加えた。

『正しい心で望めば、その意思は必ず良い結果を齎す』

「ウィンお姉様、」
「何、ルゥリィ?」
「イヴさんには失礼して、わたくし、帰ったらお兄様にまたドライブをおねだりしようかと思っているのです。ですから、そちらの御心配は為さらずに」
「ルゥリィまで、」
「あ、ズルーイ! ルゥリィ、私もドライブ行きたい〜! つか、ポルシェ運転したーい!」
「3人と云うのも楽しそうですね、とにかく、帰ったらお兄様にお願いしてみませんか」
「ルゥリィ、(こっそりと)それは良いけど、イヴに運転だけはさせちゃ駄目よ」
「え?」
「ん? ウィンお姉様、今何か云った?」
「何でも無いわ、とにかく、それだけはタブーよ、」
 ……延々と尽きる事の無い会話に嵩じていた3人は、発車のベルが鳴り響いてようやく我に帰り、急いで東京行きの新幹線に乗り込んだ。

 車中も限り無く車窓の外に続く紅葉も、見納めだ。季節はこれから冬へ向かう。
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東京怪談
2003年12月08日

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