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『何時か見た夢 』
不破・槐0370)&不破・槐(0370)

●覚えている光景
 暖かい日差しが注ぐバルコニー。
 雨と風を防ぐガラスの屋根とビニールのカーテンで囲まれた温室になっている場所で、休日に貯めてしまった家の片付けを槐は終えていた。
 何かを捨てなければいけなかったのでも、掃除をしなければ人に見せられない程の汚れも無かったのだけれど、少し丁寧に掃除をした事もあって、心地よい気怠さが彼女を包んでいた。
 キッチンに整えたお茶の準備を指折り数えて、本当に久しぶりに両親との再会を待ち望んでいる自分が居る事を自然と槐は受け入れていた。
 不破槐。
 生まれた頃、槐は不破という名前も知らなかった。
 時々、思い出す事さえも忘れて決まった記憶の彼方にある昔の名前だった頃――。
 幼い頃には、その名前を思い出すだけで胸が苦しくなり、眠れぬ夜を過ごした時もあったはずなのに、今は自然と思い出す事が出来る。
 若いながらも昔気質の日本人である両親の薦めで、戸惑いながら始めた過去の名前への挨拶。
 夏のお盆の時期と、正月には祖先の霊前に手を合わせる事は苦にならなくなっていた。
 痛みを忘れてしまうのは、その辛さに対して愚鈍になったからかもしれないなと、自分を省みる事もあったけれど‥‥。
 それにも増して、自分という存在がここにいる奇跡に手を合わせていたと言うのが本音なのかも知れない。
 自分にとっては辛い物だったかも知れないけれど、槐の心の中にそっと仕舞われた『昔の名』に連なる誰かが欠けていれば、今の自分が居なかった‥‥。

 生まれてきた事の奇跡。
 生んでくれた事への感謝。

 それが、自然と考えられる様になったのは、今の『両親』の力が大きいだろうなと、。
 『それ』を思い出したのは、夢の中だった。

 幼い頃の思い出‥‥。

 遠い日の、冬の記憶‥‥。

●灰色の世界
 白い息の向こうに、灰色の空から落ちてくる白い綿埃の様な冷たい物が見える。
 まだ昼前の筈なのに、街の中は黒いアスファルトとコンクリートビルの灰色、そして人の吐き出した溜息が、霞の様に白く、暗く澱んでいる。
 自分の息で霞む世界を見たまま、じっと冬の空の下で少女は佇んでいた。
 灰色の世界に馴染む様な黒いコート。
 フードを被ってしまえば、そこから前に見える光景だけが全ての、小さな小さな世界。
 それが、少女の日常‥‥。
 児童公園のベンチだけが、少女の自由の世界だった。
 排ガス問題や家庭用ゲーム機器の普及が手伝って、外に遊びに出る子どもも減っている。
 都市の中に区切られた緑地帯と言う事もあって、国道が真横を走っているというのに植林された疑似林道が目で見えている自動車の騒音さえかき消してしまう世界‥‥都市の中に独立した場所だった。
 そこでは同年代の誰かが声を掛けてくる訳でもなく、良く騒がれる変質者が彼女を襲うには昼という時間は人通りの多い道に挟まれている為にあり得ない。
 誰かがそこにいるという安堵感と、誰にも邪魔されない、干渉されないと言う孤立感を同時に持ち合わせた場所‥‥。
 そこに現れた『第3の存在』‥‥

 ただ、漫然と時間が流れていた槐に話しかけてきたのは若い2人だった。

 ――誰か来た‥‥

 それだけしか、槐には認識がなかった。
 段々、槐に近付いてくる2人の足音が大きくなってきても、何処か他人事の風景を見ているような感じがあった。
「ねぇ‥‥」
 始めに声を掛けたのは、女の人だった。

 ――行かなきゃ‥‥
 ――逃げなきゃ‥‥

 目の前の存在から。
 自分に触れようとする手から逃げなければと、立ち上がった槐の着ていたフードが揺れた。
 押し込む様にしてフードの中にあった金糸がこぼれ落ちる。
 忌むべき物。
 奇異の視線の対象である自分の髪は、隠しておける時はひたすらに隠しておきたい物だった。
 きっと、自分に声を掛けたのも『普通』の子どもが居るからだろう‥‥だから、今声を掛けてきた相手の表情は手に取る様に判る。
 驚きと、好奇心と、何よりも『自分とは異なる物』を見る時に見せる拒絶の心の壁‥‥。
 慣れてしまった感情の波から身を守る術は、自分を長い時間相手の目の前に置かない事‥‥。
 それを実戦する為に身を翻した槐だったが、伸ばされた手が彼女の動きを止めさせた。
「貴女が、槐ちゃん‥‥よね?」
 掛けられた声は、女性の静かな物だった。
 槐の視点にまで降ろされた女性の表情が、何かを期待している様な輝きを持っていた。

「‥‥」

 頷く以外に、その時の槐に出来る事はなかった‥‥。
 そして‥‥‥

●今

 ピンポーン

 夢うつつの中で、聞き慣れたドアの呼び鈴が鳴らされた事が判る。
 起きなくちゃと、自分が寝ている事を自覚した槐が眉を寄せて睡魔の淵から頭をもたげようとした。
 その時、丁度彼女と同じ位の高さに幼い顔立ちの少女が浮かんでいるのが見えた。
 闇の中なのに、はっきりと見える少女は何処かに愁いと、無感情の表情を浮かべてじっと槐を見つめている。
 何時から彼女がそこにいたのか、何故、今ここにいるのか、それは槐自身にも判らない。
 けれど、少女の視線は自分の瞳を通して彼女自身を見つめているかの様に、何処までも深い闇のように静かに槐を見つめている。

『槐は、今も幸せ?』

 紡がれた、聞こえてきた言葉が目の前の少女の物だと分かるまでには時間が掛かった。
 口元を見ていたはずなのに、少女の唇がほんの僅かも動かなかったからだ。

『槐は、今も幸せ?』

「‥‥そうね‥‥」
 再び問われた言葉は、今度は槐に向けてはっきりと聞こえてきた。
 少し考えて、少女に返す為に話しかけた槐は言葉が通じている訳ではないのかも知れないと
一瞬考えたのだが、それでも言葉にして伝え続けた。
「判らないわ‥‥」
 少女の影が、少し揺れた気がした。
「私より、ママ達の方がずっとずっと幸せそうに見えるわ。二人だから、二人居るから幸せなのよってママは言うけれど‥‥私も、ママ達みたいに幸せになりたい‥‥でもね、何時も彼ったら私の側には居てくれないのよ?」
 思い出した。と、苦笑する槐。
「それにね、私に幸せになって欲しいって何時もママは言うけど、彼の事は全然許してくれないの。‥‥パパもよ。きっとパパは『勝負だ』って、言うと思うわ」
 ――娘を浚ってゆく魑魅魍魎。
 そう言い切って憚らない父親との確執は今後も続きそうだ。

『槐は、今も幸せ?』

 少女の声が、柔らかく、暖かく膨らんだ気がした。

「判らないわ‥‥だって、今日よりも明日が、明日より明後日が素敵な日かも知れないから‥‥」
 歩いたという実感もない。
 けれど、槐は少女の前にまで近寄っていた。
 金の髪と、青い瞳を闇の中でも輝かせている少女の前に。

「それにね‥‥」
 伸ばした槐の手を、見つめる少女が身体を揺らせた。
 腕を取って、引いてやる様にすると、少女は少しだけ驚いた風だったが、槐の手を外す様な動きはしなかった。
「私は、貴女の事も好きよ‥‥えんじゅ‥‥」
 導く様に引いた少女の手が、槐の背に回されてきつく、そして離したくないと言いたげに抱きしめられる。その身体は、氷の様に冴え冴えとしていた。

『えんじゅは、今も幸せ?』

 溜息の様に、槐に寄せられた唇から零れた言葉が白く浮かんで流れていく。
 それを見つめていた槐が、えんじゅの背に手を回し、少女の金の髪を抱く様にして頷いた。
「あなたが居たから、私は幸せになれた‥‥えんじゅ、あなたが居たから、私は不破槐になれたの‥‥」
 ぎゅっと、槐を抱きしめる力が強くなる。
「ありがとう‥‥」
 耳朶に当たる少女の冷たい体温の奥に何かを感じた瞬間に、えんじゅの身体がかき消える様に実体を失って、光に変わっていく。
『えんじゅは‥‥しあわせ?』
 光の輝きの中で、紡がれる言葉に頭を振る。
「判らないわ‥‥でも、幸せになりたい‥‥そうでしょう?」
 幼い頃に、決して言えなかった言葉―――
 諦めと、忍耐とが日常だった‥‥『ごめんなさい』が口癖だった日常‥‥自分は幸せだと、言い聞かせるようにしか生きていなかった‥‥生きられなかった日々では思い浮かばなかった言葉を、光の様になって輝いている少女に話しかけた。
『‥‥』
 返事は聞こえなかった。
 けれど、槐にとけ込む様にして重なっていく光は冬のお日様の様に暖かかった。
 永遠の様な、しかし一瞬に槐の身体の奥にとけ込んだ光の暖かさで、戻されていた意識がチャイムの音に向き直っていた。
「ありがとう‥‥」
 母に教わった最初の優しい言葉を呟いて、槐は閉ざされていた瞼を開く。

「いらっしゃい、ママ、パパ‥‥」
 今日は、何から話そうかしら――
 きっと驚くだろうと思いながら、槐は両親を部屋に迎え入れる。
 ケトルの笛が、暖かい湯気を噴き上げるのが聞こえてくるのだった。

【おしまい】

●ライターより
 お久しぶりの槐ちゃんでしたが。
 自分の中で、少し隠れていた彼女を出したつもりです。
 痛みを持っていた昔を振り返る事が、出来るという強さは人間にとっての宝ではないかと思います。
 最後のシーンですが、あれをどう捕らえるかでかなりお話が分かれると思いますが‥‥本田的に、取られる可能性は2つかなと思いました。

1.過去の自分を受け入れる
2.受胎告知

 さて?(^^;;
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本田光一 クリエイターズルームへ
PSYCHO MASTERS アナザー・レポート
2003年12月08日

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