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『【胎動の紡いだ螺旋の果てに】 』
フィセル・クゥ・レイシズ1378)&スティラ・クゥ・レイシズ(1341)



 日付の変更を教える時計の小さな針が鳴ってはじめて、何気無く手に取った本を読み耽ってしまっていた事に気がついた。窓の外には四角く切りとられた濃密な闇が広がっていて、燭台の揺らめきをガラスに映し出している。
 目に掛かる程に伸ばしている深い金の前髪を払うように、くいと面持ちを見上げさせながらフィセル――フィセル・クゥ・レイシズは静かに本を閉じ立ち上がり、窓辺に歩み寄って空を見上げた。
 空気の良く澄んだ新月だ。
 上空の風は強く冷たいのだろう、無数の星々が散らした宝石のようにその存在を誇りあっている。
 まだ彼が幼く小さかった頃、フィセルは満点の星空にはいつか手が届く日が来るのだと信じていた。
 思いきり伸ばした両手の指先が星を掻いて、いつかはそれを握り締める事ができるのだと。
 父の膝に抱かれるフィセルにそう教えたのは母親で、彼は自分の背が伸びて大人になる日を心の底から待ちわびた。
 父よりもたくましい翼で風を打ち、母よりもしやなかな背中で大空を舞う。
 誰よりも強く気高い竜になるのだと、誰もが願うことをフィセルも夢に思い描いていたのだった。
「―――、強く気高い竜、か…‥・」
 今も、いや、今だからこそ、彼は自問する。
 自分は、父と母に、そして古代竜としての自分自身に恥じない生き方を、きちんと貫けているだろうか?
 強くあれ、気高くあれと願ったあの頃の自分に、自身を持って今の己を顕す事ができるだろうか?
 否、とフィセルは思う。
 まだ足りない、まだ先がある筈だと――こんな星空を見上げる度に彼はそれを否定してしまう。
 無限の広がりすらを感じさせ、全ての生きる者を等しく見下ろしている空を仰げば、彼は幼かったあの日の自分を痛ましく、そして力強く思い出すのだ。

††

 少し風邪っぽいから、早めに寝る事にするわ―――
 後から思い起こすならば、母のその言葉が異変の始まりだったのだとフィセルは思う。
 あの頃を境に母は少しずつ痩せて行き、ベッドの上で過ごす時間が増した。もう少しで治るから、あと少しだから。そう言い続ける母の熱は下がるばかりか日に日に高くなり、しまいには父から母の寝室へ入る事を兄妹は禁じられてしまったのだった。

 もはやその頃には、誰の目から見ても明らかだった。
 母の身体を蝕んでいるのは風邪などではなく、古代竜のみが冒される独特の流行り病であると言う事が。

 夜になると母の熱はさらに高くなり、明け方までに父は何度も井戸へ水を汲みに出た。
 真夜中に、なるべく忍ばせながら廊下を往く父の足音、扉の音――そして母の苦しみの声。隣のベッドでシーツにくるまるスティラの、押し殺した嗚咽がそれに混じる。
 今思えば、妹には見えていたのかも知れない。そこからそう遠くない未来に、自分たちと母を永遠に隔てる――重苦しい『死』の後ろ姿が。
 ただ、フィセルだけは、かたくなに信じた。
 暗闇の中、凝視するように天井を見上げ、明日の朝には母がベッドから起き上がる事を考える。
 眠い目をこすりながらフィセルがダイニングへ足を向けると、母が笑顔で迎えてくれる。おはようのキスを頬に受けながらテーブルに付き、母の焼いたパンを食べるのだ――もうすっかり良くなったのよ、心配かけてごめんなさいね。
 そんな事を考えていると、いつの間にか浅い眠りに足を引き摺られる。目が醒めても記憶にない程度の短い夢をいくつか見るうちに朝になり、母の寝室の扉が締まっている事を確認しながら冷たいダイニングでミルクを飲むのだ。それが、ここ数週間のフィセルとスティラの朝だった。

 ある朝フィセルは、スティラよりも早く目が醒めた。
 遠くで鳥が慎ましやかに啼く声が聞こえた――薄いレースのカーテンの向こうでは、まだ明けきらない朝の靄が視界を阻んでいて、それはいつもより半刻ほど早い目覚めであった事をフィセルに伝えている。
 ―――母さんに会いたい。
 ふと心によぎったそんな思いが、数瞬のちにはとてつもなく大きな感情となり、フィセルはベッドからそっと抜け出した。
 スティラを起こしてはいけない。どうしてなのかフィセルはそう思い、扉を開け閉めする事にすら細心の注意を払う。そして軋む廊下をゆっくりと歩んで、母が眠る寝室の扉をそっと開けた。

「―――フィセル、ね…?」
 母が自分の名を呼ぶ声がすっかり掠れ、力を失っている事にフィセルは戦慄した。
 自分たちの部屋にかけられている薄手のものとは違う分厚いカーテンのせいで、室内は暗く、空気が澱んでいる。母の声がした方向を頼りに、フィセルは歩を進めていった。
「来ては駄目」
 枯れ嗄れた声が制する。びくん、と両肩を震わせてフィセルは立ち止り、口唇を噛んだ。本当なのだ。母が冒されているのは流行り病なのだ―――
 ただ暗闇の中、母の影を求めて目を凝らした。父はどこへ行ったのだろうか。母を1人にしておいて平気なのだろうか。
「――母さん…」
 ただ、精一杯に。
 それだけを呟く。
 ここ数週間の自分の事、スティラが母を心配して泣いている事、母が治ったら連れて行きたい場所がある事――
 話したい事がたくさんあった筈なのに、フィセルはそれを言葉にする事ができなかった。ただその場でぎゅっと拳を握り、理由の判らない涙をこらえながら目を瞠るだけだった。
「――フィセル、…スティラをよろしくね」
 そんなフィセルの様子を見て取ったのか、母が不意に言葉を紡いだ。はっとして息を呑むフィセルに、母は尚も言葉を続ける。
「あなたは、とても強くて、優しい子ね…? スティラを守ってあげて、母さんがしてあげられなかった事を、これからはあなたがしてあげて」
「っ――母さん、どうして…‥・っ・・・!」
 違う、と。
 そんな言葉が聞きたくてここに来た訳ではないのだと。
 咽喉の奥まで、そんな言葉が出掛かっていた。
 が、自分の声が母の声を制する事を畏れた。
 心は納得しなくとも、フィセルにも感じ取る事ができていたのだ――これが、母の遺言になるのであろう事を。
「・‥…良い子ね」
 暗闇の中で、母が笑んだ。
 ――ような、気がした。
「フィセル、・‥…お水を取ってきて貰える…?」
 ほたり、と。
 足下に、ほんの小さな水の音を聴いた。
 それが次に爪先を打った時、フィセルは自分が涙している事を知った。
「冷たいお水が欲しいの―――裏の井戸から、汲んで来て貰える―――?」
 上擦り、枯れた声がそう続ける。
 お水。
 小さく繰り返した母の声を背中に聞き、フィセルは部屋を飛びだした。

 小さな身体で井戸から水を汲み上げ、半分程をグラスから零してしまいながらも、フィセルはきつく口唇を噛みながら母の部屋へ駆けた。
 そして、漸く熱病から開放され、その体温を奪われ始めていた母の傍らに縋り付き、大きな声を挙げて泣いた。

 廊下を駆けるフィセルの足音に目を醒ましていたスティラがカーテンを開けた時、母の足下でシーツに突っ伏していた父を見た。
 同じく流行り病に身体を蝕まれながら、その最後の一瞬までを母の看病のために使い果たした父の背中は、とても小さく、そしてフィセルには頼もしく見えたのだった。

†††

「お兄ちゃん…‥・おへや、入ってもいい…?」
 父と母を同時に失ったその日から、フィセルは両親の部屋に引き篭もりがちになった。
 小鹿のように跳ね、良く笑う子供だったフィセルは、目に見えて視線に翳りを孕むようになり、人との交わりをかたくなに拒否した。それまでは兄妹2人で使っていた寝室はスティラに明け渡してしまい、夕食が済むと早々に真っ暗な部屋に戻ってしまうのだった。
 その代わり、明るいうちは決してその部屋に足を踏み入れなかった。ベッドに突っ伏した父の背中が、痩せた母の細い腕が記憶に蘇ってくるからである。
「・‥……‥・」
 スティラの躊躇いがちなノックに、フィセルは黙って扉を開けた。
 妹とまともな会話を交さずになってからどれくらいの日々が過ぎていたのだろうか――妹の幼さが苛立たしかった。父と母の死をただ受け容れたスティラの、それでもフィセルに気を使って申し訳なさそうに作る笑顔の理由が、彼にはどうしても理解できなかったのだ。
 既に寝巻きに着替えてしまっていたスティラは、扉の前で口許に微笑を浮かべながら手を後に組んで立っていた。
「お兄ちゃん、あのね…‥・?」
 フィセルの目の前に、スティラがそっと手のひらを開いて差しだす。
 それは、小さな油紙の箱からこんもりと盛り上がっているカップケーキだった。フィセルは疎ましげに目を細め、前髪をかき上げる。
 不格好に膨らみすぎているそのカップケーキは、手作りのものだと容易くみて取れた。両親を亡くした兄妹を可愛そうに思って、何かと世話を焼きに来る町の誰かが妹にくれたものだろう。フィセルはそう思い、そうか、とつっけんどんに言葉を返した。そして早々に扉を閉めようと、ドアノブに手を掛ける。
 が、その日、スティラは引かなかった。
「いっしょに食べようと、思ってね…‥・もってきたの、お兄ちゃん、食べよう…?」
 えへへ、と、照れたようにスティラは笑う。
 その時、かぁっと目が熱くなったような気がして、フィセルはぐっと拳を握り締めた。
「―――っ何バカな事言ってるんだよ!」
 爆発した怒りに任せ、フィセルは妹の手から思わずカップケーキを払い落とした。
 不意の怒声と、兄の暴挙に、スティラはびくんと膝をこわばらせたまま、1歩も動けなくなってしまった。
「まだ父さんと母さんが死んで何日も経って無いんだぞ!? どうしてそうヘラヘラしていられるんだよお前は!」
 夜の廊下に、フィセルの幼い怒鳴り声が響き渡る。
 思えば、ここ数日は満足に食事すら取っていない――大きな声を出したせいか、僅かに肩を上下させながらフィセルは扉の縁に手を掛けた。
「ごめ…‥・なさ・・ぃ・・」
 眉を寄せ、今にも泣きだしそうな顔でスティラは兄を見上げている。ふるふると小刻みに震えて目を潤ませている彼女の横で、振り払われたカップケーキは廊下を転り、隣の部屋の扉の前で止まった。
「でも・・・ね・‥…お兄ちゃん…‥・」
「・‥…もう良いからっ、お前は自分の部屋に帰れよ…!」
 耳を真っ赤にして俯いたスティラを見下ろし、フィセルは苛立たしげに尚も怒りの言葉をぶつける。すん、と鼻を鳴らす音が聞こえて、こくんとスティラは頷いた。
「・‥…お兄ちゃん、…おたんじょう日、・‥…おめで…とぅ…」

「―――!」
 かっとなったフィセルが、スティラの頬を打とうと再度振り上げた手が止まる。
 涙を拭う妹の指に、何箇所にも細く切った白い布が巻かれていたのを見たからだ。
「・‥…おめでとう、おやすみなさい…」
 涙に睫毛を濡らしながら、それでもスティラが兄を見上げて笑った。そして鼻をすすりながら、隣の部屋へと帰っていく。
 転がったカップケーキはスティラの爪先に無視されたままで、扉が静かに閉められた音の後ではそれとフィセルのみが静寂に取り残されていた。

「・‥…スティラ」
 フィセルの口唇だけがそう動いて、ゆっくりと右手が下ろされる。
 妹が消えていった部屋の扉を、しばらくの間ぼう然と見つめていた。

 彼女の指に巻かれていた細い布は、スティラが気に入っていたタオルの切れ端では無かったか。
 左手ばかりに巻かれたそれは、包帯の代わりでは無かったのか。
 甘く柔らかに鼻を擽るカップケーキの香りに、焼いた林檎の香りが混じっている事に漸く気がついた。
「―――」

 あのカップケーキは、スティラが自分で作ったものなのではないだろうか。

「・‥……‥・ん・・・な・・」
 先ほどの怒声がまるで嘘のように、打ち拉がれたフィセルの声が廊下に響く。
 のろのろと歩みを進めて行き、床に叩きつけられた拍子に少し潰れたカップケーキを取り上げた。
 いびつな形に巻き付けられている紙の模様は確かに見覚えがあって、母が妹の誕生日に焼いた――そうだ、どうしてそれを早く思い出さなかったのだろう――カップケーキのものと同じ柄だった。
「そんな」
 思い当たったその瞬間に、フィセルの目に1つの鮮やかな光景が浮かび上がってくる――まだ母が健康だったころの丸くてしなやかな背中、キッチンに充満する果物の匂い、はしゃぐ妹の踵の音に、妹の背丈ほどもある大きな熊のぬいぐるみ―――
 瞬間、フィセルは、自分の手が震えているのか、視界が揺らいでいるのか判らなかった。
 その両方だと悟った時、不格好に潰れ、そして膨らんでいるカップケーキの欠片を指先で千切り、口に運ぶ。
 ゆっくりと口の中で溶かすように咀嚼しながら、何度も何度も腕で涙をぬぐい、その手でケーキを少しずつ千切っては口に運んでいった。

 自分の誕生日すら思い出せなかった不敏な兄のために、スティラは傷だらけになりながら始めて1人キッチンに立ち、甘菓子を作った。あの日スティラは、母から受け取ったケーキのバスケットを両手に抱えて大はしゃぎだった―――それを覚えていて、フィセルにも同じものをプレゼントしようと思い付いたのだろう。
 父と母への思慕に沈む、不憫で幼い兄のために…‥・。
「・‥…っぅ…」
 後から後から流れ出る涙を留める事ができず、壁に背中をつけたままでフィセルは廊下にへたり込んだ。
 妹の幼さを厭んだ、そんな自分の幼さを呪う。
 自分より4つも年下の妹が、父母を失って哀しくない道理がないのだ。それなのに彼女は笑い、兄を気づかって世話を焼く。
 子供のままなのは僕の方だった―――
 今ここで、一生ぶんの涙を使い果たしてしまおう。
 フィセルはそう、強く思った。
 涙が涸れた時から、僕は誰よりも強くなろう。
 誰よりも強く、気高い竜に。
 そして妹を守り、その笑顔を二度と曇らせないように生きていこう。

 幼い少年が、大人になろうと――生涯を賭けて守ろうと誓った、初めての小さな決心だった。

††††

「―――なんだ、つまらない。今年はいつもより早くお祝いに来て、びっくりさせようと思ったのに。まだ起きてらしたのね?」
 いつの間に侵入したのか、不意に背後から掛けられた高い声に、フィセルは両肩を竦めて振り返った。
 自分の誕生日を、少なくとも1年に1度はこうして、思い出す事がある。
「お前の考えている事なんてお見通しだ、スティラ―――私はまだ耄碌していない、玄関の扉を開けた時からちゃんとお前に気づいていたさ」
「相変わらず口の減らない人」
 ちょっとはびっくりしたでしょう? そう言って笑いながら、妹がテーブルの上にどさりと大きなバスケットを置く。
「――私にも、遠視師の素質があるのかな…?」
 室内に漂いはじめた、温かな林檎の匂い。
 バスケットの中には、1つ1つ丁寧にラッピングされたカップケーキが並んでいた。
 あの日のスティラが作ったものよりもずっと見栄えがして、あの日のスティラと変わらぬ愛情がこめられた『誕生日プレゼント』が。
「まだまだでしてよ、お兄様?」
 にっこりと満面の笑みを浮かべながら―――スティラは、真夜中のお茶にしましょうか、とフィセルに問うた。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
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聖獣界ソーン
2003年11月17日

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