『『RAVENOUS』 』

雨柳・凪砂（1847）

　季節が秋から冬へと変わる頃。
　空気がちょっとセンチな移行を告げ、
　暦を記す其れが最終枚へと捲られる頃。
　
　凪砂のなかに住まう『影』が、一つの不満を漏らし始めた。
　最近の凪砂は、うちに眠る強大な力を振るうような事件と巡り合わず、刺激の少ない生活を送っている。彼女にしては有難い安らぎの日常だったが、『影』にとっては随分とストレスが溜まり、欲求不満も募る毎日であるらしかった。
　数日前から『影』はこう漏らし始めていた。
　遊び足りない、体を動かしたい、と。

　そんなことを言われても、
　正直困ってしまう。
　
　―――結局、
　考えた末に閃いた案――、

　不意に暴走されても困るので、凪砂は親友である同居人に一つお願いをすることにした。
　こういう時には頼りになる『彼女』の存在。
　頼んだのは遊び場の提供と遊び相手の創作。
　其処で『影』に主導権を渡し、思いっきり遊んでもらうことにしたのだ。

***RAVENOUS***

　其処は一面が白。
　白は清潔感と清涼感を伴うことが多い。
　が、この場の白は果ての無き闇にも似た、ある種の無機的な冷たさを秘めていた。
　魔術によって創造された亜空間。
　其れは古より、魔術師たちが様々な名目で使用してきたもう一つの世界であった。恐ろしく難解な魔術演算と高度な方程式によってのみ導き出されることが出来る場所。
　此処では大抵の枷を外すことが出来、ある程度の禁じられた行いさえも目を瞑って許せる。
「凄い、ですわね…彼女の魔法って…」
　裸身に等しい凪砂が、一面の白世界を眺めて溜息気味に呟いた。
（我の為にわざわざこのような舞台を整えてくれるとはな、気が利くではないか。くくく…愉しませて貰うぞ？）
　脳裏に直接響く『影』の声が凪砂をはっと我に返す。
　声はかつてのたどたどしい言葉遣いではなく流暢な日本語をもって流れた。相変わらず少し偉そうであることに変わりは無かったが…。
「分かっています、でも…いくら魔法で創り出された実験空間だからって、あまりやり過ぎないようにしてよね？」
　主導権を渡す間際に、一つ釘を刺しておく。
　あまり意味は無いかもしれないが、それも凪砂の性格。

　一呼吸の後、

　――――っ
　肉体と精神の内側から溢れ出す強大な魔力と妖気。
　自らの身体を抱きしめるように両手を胸にまわす凪砂。
「…っ」
　彼女は自らの意思で『影』へと身体を委ねた。

　―――そして、
「ふぅ、久々に開放感を味わったぞ。やはり良いものだ、外は…」
　凪砂の唇から零れた声は、『影』の声そのもの。
　ゆっくりと身体にまわされていた両手を下ろすと、文字通り餓狼のごとく唇を吊り上げて瞳を赤く光らせる。何だか邪悪っぽく、もっとも凪砂には慣れっこの感覚。
（ええっと、一応はあたしの身体なんですから、気を使いなさいよ？）
　まるで母親みたいな調子でもう一言。
「ん、安心しろ…その辺は心得ている」
　少々困惑気味に答え返す『影』、僅かに立ち昇る妖気が揺らぎを見せた。
（それじゃ、後は好きにしなさい。あたしは傍観モードに入りますからっ）

「……………」
　言葉通り凪砂は傍観状態に入ったらしい。『影』に身体の主導権を譲ったものの、凪砂の意識が闇に解けたわけではなかった。寧ろ今から暴れだす「この子」をそれとなく内側から見守るつもりなのだろう。
　『影』は凪砂の身体の主導権を得るとさっそく獣化へと変異する。四方一面を白亜で囲まれた様な大空間の真ん中に佇み、遊び相手の出現を静かに待つ。赤く光る瞳が睥睨する床も天井も白一面で、その高低差は無限を想わせた。創造されたもう一つの小さな世界。実に同居人の方も、凪砂に劣らず驚異的な能力の持ち主であった。
　
　戦いの場にしてはやや抵抗ある場所を選んだ気もする。が、『影』にとっては些細なことであった。ようは積もった鬱憤と不満を解消出来れば良いのである。問題は「獲物」の存在だ。
　と、暫くその場で佇んでいると、目前に待ちかねていた「獲物」が出現した。　
　じわじわと白世界に具現化する黒っぽいモノ。
　奇怪な容姿は一見して明らかだった。
　形こそは人と同様だが、背に蝙蝠の羽、額に角。黒塗りされた身体に、一切のパーツが存在しない顔。二メートルは超えているそれは、いつかの夜に遭遇した魔物の姿である。魔法によりかりそめの命を与えられた夜鬼。
　ナイトゴーントと呼ばれる其れは、力を抑えていたとはいえ、かつて凪砂も苦戦を強いられた相手。それがあろうことか単体ではなく、一体、二体と続き最終的に五体にまで及んで現れたのだ。

「手始めは、ふん…何時ぞやの魔物か？」
　が、『影』に怯みの色は無かった。そればかりか、かえって物足りなさでも感じたように鼻で笑う。

（ちょっと！？――…幾らなんでも数が多すぎません？）
　一方、傍観を決め込んだはずの凪砂の方は、炎を点す『影』の眼差しを通して眺める敵の数の多さ、少なからず動揺してしまう。

「案ずるな…枷を外した我の力、お前の考えるような軟なものではない。とりあえず腕慣らしには丁度良いだろう。くくく、もう少し我を信じよ、我らがこの程度の連中に後れを取るはずが無かろう」
　凪砂の唇を通して響く「影」の言葉には恐れの色は皆無。
　すらすらと紡がれる強気な言葉も、『影』が凪砂という存在に慣れた証明か。とすれば凪砂も『影』に慣れている。自信満々といった感じの『影』の言葉に、深く溜息をつき呆れた様に沈黙する凪砂の意識。
　感じ取れば、

「ふふ、ではいくぞっ！？」
　心底愉しそうに吼える『影』だった。
　それに応じる様に五体の獲物が一斉に襲い掛かって来る。
　風を巻いて殺到する黒い脅威。
　敵は知性の欠片も伺えないのっぺりとした容貌の癖に、各々…選らぶ行動が洗礼された集団戦闘の動きだった。一体、二体と左右を挟みながらの牽制、残りは背後に回りつつ『影』の周囲を取り囲み、死角からの攻撃を繰り出してくる。武器の全てが簡単に人の頭蓋など粉砕可能な鉤爪状の両腕。

　確かに…枷をし、力の配分を考えながら戦う凪砂ならば、一方的に蹂躙されかねない嵐のような襲撃。
　―――が、

「遅い…」
　完全な魔狼化とは行かぬまでも、最初から全快で飛ばす『影』にはその一言で足りるらしい。
　矢継ぎ早に身に迫り来る爪の猛攻を、嘲る様に軽快な体捌きで避ける凪砂、もとい『影』。周りを囲み、円を描きつつ攻める方も、中央で殆ど動かずに守る方も、無数の残像を生み出すという異次元の攻防であった。
　やがて、後手に飽いたのか、繰り出された爪撃の一つに無造作な拳のカウンターを合わせる『影』。リーチの長さを桁違いの速度で補い、十字を描いて交差する先からは小気味の良い手応えを容赦なく拾う。
　鈍器で頭部を吹き飛ばすような炸裂音が響き、一体目の夜鬼が首から上を失って倒れ伏した。

「脆い…」
　またも短い一言。これでは遊びにならないではないか。
　呟きに隙を見たか、右にいた夜鬼が真上に跳躍。その際、間髪入れずに前蹴りを放ってきた。
　スウェーで悠々と避ける『影』。
「だから、遅い…」
　と呟くが、
「――っ！？」
　抉るような蹴りをやり過ごした瞬間に、細首に巻きついた紐のようなもの。
　それは恐ろしい速さで螺旋を描き、『影』が操る凪砂の首筋を締め上げながら、とぐろを巻いて喉元に喰らい付いてきた。まさしく夜鬼の尻尾は蛇のごとくで。
「小癪な、まあ…そうでなくては面白くない」
　直ぐ頭上にまわし蹴りの二撃目を放つべく夜鬼。背後からも同様の殺気。
　『影』は右手を軽く上げて頭上からの蹴りに備える…ただそれだけだった。
（――…なっ、ちょ、ちょっと！？）
　いかに獣化した凪砂の身体がコンクリートを破砕するほど頑強とはいえ、相手もまた同様の破壊力を有している。他ならぬ彼女自身は以前の戦いで思い知っているのだ。しかも背後から迫り来る殺気にはまるで無防備。思わず慌てれば『影』へと抗議しかける。
　
　どちらにしろ間に合わない。
　右腕に骨を砕く強烈な打撃、背中には身体を引き裂く鋭すぎる爪と。

（―――っ！？）
　が、凪砂の予測はどちらも杞憂に終った。
「だから心配するなと言っているだろう。忘れたか我の力の程を？」
　やれやれと、それでも奇妙に高揚した声音で笑う『影』。

　無造作に掲げた右腕は？

　無防備な背中は？

「グ…ガァ」
　頭上から奇妙な鳴き声。
　凪砂の腕は…なんとも無かった。その代わり夜鬼の左足が膝先から…消失している。

「我は万物の事象を喰い尽くす」
　そしてもう一つの変化がある。獣毛に覆われた右腕が魔力溢れる暗黒色を纏っていたのだ。

（触れた全てを…喰らい尽くすという、この子の力…？）
　では、背後の殺気が消失した理由は。
　凪砂の意識に答えるようにしてゆっくりと背後を振り返る『影』。その際、首に絡まる黒蛇を引き千切ったのは言うまでも無い。またも小さな悲鳴をあげた頭上の敵。

（――っ、これは…影！？）
　振り返った凪砂の瞳に映ったのは、『影』の操る「影」であった。
　地面から、まるで天を衝かんとして湧き上がったかのごとく黒い塊の存在。それは夜鬼一体を飲み込んでも余りある大きさで、風も無いというのに不気味に揺曳していた。感じる魔力の迸りは、自らの右手に宿る暗黒色と同等らしい。
　即座に考え得たことは、背後から襲い掛かってきたもう一匹もまた、突如地面より槍のように湧き出たこの「影」に、飲み込まれて消滅したということだった。
「想像の通りだ」
　と、肯定する『影』。
　意識の内側で驚く凪砂に少々得意げな『影』だった。
　
　そして暗黒色を纏う右腕が膨張するように黒い風を巻き起こし、ともすれば獣毛を逆立てるように竜巻が、否――最早それは台風というべき驚異的な暴風が発生する。それは周囲を容赦なく蹂躙し始めて。
（―――凄いっ）
　我がことながら戦慄を隠せない凪砂であった。
　実際は古城で一度、これ以上の『力』を揮ったことがあったが、あれは暴走故に記憶の外。
　驚色の凪砂とは逆に、彼女の身体を操る『影』は、本来知的で穏やかな印象を与えるはずの端麗な容貌に、爛々と色鮮やかな紅を二つ点していた。瞳に宿す炎の意味は、言わずと知れた破壊衝動。其処には平素の理知的な凪砂の意思はなく、変わって『影』の猛々しい戦闘意欲のみが具現化していた。

　こうなると少々不安――。
　勢いあまってこの「世界」を破壊してしまわないだろうか？
　頼りになる同居人の魔術だが、それに間違いがあろう筈ないとは思うが、『影』の力の凄まじさと来たら…。
　ちなみに尻尾と足一つを失って頭上で派手にもがいていた一体は、巻き起こる暴風によって地面に叩き付けられていた。近くで黒い竜巻の直撃を喰らった為、既にズタズタの有様。
　
　残るは二体。
「むぅ、もう少し歯ごたえがあると思ったが…期待外れだぞ？」
（っ…無茶苦茶言わないのっ！）
　凪砂の正論っぽい突っ込みを措いて、『影』が駆け出す。
　相手にしても恐怖や動揺は無いのか、圧倒的な力の差を見ても尚、向かい打つ体制で身構えた。
「―――」
　狙うは手前にいる一体。防戦時の二倍の速度で瞬時に間合いを詰める。と、健気にも爪を揮い応戦する相手。しかし、俊敏な猛獣の首を簡単に吹き飛ばすほどのその攻撃も、今の『影』にはスローモーションにしか見えなかった。懐に入ると『影』は無造作に拳を打ち込む。単純極まりないボディーブローが、恐怖の爆発音を上げて炸裂。四体目の身体に派手な風穴が開くと、既にその横を潜り抜けて、最後の獲物へと直進する。

　当然のごとく、
　―――決着は秒殺だった。

******

　やがて、全ての敵が消滅し奇妙な静寂が残った。
（どう、少しは気が晴れたかしら？）
「……………」
（え…と、まだ消化不良？）
　『影』は黙ったまま首を縦に振った。
　無機質きわまる亜空間から凪砂と『影』以外の存在が消失してからも、暫くその場に立ち尽くす形となる『二人』。
　そこ等に散らばっていた獲物たちの残骸は、何の痕跡も残さずに溶けるように無に帰し。
　まだ満足していない「この子」をどうしようかと、凪砂が思い悩んでいた矢先に、
　気を利かせてくれたらしい「この世界」の創造主。
（――…っ、本当に？…でも流石にこれ以上は無理か、な…）
「くくく、我に問題は無いぞ、これしきではまだまだ遊び足らぬからな？」
　凪砂と『影』の頭の中に直接響いてきたその声と言葉の内容。二者がそれぞれ正反対の対応を返す。
　……………。
　僅かな沈黙が場に流れた。
　後――、
「そうでなくてはな、それでは第二ラウンドの開始と行くかっ」
　今回は『影』の気持ちが尊重されたらしい。仕方ないか、と凪砂。
　然し、相当の魔力を酷使し、次々と「遊び相手」を造り出す無茶が出来るとは…、偏に自らのテリトリー内だからというお約束のなせる業か。これが通常世界ならば不可能であることは間違いなかっただろう。
　ご丁寧なことに、再び現れる夜鬼の大群は、今度はその数が倍に膨れ上がっていた。
　傍観する凪砂にしてみれば辟易する展開である。
　――が『影』こと「この子」はというと、またまた獲物が現れて、猛々しくも嬉しそうに吼えていた。
（相当鬱屈が溜まっていたのかしらね？）
　どちらにせよ、この戦いは延々と飽くまで繰り返されるのだろう…。
　普通の女の子がモットーな凪砂とは違って、「この子」は神殺しの影。この程度の戦いは何処までも遊びに過ぎないらしく。
（それに『彼女』の性格、律儀に付き合ってくれているのでしょうけど。…後が怖いですわね）
　躍動する『影』の意識の内側で凪砂は一人ぼやき、いっそ眠ってしまおうかと…そんなことを思った。

　何にしても…。
　色々と後が怖かった。
　
―END？―

PCシチュエーションノベル（シングル）

皐月時雨

東京怪談

2003年12月04日