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『緋色の味 』
田中・緋玻2240


 毎日来ているわけではないのに、毎日来ているつもりになってしまう。
 毎日必要な糧ではないのに、毎日食べなくてはならない気もする。
 あんなもの、食べても食べても、殺しても殺してもいなくなりはしないのに。
 あたしは、あれらがいなくなることを夢みているのだろうか。そうなれば――あたしは言葉通りの『おまんま食い上げ』になるというのに。
 でも、あたしがどれだけ本気になって暴れても――あれら『鬼』を、滅ぼし尽くすことなど出来ないのよ。人間たちは、あれらと同じ。殺して、食べた端から生まれてくる。
 あれらは、あたしと同じくらいしぶといもの。

 あたしが毎日来ているのは――毎日来ているわけじゃないけれど、毎日来ているつもりになってしまう――夜の歌舞伎町。
 あのテの快楽を買うつもりはない。
 あたしは……晩御飯を食べに来ている。
 探さなくても、そこら中に居る。これまでこのどぎつい町に来て、食いはぐれて、しょんぼり家に帰ったことは一度もなかった。最近は、一頃より数も少なくなった。その理由はしばらくわからなかった。それなりに気になったから、日本の情勢をようやく確かめてみて――日本がある年を境に、深刻な不景気に悩まされていることを知った。それで人通りが少しばかり大人しくなって、あれらの数が比例して少なくなったのかと、納得した。遊んでいる暇がなくなって、遊ぶ金もなくなって、遊ぶ気もなくなったというわけだ。
 ……どうして、そのことに焦りを感じないのだろう。
 このまま不景気が続いて、歌舞伎町が灰色になり、空っ風だけが吹き荒ぶようになったら――あたしは、いい食事処を失ってしまうのに。
 ああ、そうか、
 歌舞伎町ひとつがなくなったところで、人間が滅びるわけではないからだ。
 あたしはそれがわかっているから、歌舞伎町の人通りが大人しいものになったとしても、ちっとも焦ったりはしないのね。

 きいっ、

 ああ、声がした。
 人通りが少なくなっても、この町にはまだたくさん居る。食べても殺しても滅びることない、憐れなものたち。
 あたしの糧。
 あたしの気を感じ取ったのか、あれは一声叫ぶと、小汚いビルとビルの間に逃げこんでいった。あたしは――自分が無意識のうちに、舌なめずりしていることに気がつく。
 なんて浅ましい、なんて卑しい、なんて正直なんだろう。
 人間たちが生きるために、ふっくら炊いた米やこんがり焼けたパンを食べるのと一緒。あたしは、浅ましく、卑しく、自分に正直な、『鬼』を食べる。
 見る人によってはわかるだろう、
 あたしの食事は、共喰いなのよ。


 そいつは、行き止まりに立てかけられていた段ボールの上で、あたしを威嚇していた。
「さあ……あなたは、どんな味?」
 思わずそんな独り言。
 見つけた『鬼』は、そこら中に居る姿形のものだった。掌に乗りそうなほどの小ささ、下腹が膨れていて、肌は放っておいた死体のように黒ずんでいる。爛々と光る目に、ぼさぼさの髪。この町に来ている男たちを小さくしただけのようにも見える。
 そして……鏡を見ているかのよう。
 あたしは、爪を伸ばした。
 この『鬼』のように。
 あたしは、牙を剥く。
 この『鬼』のように。
「闘るつもり? 面白い!」
 あたしが牙を見せて嗤うと、小さな『鬼』は豚の悲鳴のような声を上げた。あたしは足を止めた。臭気が――生ゴミの臭いを突き破り、爆発した。
 段ボールの影から、ビルのひび割れの中から、雑居ビルの開きっぱなしの窓の向こうから、掌の『鬼』たちが沸いて出てきた。潜んでいたわけではないだろう。あたしの気、鬼の迫る『鬼気』が、これらを呼びつけて、作り出した。
「昨日もこのくらいご馳走になったけれど……」
 ずらりと並んでいる目が、そろって瞬きした。
「この数でいいの? 昨日と同じなのよ」
 いただきます。

 少し気合を入れて念じてみれば――
 10匹が吹き飛んで、ビルの汚れた壁にぶつかり、弾けて、張りついた。
 コンデンスミルクをかけた苺を潰したのよ。
 少し、牙を食いしばって意識を集中させたら――
 焔があがって、10匹が灼け、爆ぜ、硬直して、汚れたアスファルトに転がる。
 スパイスをふりかけた松坂牛を、炭火で炙ったのよ。
 苺の赤い汁が、松坂牛の肉汁が、あたしの舌なめずりと涎を誘う。
 もういなくなったと思ったら、ぎらつく明るい本通りの方へ逃げようとしている死にぞこないがいた。
 そうはいかない、
「活造りがないの」
 あたしは、さっと爪をふるった。『鬼』が四つになった。返す爪で、また薙ぎ払う。四つになった『鬼』が、八つになった。
 汚れた地面に落ちる前に、あたしは八つ裂きにした『鬼』を受け止めた。
 これらのしぶとさは、あたしが一番よく知っている。手足はあたしの掌の上でぴくぴくと動いていて、一丁前に揃っている五臓六腑も、まだどろどろと動いていた。
 あたしは動いている肉片を、まとめて頬張った。
 嫉妬と……怒りと……怨嗟の味。
 赤瑪瑙よりもきれいな赤を流すわりに、味はひどくどす黒くて、とても幸せな気分にはなれない。もともとは、いけ好かない人間の負の感情だと知っているからかもしれない。
 あたしも、そうなのだろうか。
 嫉妬と怒りと怨嗟と慢心で出来ているのだろうか。
 ――食事中にこんな湿っぽいことを考えるなんて、どうかしてる。仕事に疲れているのかもね。どうしてあたしが、人間なんかの指図に……。
 食べたすぐ後はいつもこう。
 あれらの負の感情が、あたしに力を与え、あたしの感情を揺さぶる。
 喉が渇いて、空腹感が大きくなる。食べても食べても、食べるほどに、あたしは渇き、腹を空かせる。
 壁にはりついたものを、丁寧に剥がして、口の中に放りこむ。こんがり焼けたものを、骨と爪に注意しながら、焦げつきすぎた皮を剥がして口の中へ。
 不味い。でも、もう1匹。
 見れば、壁に叩きつけた衝撃でもまだ生きている『鬼』がいて、破れた腹から流れ出すはらわたを押さえながら、よろよろとこの場を――ダイニングを、逃げだそうとしていた。全身に火傷を負いながらも、地面を這いずっている『鬼』もいた。
 その肝がいいのよ。そのレア具合がいいの。少しは美味しくもなるだろうから。
 あたしは嗤っていたかもしれない。精一杯逃れようとする瀕死の『鬼』を、容易く捕まえて、ゆっくり味わった。
 ……やっぱり、不味かった。


 長い食事が終わって、表通りから、威勢のいい客の呼び込み、ピンク色の音楽が、細々と即席のダイニングに流れこんできた。
 いや――ずっと流れこんでいた。あたしは、食事に夢中で、それに気がついていなかった。なんて浅ましい。なんて卑しいんだろう。
 肉汁と鮮血で汚れた口の周りを拭いてから、思い出した。
 自分で決めたノルマがあって、それを明日中に消化するつもりだったこと。
 まず間違いなく1週間で劇場から消えると踏んでいる、スプラッター映画の翻訳。中盤で止まっている。あまりにもつまらない内容で、中盤に差し掛かってからは、女の悲鳴ばかりだった。あとはすぐに終わるだろうと放っておいたら、締切ぎりぎりになってしまった。担当が五月蝿いのよ。「出来れば早めにって、言ってるのに」だなんて。

 きいっ、

 見れば、無傷の『鬼』が――
 あたしを見て、表通りへと逃げていった。
 さきのあたしの力から、逃れたわけではなさそうだった。また新たに生まれた命だ。この雑居ビルのどこかで、誰かが嫉み、怒り、怨んだんだろう。
 ――もう、お腹一杯なのに。
 そう、もう、うんざりよ。
 この気分は、食べたもののせいかしら……それとも、あたしの本音なのかしら。
 あたしはしばらく、ここを動きたくなかった。




<了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
モロクっち クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年11月28日

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