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『そして天使は舞い降りた 』
七瀬・雪2144)&森村・俊介(2104)

【発端】

 そろりそろりと、扉を開ける。
 左右を見回し、白いコートに合わせた白い帽子を目深く被り、たっと駆け出す。
 コンサートホールの裏門の前に止めてある車に、雪は滑るように乗り込んだ。
 助手席に座り、ほっと息をついた瞬間、目の前に、温かい缶コーヒーが差し出される。
「お疲れ様です。素晴らしい演奏でしたね」
 低すぎず、高すぎず、彼の声はいつも耳に心地良い。
 コンサート終了後に、控え室までも押しかけてくる無遠慮なファンから決死の脱出を試みてきた雪は、この「お疲れ様です」を合図として、ピアニストから平凡な女性へと戻るのだ。そして、彼女もまた、習慣となっている言葉を返す。
「いつも、ありがとうございます」
 森村が、雪の仕事の行き返りを送り迎えするようになってから、実は、まだ日が浅い。出会ったのも、最近だ。知らないこと、わからない事の方が多く、そもそも、森村は、本音を人前で語るタイプではない。
 物腰が柔らかく、礼儀も正しいが、彼はまったく掴み所のない人物だった。彼方の光景を覗いているような、どこか遠い眼差しをしているにも拘らず、驚くほど目敏かったり、敏感だったりもする。
 未来が見えるのですかと、以前、雪は、冗談めかして聞いてみたことがある。常に先回りをして、さり気無く助けの手を差し出されたことが、一度や二度ではなかった。
 


「……だから」



 助手席に乗る雪の耳に、不意に届いてきた、深刻な声。
 
「あの新しい劇場の奴らが、やっているに違いないよ。こんな汚いこと」
「そんな風に言っちゃいけないよ。証拠もないんだし」
「夜中に忍び込んで、座席をめちゃくちゃに壊したり、舞台に穴を開けたりしたんだよ。明らかに妨害じゃないか。普通の泥棒なら、金だけ盗って逃げていくよ」
「そうかもしれない。でも、証拠が、無いんだよ……」

 天使の彼女だからこそ、聞き取ることが出来た、遠くの声。雪が、運転席の森村の様子をそっと伺う。
 だが、止めてくださいと言う前に、森村は、ウィンカーの合図を既に出していた。素早く車線を変更し、さらに劇場前の駐車場へと侵入する。決して広くはないスペースを上手く使い、車をバックで止めると、どうぞ、と雪を促した。
「お節介だって、思っていますか?」
 雪が不安そうに尋ねる。いいえ、と森村が首を振った。
「雪さんらしいと思っただけです」
「なんだか、放っておけなかったのです」
「雪さんは、それで良いと思いますよ。頑張りすぎたら、止めるのが、僕の役目だと思っていますので」
「……ちょっとズルイです」
「ずるい……ですか?」
「だって、森村さんより、私の方が、ずっとずっと長く生きていますのに。森村さんの方が、大人に見えます」
「そうですね。あなたの前では、特に格好付けてしまうのかもしれませんね」
 え、と雪が目を瞬かせる。森村はそれ以上は何も言わず、劇場の当事者たちの方へと歩き始めた。



 目の前に出来た新劇場が、旧劇場を押しのける。
 それ自体は、別に、珍しくも何ともないことだ。
 新しいものが尊ばれ、旧いものが廃れるのは、人の世では止むを得ないこと。いちいち同情していたら、競争世界は成り立たない。
 だが、あからさまな妨害行為を受けているとなれば、話は別だ。

「次の公演で、お客を集めることが出来なかったら、この劇場、手放さなければならないのです」

 雪と森村に説明する支配人は、まだ青年だった。森村と幾つも変わらない。大学を出たての、経営など齧ったことも無い素人だということが、一目で見て取れる。
 だからこそ、新劇場の主に、舐められてしまったのだろう。完全に娯楽の分野であるこの業界は、スーパーのような生活に直結している店舗等の営業より、さらに複雑で難しい。強力な人脈や経験がものを言うのだが、それすらも無いとなれば、後は強者に自然巻かれてゆくだけだ。
「次の公演で、人をたくさん集められれば、良いのですね?」
 雪が、華奢な顎に手をかけ、考え込む。さほど長い時間もかけず、結論は出た。

 やりましょう、と、彼女は言った。

「森村さん。マジックショーを二人でやりませんか?」

 ある程度、予測は付いていた雪の提案だったのだろう。森村は、驚く様子も見せなかった。
「それは構いませんが。人を集めるというのなら、僕より、あなたの名を使った方が、効果的ですよ」
「色々な世代の方に、この劇場を、親しんでもらいたいのです。ピアノの演奏会は、どうしても、お客さんの年齢層が決まってきてしまうでしょう? でも、マジックなら、誰でも楽しめます。大人の人も。子供でも。一番年齢を選ばない催しものだって、思ったのです」
 それに、と、雪が小声で付け加える。
「私、森村さんのマジックショー、まだ、見たことありません。私が、見てみたいなって、思ってしまったのです」
「そう言われると、断りきれませんね」
 森村が苦笑する。既に心を決めていたらしく、彼は、劇場の支配人に改めて向き直った。
「どうです? 今度の公演、僕たちに、任せては頂けませんか? 悪いようにはしませんよ」
 支配人は、ちらりと雪の方に視線を送った。若き女流音楽家の名は、芸術音痴の彼でも、知っていた。その可愛らしい容姿と、見かけのたおやかさとは対照的に高度で情感的な演奏とで、最近特に人気を博してきたピアニスト、七瀬雪。
 彼女が来てくれるだけでも、人を呼べる。しかもマジックショーのアシスタント。これは滅多に無いパターンだった。今は、とにかく、集客を第一に置かなければならないのだ。手段は、この際、小奇麗に選んではいられない。
 本当は、浅ましく、宣伝のことなど考えたくはなかった。ここの劇場は、出来た当時からずっと、若手の金の無い芸術家たちのためにこそ、開放されてきた場所だったのだ。
 昔、役者を目指していた支配人の父親が、叶えられなかった夢を、この劇場に託した。ここから、埋もれている才能が、開花するようにと。
 その遺志を律儀に守ってきた息子だが、時代は、そんなに甘いものではない。美しい夢は、現実の金の問題に、瞬く間に押し潰された。

「お願いしても、よろしいですか」

 支配人が、頭を下げる。それを再び上向かせて、雪が、親愛の握手を求めた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 森村は、握手の代わりに、名刺を差し出す。肩書きの入っていない、シンプルなものだが、それに刷り込まれた名を見た途端、支配人が、目を丸くした。
「貴方は……まさか」
「芸能関係の雑誌社か、新聞社に、その名刺を持っていけば、それなりの集客は見込めると思いますよ」
 雪にはまったく意味不明のことを言って、森村が車に戻る。
 助手席でシートベルトを締めた雪が、ふと窓の方に目をやると、青年支配人は、まだ、名刺に視線を注いだままだった。

「森村さん……?」

 呟いた雪の声が、いつまでも、その場に残った。





【魔術師】

「天才マジシャン、森村俊介、日本にて初公演!」

 数日後、多数の新聞、雑誌の芸能欄に、その見出しが踊っていた。
 見開きを占領するような大きな写真には、数年前の森村が写っている。
 まだ十代のうちに、マジックの本場である米国で名のある賞を総嘗めにし、忽然と姿を消した稀代のマジシャン、と、説明書きが添えられていた。
 写真は、その最後の公演時のものだ。主に米国、欧州で活動をしていたらしく、彼が行った奇術の数々は、決して複製の出来ないものとして、今なお伝説に語られているという。

「言って下されば良かったのに」
「わざわざお知らせするほどの事でもないですから」
「凄いことじゃないですか。欧米の大きな賞を、幾つも取ったなんて」
「それは結果に過ぎませんよ。たまたま僕の行ったマジックが、審査員のお眼鏡に適った。それだけの話です」

 天才マジシャンの日本初公演、というだけで、話題性は十分だった。
 新聞や雑誌が、おもしろおかしく書き立ててくれる。煽られた人々は、マジックになど興味がなくても、そんなに有名ならばと、競い合うように足を運ぶのだ。チケットは飛ぶように売れたし、口コミもまた最大限に効果を発揮した。小さな古い劇場に、考えられないほどの数の人が、押し寄せた。
 勝負は、初日。
 噂に呼ばれた人々は、自らの心には正直である。つまらないと思えば、そこで興味を失ってしまう。宣伝が効果的に成されれば成されるほど、舞台が失敗したときの痛手は大きい。前評判は、痛烈な批判となって跳ね返ってくるだろう。それが世間というものだ。
 雪は不安だった。
 音楽家であるから、彼女は、一般人よりは舞台慣れしている。だが、それでも、マジックのアシスタントなど初めてで、何か失敗をしやしないかと、気が気でない。彼女がへまをやらかせば、根拠のない誹謗中傷を受けるのは、森村なのだ。
 稀代のマジシャンの名は、瞬く間に、ただのペテン師に取って代わられるだろう。

「始まりますよ」

 初日舞台の幕が、開けた。





【光の闇の舞台】

 緻密な技術を披露するカードマジックから、観客を巻き込んでの参加型コンテンツまで、森村のマジックは、予想以上に幅が広かった。
 服装も、変に凝った衣装は身に着けない。ほとんど普段着のような格好だった。全身が黒づくめなので、純白の衣装の雪とは、あくまでも対照的である。影が光を使役するような、不思議な光景。
 幻想の舞台。

「時間も押してきました。最後のマジック……イリュージョンをお見せしましょう」

 大掛かりな装置や度肝を抜く演出で、マジックの中でも不動の人気を得ているのが、この「イリュージョン」である。
 代表的なものには、人体浮遊、空中消失、人体切断などが挙げられる。失敗が、即刻生死の問題にまでも発展するような幻想魔術は、難度が非常に高く、手軽に行えるようなものではない。奇術師だけではなく、アシスタントにとっても、大仕事だ。
 それでなくとも、森村のマジックは、かなり難しい。初心者の雪のために、一番簡単なものを選んだと魔術師は言ったが、彼が提示したのは、燃える棺からの人体消失。そして、舞台上空からの、浮遊登場。
 雪は指示された通りに動けばよいだけの話なのだが、それでも、怖い。
 
 他の裏方アシスタントにより用意された棺が、舞台の中央に置かれた。安置してある台座は、四脚の脚があるだけの、ごくシンプルなものだ。向こう側が完全に見えているので、そこに隠れるわけではない。
 棺を開け、中身に何も仕掛けがないことを、森村が観客に示す。雪が、その中に身を横たえた。なんだか供物みたいだと、ふと思う。不安げな表情が、一瞬、魔術師にも見えたのだろう。棺のふたを閉める瞬間、彼が、ごく間近で囁いた。
 
「大丈夫」

 まるで、呪文のように、心に響く。
 大丈夫。ああ、そうね、と、雪が頷く。不安感は、消えていた。笑いすらこみ上げてくる。森村が失敗をするはずがないのに、何を怖がっていたのだろう?

 棺が、燃え上がった。
 天井を舐め尽すような、危険な炎の洗礼。紅蓮の火柱に恐れを為して、観客席から悲鳴が上がる。イリュージョンをテレビで見たことのある人間は多いだろう。四角い枠を通してみる安全な幻想魔術は、純粋に楽しめたはずだ。
 だが、今は、それが現実世界に開けている。
 勢いの止まるところを知らぬ業火。箱が、黒く焼け焦げ、その形を失ってゆく。漂ってくる臭いさえも、あまりにも全てがリアル過ぎた。棺は、やがて、大勢の証人が見ている目の前で、完全に、炭と化した。
 
 その瞬間。
 
 薄暗い舞台を照らす全ての証明が、上に動いた。
 客席全体を見渡せるようになっている舞台の中二階の桟橋で、雪が優美に一礼する。わっと拍手が巻き起こった。その嵐のような拍手が収まる前に、早く森村の隣に戻らなければと、雪は、舞台裏の階段にちらりと目をやった。
 森村が、壇上の天使に向かって、両腕を差し出した。まるで、飛び降りろ、とでも言うように。
 


「大丈夫。怪我なんかさせませんから」



 躊躇う様子もなく、雪は桟橋から飛び降りた。足の下から床が消滅した途端、彼女の背に、光が広がった。黒く沈んだ背景そのものを塗り替えるような、圧倒的な存在感を誇る、銀の翼。白く輝く羽の群れが、その名の通り、時期外れの雪となって、間断なく舞台に降り注いだ。
 重力を無視して降りてきた天使を、魔術師が受け止める。
 その手をとって、客席に向き直り、礼をする。計算され尽くした動作ではない。そんな演出は、そもそも初めから無かった。雪は、桟橋から、舞台裏の階段を降りて戻る予定だったのだ。まさか光の翼を顕して、自ら飛び降りるなど、考えてもいなかった。
 


「炎の中から甦り、舞い降りた天使に、もう一度、盛大な拍手を!」





【舞い降りた天使】

 舞台が終わり、一番に劇場の外門を潜り抜けたのは、まだ小学生の男の子だった。
 母親に、一生懸命、凄かったねぇと語りかける。あんまり夢中で、少しの間、外の変化に気付かなかった。母親が、立ち止まり、空を見上げた。
「雪……? まさか。こんな季節に」
 木枯らしがようやく鳴き始めたばかりの頃だ。雪など降るはずがない。
「雪じゃないよ。お母さん。…………花だ!」
 ひらひらと舞い落ちる、無数の花弁。月明かりを受けて、鮮やかに浮かび上がる、純白の欠片たち。天使と同じ名を持つ、繊細なその花の名は。

「Snow White」

 やがて本物の氷の結晶が取って代わるまで、花は、終わりが無いように、いつまでも、いつまでも、振り続けた……。
 東京の夜を彩る、黒と白の、月下の饗宴。



「これも、マジックなのですか?」
「帽子から、鳩を出すマジックがあるでしょう? あの応用ですよ」
「花が、本物の雪に、変わり始めました。これも、マジックなのですか?」
「いいえ。本物は、本物。敵いませんよ。人の手で織り成す魔術は、それがどれほど意表を突いたものであっても、自然の前には、無力です」
 不意に、雪が、白いコートの裾を翻して、駆け出した。立ち止まり、振り返る。
「積もるほどに、降りますか?」
「さぁ……。それは、どうでしょう」
「積もるほどに、降りますね。森村さんが、教えてくれました」
「僕が?」
「だって、森村さん、今日は、徒歩でしょう? 車に乗っていないのは、雪が積もるほどに降るのを、知っていたから……」
「まだ夏タイヤのままなのですよ。それで事故を起こすほど、下手な運転はしませんが、隣に貴女がいる以上、無茶は出来ないと思いましたので」
「歩いて帰りましょう。今夜は」
 月の朧と雪明りに霞む、その姿。純粋に、綺麗だと、思った。



「舞い降りた天使……ですか」



 彼女が必要ないと言うまでは、ずっと、見守っていくつもりだ。
 ぽつんと一つ、慎ましやかに光を放つ、地上の星を……。





PCシチュエーションノベル(ツイン) -
ソラノ クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年12月04日

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