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『空を見上げて 』
矢塚・朱羽2058)&矢塚・朱姫(0550)

 たとえばそれは、何でもない出来事。
 小難しい数学の問題をすらりと解いたとか、レシピ通りに作ったハンバーグが美味しかったとか、そんな他愛ない出来事。兄である為に、ごく普通の、妹に自慢に思って貰える兄である為に努力している様々な事よりも、どうでも良い事の方に素直に感心する朱姫。
「朱羽は何でも出来る。凄い」
 と言う朱姫に、朱羽は笑ってこう答えるしかない。
「俺はお兄ちゃんなんだから当然だ」
 すると決まって、朱姫は少し唇を尖らせて言う。
「元は同じ一つの卵なのになぁ。どうして朱羽の方が料理も勉強も得意なんだろう」
 その表情が、仕草が、声が、愛おしくてたまらない。
 今すぐにでも抱きしめて、想いを伝えられたらと、朱羽の心の奥底が悲鳴を上げている事を、朱姫は知らない。
「だから同じ卵でも、俺の方がお兄ちゃんだからに決まってるだろ」
 朱羽は言う。笑顔の、お兄ちゃんの仮面を被って。
 『お兄ちゃんらしく』と言う枷。
 同じ母親から同じ卵から、同じ日に同じ世界に生まれ出た兄妹の枠を越えない為の枷を、朱羽はもうずっと長い間、自分に嵌めている。
 一つの家に、目の前に、誰よりも何よりも愛しい存在がいて、それをただ妹としか見てはならないと言う苦しみ。それを、朱姫は知らない。
 何時かこの枷が外れてしまった時。
 それを考えると、朱羽の体は自然と震える。
 どうしようもない、恐怖。
 伝えられたらどんなに楽だろうと、どんなに心が軽くなるだろうと思う。しかし、朱姫に自分の想いを知られた時、朱姫はまだ、自分に笑いかけてくれるだろうか。凄い、と兄である自分を尊敬してくれるだろうか。妹として、側にいてくれるだろうか。自分を許してくれるだろうか。
 兄として、妹を思うのではなく。男として、女の朱姫を思う自分を。


「朱姫?数学の教科書……、」
 学校に忘れて来た教科書を借りようとリビングに入った朱羽は、言葉を止める。
 穏やかな昼下がり。白いカーテンの隙間から差し込む温かな光と柔らかな風。
 そんな、何でもない空間の真ん中に、朱姫はいた。
 愛用のソファに背を預けて、付けっぱなしのテレビの前で目を閉じた朱姫。
「しょーがないな、こんなところで寝て……」
 あまりにも無防備なその姿に、朱羽は僅かに視線を逸らせて窓に向かう。
 風が朱姫の体を冷やさないように窓を閉めて、強くカーテンを握る。
 同じ家に住んでいるのだから、こんな光景は日常茶飯事で、17年も一緒に育った兄妹なのだから、寝顔など今更珍しくもない。
 小さな子供の頃は一緒にお風呂だって入ったし、裸で家中を駆け回った事だってあった。
 朱姫は妹で、自分は兄で。同じ屋根の下に住んでいる家族なんだ。
(家族なんだから……)
 一瞬で目に焼き付いた朱姫の寝顔を、朱羽は掻き消そうと頭を振った。
 朱姫は妹、自分は兄。何でも出来る、自慢の兄。
「……しっかりしろよ、兄貴だろ」
 言い聞かせて、朱羽は振り返る。
 しかしやはりそこに眠る、朱姫の姿。
 どんな人よりも美しいと思う、誰よりも愛しいと思う…………、妹。
 目を逸らそうとして、朱羽はどうしても逸らせられないでいる自分に気付く。
 規則的に上下する胸。
 細い首に被さる長い髪。
 健康的な色の頬と、そこにある、小さな、唇。
 僅かに開いたその唇から、
「………………」
 無防備すぎるその唇から、どうしても、目を逸らせない。
 1歩、1歩。
 朱羽は知らず、朱姫に近付いていた。
 恋しいと、思えば思うほど胸が張り裂けそうになる。
 愛しいと、思えば思うほど涙が出そうになる。
 愛している。
(愛してるんだ――)
 そう、思えば思うほど、心が悲鳴を上げる。
「妹でも……」
 朱姫が背を預けるソファの前に、朱羽は跪く。
「好きなんだ。本当に……、朱姫……」
 絞り出すような声で言って、朱羽はついにその唇に、重ねた。
 朱姫の唇に、自分の唇を。
 朱姫の唇は、柔らかく温かかった。
 そして、重ねた自分の唇は冷たく堅かった。
 それは、何も知らない朱姫の純粋さと、兄としての領分を侵そうとする自分の罪なのだと、朱羽は心の何処かで思う。
「ああ……」
 数秒押し当てた唇を離し、絶望的な眼差しで朱羽は朱姫を見る。
 たった今、兄に唇を重ねられた事など知らぬ朱姫は、変わらず規則的な寝息を立て、夢でも見ているのだろう、顔に笑みさえ浮かべる。
 どうしようもなく、その全てが愛おしくて朱羽は口を多う。
 自分の手で口を塞がなければ、叫んでしまいそうだ。
 気持ちよさそうに眠る朱姫を起こして、伝えてしまいそうだ。
―――誰よりも愛しいと。
 何度でも、唇を重ねてしまいそうだ。
 決して他の誰にも奪われないように。
「……っ朱姫……!」
 苦しい。
 呼吸する事も、身動きする事も、視線を逸らす事も、全てが苦しい。
 この想いを諦めるよりも、生きることの方が苦しい。
 ふらふらと立ち上がり、朱羽は朱姫から身を離す。
 手が届かないように部屋の隅へ行って、両目を手で塞いだ。
 耳も口も、閉ざしてしまいたい。
 この手さえ、切り落としてしまいたい。
 もう二度と、朱姫に触れられないように。
 心さえ、閉ざしてしまいたい。
 決してこの想いが、朱姫に伝わらないように。
「……ダメだっ……、もう……」
 呟く、その頬に涙が伝う。
 この涙は、枷から溢れて、心から流れ出した想いなのだと朱羽は思う。
「朱姫……、もう、一緒には居られない……」
 壁に背を預け、蹲り、朱羽は震える手で涙を拭った。
 この家を出なければ。
 朱姫から離れた場所に行かなくては。


「朱羽!家を出るって、どう言う事なの!?」
 その日、焔法師としての仕事を終え、帰宅した朱羽を剣幕の朱姫が迎えた。
 未だかつて、妹のこんな剣幕は見た事がないような気がする。
「どう言うこともこう言う事も、念願の独り暮らし」
 靴を脱ぎながら答えて、朱羽はさり気なく朱姫から身を離す。
「独り暮らししたいなんて、今まで言ってなかったじゃない」
 リビングへ向かう廊下で、朱姫は朱羽の服の裾を掴む。
「あれ?言ってなかったっけな?実は憧れてたんだ、これが。金も結構貯まったし、仕事の方もどうにかなりそうだからさ、結構良い機会だと思うんだ」
「聞いてないわよ!それに、どうしてこんな急なの?一言くらい相談してくれたって良いでしょ!」
 激しく怒る朱姫に、朱羽は立ち止まって笑って見せる。
「ごめんごめん。相談したら、絶対反対するだろうと思ってさ」
「するに決まってるでしょ!でもだからって内緒で話を進めるなんてもっと酷いっ!」
 ふてくされる朱姫。
 その顔を、こうやって間近で見るのもあと少し。
 新しく住む家も、学校も、決まった。
 引っ越しの手続きも済ませ、部屋は朱姫に気付かれない程度に整理が付いている。
 だから。朱姫を見る度にこみ上げる思いを、押さえつけるのもあと少し。
「ホントに独り暮らしなの!?」
 突然、朱姫が朱羽の胸元を掴んだ。
「えっ!?」
 予想もしなかった言葉に、朱羽は目を見開く。
「実は私に内緒で彼女とか出来てて、一緒に暮らすつもりなんじゃないでしょうね!?もしそうだったら、私、おもいっっきり邪魔してやるから!!」
 決して冗談ではなく、朱姫の目は真剣だった。
「……有り得ない……」
 恐らく一生、誰かを愛しく思う事はないだろう。
 女性と共に、同じ部屋で暮らす事はないだろう。
 朱姫の他には、誰と。
 呟く朱羽に、朱姫は漸く笑う。
「そうだよね!私に彼氏がいないのに、朱羽に彼女が出来るはずないし!」
「こらこら、それはどう言う理屈だ。俺の方がお兄ちゃんなんだから、彼女だって俺の方が早く出来るぞ、きっと」
「恋愛には兄も妹もありませんー!」
 舌を出して見せて、朱姫は自分の部屋へ入り朱羽の前でバタンと扉を閉める。
 溜息を付いて、朱羽は首に巻いたマフラーを外す。それから、ゆっくりと扉を叩いた。
 返事はない。
「朱姫?怒ってる?」
「当たり前でしょ!」
 返ってくる声は、聞き慣れた拗ねた朱姫。
 同い年でありながら、常に1歩先を行く兄を羨みつつ、尊敬しつつ、少し歯痒く思っている、可愛い妹。
 ずっとずっと妹でいて貰う為に、ずっとずっと兄でいる為にこの家を出るのだとは決して口に出さず、朱羽は扉の向こうに話しかける。
「朱姫、ごめん。」
 と、ゆっくりと扉が開く。
「朱姫」
 扉の隙間からこちらを見る朱姫に、朱羽は笑いかける。
「朱羽って、言い出したら聞かないところがあるよね」
「そうかもな」
「そうかもな、じゃなくて、そう、なの。……もう決めちゃって、辞める気はないんでしょう?」
「ああ」
 短く答える。
 と、朱姫は大きく溜息を付いた。
「あーあ。我が儘なお兄ちゃんを持つと、妹は苦労するよね」
「苦労をかけてすまないなぁ、妹よ」
 漸く、巫山戯て笑い合う事が出来た。


 受け取ったばかりの報酬を、ジャケットのポケットに押し込んで朱羽は少し背を丸めた。
 今年の秋は、例年より少し冷えるようだ。
 あの日。眠る朱姫の唇に自分の唇を重ねてしまったあの日から、ちょうど1年。
 新しい生活にも、独り暮らしにも慣れた。仕事も順調で、学校も順調。
 しかし、朱姫が側にいない暮らしにはなかなか慣れず、想いが変わる事はない。
 離れれば離れるほど、想いは更に募り、会えなければ会えないほど、愛しさが増す。
 それでもきっと、朱姫の為にはこの方が良いのだと、朱羽は自分に言い聞かせている。
 自分がどんなに苦しくても、切なくても、ただ、朱姫が幸せならばそれで良い。遠く離れる事で、朱姫の中の自分が『おにいちゃん』でいるのならば、それで良い。
 何時か積もった想いが爆発して、自分が壊れてしまっても。
「それでも朱姫、お前が幸せなら、俺はそれで良いんだ」
 呟いて、朱羽は高い空を見上げる。
 今、この瞬間に、朱姫もまた、同じ空を見ている事を願いながら。



end

PCシチュエーションノベル(ツイン) -
佳楽季生 クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年11月21日

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