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『望む匣 』
白金・兇1788


 ――また、珍しいことも起きるものだ。
 白金兇が前にしているのは、不吉な黒い匣である。
 この黒い匣に付属した依頼はまったく珍しいものでもなんでもなく、むしろ兇がよく受ける依頼の類であった。
『この匣を下記の住所に届けて下さい』。
 そして、住所。
 そして、小切手。50万円。
 どこで、兇が求める報酬の相場を聞いたのか……だが、詮索する必要はないことだ。この大きさのものを国内のどこかに届けるとなれば、(兇にとっては)適当な額だった。満足出来る金を受け取った以上は、仕事をさせてもらうだけである。
 しかしその手紙とも紙片とも言える依頼文が添えられた匣は――肝心の依頼人の姿もないままに、或る喫茶店に届けられたのだった。
 その喫茶店とは、白金兇が細々と、本当に何でもやる何でも屋の隠れ蓑として経営しているものである。
 黒い匣を届けるだけならば、この喫茶店に届けたように、直接業者に頼めばいいことだ。だがそれを、モグリの何でも屋に頼むということは……止むに止まれぬ事情があってのこと。

 死臭がする。

 兇は経験から、また本能的にも、匣に触れることが出来なかった。
 恐れているのではない。この匣に何が秘められているか、届いたそのときに悟っただけだ。

 死臭がするのだ。

 それは紛うことなき、死の香り。
 兇が望もうが望むまいが、嗅ぎ続けてきた臭気だった。

「俺の前に立ってはいけませんよ」

 兇はそう言いながら、ブラックフライのサングラスを胸ポケットから取り、かけた。
「うん」
 返事は確かに、ひょこりと素直に兇の背後にまわった影が、口にした。
 影の顔かたちは杳として知れぬ。そんなものだ。兇が己の視線に秘められた力を忘れて、じっくり間近で覗きこんだとしても――男の子の顔立ちを見て取ることは出来ない。
 だが、その影が、残り香が――「少年」と言うにも幼すぎる、「男の子」であることは、わかっていた。
「そばにいてもいけない?」
 不安そうに、男の子は、兇の背後で言った。
「いいえ、そうは言っていない。ただ、俺の目を見ないほうがいい。きみには少し、怖すぎますからね」
「ぼく、こわいものなんてないよ。ぼくはおおきくなったら、かめんライダーになるんだ」
「ああ、そうか。なるほど。では尚更、俺の前に来てはいけない。ライダーになるなら、俺の目を見ないこと。約束です。いいですか?」
「うん」
 兇は満足し、頷くと、匣にようやく手をかけた。
 開ける必要はない。


 黒い影が、ぐっすりと眠り、夢を見る彼に近づいた。
 ぶすり。
 ぐさり。
 ぶすりぐさりぶすりぐさりぐちゃぶすりぐちゃぐちゃぶすりぶすりぶすり。
 男の子はしかし、夢を見ていたし、実際には何も見てはいなかった。
「ふ、うふふふ、あはははは、あはははははは……」
 これであの人はわたしのもので、あの男がわたしにつきまとうことはないんだわ。もうなくなったのよ。あの男がわたしにしつこく言ってくる理由も、あの人がわたしを避ける理由も。わたしは幸せになったのよ。
「あはははははは……」
 さあ、届けてやりましょう。ねえ、あんたはこの子が好きなのよね。ずっと一緒にいたいのよね。だったらあげるわ。わたしは、いらなくなっちゃったんだもの。


 今、夢から覚めた男の子は知らないのだ。
 優しかった母は、今でも優しいままで、出刃包丁で自分の身を寸刻みにした女ではない。すべては眠りのうちに起きた、夢のような事件。
 夫と別れた妻が、新しい夫候補が子供嫌いであったことに、悩んでいたことなども毛頭知らない。そもそも、新しい父が出来そうだったと言うことすら知らない。父が、自分を引き取ろうとして躍起になっていたことも知らない。子供を渡せと、前の夫に母が時には殴られていたことも、知らない。
 何も知らない、
 自分がじっくり血抜きをされて、
 この黒い匣に詰め込まれ、
 死臭の元凶となっていることなど。


「おにいちゃん、ここ、どこ? ママは? まっくらなんだ。ママのこえ、きこえないよ。めがさめても、まだよるだったんだ……まっくらだよ。ぼく、こわいよ……」
 声に涙が混じり始めた。兇は、そっと匣から手を離す。その手を、傍らに伸ばした。
「俺には仕事があります。金を受け取った以上は、仕事をしなければ。でもその仕事は、すぐに終わらせます。そのあとでよければ、連れていってあげますよ」
「ほんとに?」
「ええ」
「わあい!」
 男の子は、兇の手を掴んだ。
 ずばっ、と兇の脳裏を焼くのは――
 出刃包丁を持って笑っていた女が、優しく微笑んでいる映像だ。
 仮面ライダーの本を読んでくれた。遊園地に連れていってくれた。幼稚園まで迎えに来てくれた。お菓子を買ってくれた。わがままを言うと叱られたけれど、いつも手を繋いでくれて、
 自分を切り刻むわけがない、
 美味しいものをくれて、抱きしめてくれて、ずっと一緒にいてくれた。

 過去形。

 知っているのだろうか。


 兇の知ったことではない。
 黒い、死臭がする匣を開けて、男が狂乱するかもしれないことなど。
 男が目にするものは、髪の毛と歯と爪が混じった肉片、臓物。鼻をつくのは、新しい血の臭い。
 兇にとっては、50万の仕事だ。
 兇は男の子と手を繋ぎ、指定された場所に匣を届けた。
「あ、ぼくのまえのうちだ」
 男の子が呟いた。
「ぼくね、さいきんひっこしたんだよ。パパはしごとがいそがしいから、あたらしいうちにはまだこれないんだって」
「ほう、仕事熱心ですね」
「パパ、あんまりあそんでくれなかったけど、おしごとっていそがしいものなんだよね? ぼくがねてるときにかえってくるんだもんね。たいへんなんだな」
「ええ。あなたのために働いていたんですよ」
「そっか。あのね、パパがいっつもてきになってくれるんだ」
「やさしいお父さんですね」
「やさしいよ。おにいちゃんとおなじくらい」
 死臭は消えぬ。
 男の子がそばにいる。
「さ、俺の仕事は終わりです。帰りましょうか、家に」
「うん!」


 女がいる。
 母から、女になった人間が。
 兇のサングラスの奥の目は、鋭く光っていた。顔は変わらず、白い、人形のような美しさのままだ。誰も彼の中にある、暗い炎を知らない。
 知らないのだ。
 知る必要もないことだ。
 女の住所をつきとめるのは、簡単だった。というより、兇はすでに知っていた。あの匣に触れたときから知っていたのだ。
 兇と手を繋ぐ影が、ぱっと顔を輝かせた。……影にも、光があるらしい。兇はそのかがやきを感じた。見ることは出来なかったが――彼にはしっかり伝わっている。
「うちだ!」
「ここで間違いありませんね?」
「うん!」
 ふうっ、と影が兇から離れた。
 兇は、走っていく影を見ないよう、すっと目を伏せる。
「ママ! ただいま!」

 悲鳴。


 果たして、あの子は、幸せだろうか。
 最早やさしい微笑みを与えられることもなく、出刃包丁の恐ろしさを受け止められる歳になることもない。
 ――俺は、優しいのか? 所詮、あの女に「あの女」を見立てて、復讐するために……あの子を利用しただけではないのか?

 悲鳴。

 兇は、その悲鳴を憎むべき女の悲鳴に重ねた。

 悲鳴。


 ママ、なかないで。
 ママ、にげないで。
 ぼく、かえってきたんだよ……。




<了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
モロクっち クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年11月25日

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