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『風の見える風景 』
星間・信人0377


 ミス大学、ミスカ大学などと俗称をつけられた大学があった。
 私立第三須賀杜爾区大学だ。
 『第三』と冠してはいるが、第一と第二が何処に在るか知っている者は居なかったし、ミスカトニック大学という存在を知っている者は少なかった。
 だがそれでも、この古い総合大学にはちゃんと生徒がいる。
 この大学が誇っているのは、何と言っても、国立図書館にも匹敵すると言われているほど巨大な図書館であった。
 図書館はいつでも静まりかえっていた。誰かが厳しい監視の目を光らせているわけでもなく、また利用者がいないということもないのだが、そこには完全なる沈黙があった。
 ひとりの男子学生が、物理学のレポートを仕上げるために、初めて大学図書館を訪れた。彼は一回生で、初めての一人暮らしを半年近く満喫し、今も満喫しているところだが、前期に提出しなければならないレポートをまだ仕上げていなかった。今週末が締切だと通告され、この図書館に助けを求めたのだった。
 彼は、無音の世界と、古い表紙や頁の匂いに圧倒された。整然と並んだ古い本棚にも、その本棚にびっしりと詰め込まれた蔵書にも、心奪われてしまった。この図書館には、何の注意書きがなくとも、沈黙を生み出す力があるようだ。
「あの……」
 その囁き声すら、いやに大きく聞こえる気がした。学生は肩をすくめた。
 だが、カウンターに座っている司書は咎めることなく、笑顔を向けてきた。
「何をお探しで?」
 本です、と冗談で答える余裕はどこにもない。ここには本しかないのだから。
「物理を……マクスウェルの方程式についての……」
「ああ」
 司書は、眼鏡を直しながら立ち上がった。白い手袋に黒い腕ぬき、くすんだ黄色のネクタイ。典型的な事務員か、司書の出で立ちであった。この図書館は、時すら止めてしまうのか。今どき、こんな典型的な司書を見つけるのは難しいだろう。
「初心者向けのものから、この大学の教授がお書きになった専門書まで、関連する書籍は日本語のもので26冊ありますよ」
 書架へと歩きながら、小柄な司書は学生に話した。
「そ、そんなにあるんですか」
「ええ。まあ、読みやすくわかりやすいものはそのうちの3冊ですが。ああ、失礼ですが、英語のほうは?」
「できないです」
「それならやはり、3冊ですね」
 司書はまったく迷うことなく、まるで合わせ鏡の中のような世界を縫うようにして歩き、ひとつの本棚の前で立ち止まった。そしてまたしても迷うことなく、脚立を引き寄せると、上から2番目の棚から3冊の本を抜き出してきたのだった。
「こちらです」
「ど……どうも。すごいですね」
「はい?」
「本の位置、全部わかるんですか?」
「さすがに全部ではありませんよ。この図書館はまだまだ未整理の本が奥に眠っているんです。……この辺りの、皆さんが自由に閲覧できる本に関しては、それなりに自信がありますけれどね」
「……すごいです」
「どうも」
 学生の感嘆に、司書は素直に喜んだような、社交辞令で微笑んだような、何とも言えない微笑を浮かべた。
 週明けに礼を言ったのは学生のほうだった。司書が26冊の中から選んでくれた本のおかげで、彼はレポートを仕上げることが出来たのだ。学生はその日から、大学図書館に通い始めた。図書館には、いつでも小柄な眼鏡の司書の姿があった。学生が司書の名前を知るのは、少し後になってからだ。
 彼は、星間信人といった。


 静まりかえった図書館にも、音が響き渡る日があった。
 風が強い日だ。
 古い建物なので、風が吹くと、みしみしとあちこちが悲鳴を上げた。
 風が吹くと、信人の目が窓に向けられる。


 星間信人は、過去にたった一度だけ無断欠勤をしたが、それさえ除けば非常に勤勉な男であった。彼が咳をしたり鼻をすすったりしているところを見た者は居なかったが、彼は身体が弱いことを理由に、よく有給を取った。酒が呑めないということで、同僚の誘いに乗ることもなかった。だからと言って、勤務後はすぐに帰宅したいというたちでもない――彼は夜遅くまで、職場の人間とではなく、本と付き合っている。閉鎖書架に篭もって読書をしたり、整理をしたり――彼が帰宅するのは、きまって深夜なのだった。
 だがそれは、彼の働きぶりや人格の前では霞む傷である。大学の教授たちはおろか、図書館の責任者でさえ、信人を頼ることがあるほどだ。彼は『さすがのベーコン』から『ユリシーズ』の位置、果てはどんなに支離滅裂なものでも、内容までしっかり記憶しているのだから。
 存在感は薄かったが、それは気配がないということであり、図書館及び大学、この世界にまるで韜晦しているかのように、彼は溶けこんでいるのだった。彼は笑顔であり、また親切であった。彼が有給を取った日、図書館を訪れる常連はみな落胆した。信人以外の司書が無能というわけではなかった。ただ信人の手腕が並大抵のものではないだけなのだ。ただ、好きこそものの上手なれという言葉を身体で表現しているかのような男であったから。それだけに、信人のいないカウンターを見て、常連たちは嘆息する。


 週明けの昼休みに、男子学生は本を図書館へ返却しに行った。
 カウンターに、眼鏡の司書の姿はなかった。
 飽かず図書館は静まりかえっている。利用者はちらほらと見かけるのに、ページをめくる音すら聞こえてこない。音は、封印されていた。本が、喰ってしまっているのだ。
 先週初めてここを訪れたときは感じなかった恐怖じみたものに、学生はひとり戦慄した。立ち並ぶ本棚が無限に思えた。ここに居たら、自分は無限の中の一部にされて、そのまま戻って来られないのではないか――
 学生は本を返すと、そそくさと図書館を出て、友人を探しに学生食堂へ向かった。

 眼鏡の司書の姿を、そこで見かけた。彼は隅の席で月見うどんを食べていた。山吹の黄身はどろりと広がり、つゆの中にねじ込まれようとしていた。傍らの空席には、古い本が置かれている。洋書であるらしく、背表紙の題名を読むことは出来ない。うどんのつゆから守るためか、本の上には例の黒い腕ぬきがかぶせられていた。
「あの」
 先週初めてかけたものと同じ言葉を、学生は司書に投げかけた。
 司書はうどんの湯気で曇った眼鏡のまま、顔を上げた。
「ああ」
 司書は、ふわりと笑みを大きくした。眼鏡の曇りも、そこで消えた。
「本は、お役に立ちましたか」
 本の位置だけではなく、図書館を訪れた者の顔まで覚えていられるらしい。学生は頷いて、照れ笑いをした。
「ありがとうございました。おかげでレポート、まともに書けましたよ」
「引用程度に留めておきましたか」
 司書の言葉に隠された意味に、学生は苦笑した。
 学生は答えず、首を傾げて肩をすくめただけだった。
「返しときました」
「そうですか。……また、来て下さい。何かお探しでしたら、お手伝いできますから」
「そのときは、またよろしく」
「ええ」
 学生は振り返り、昼休みの雑踏の中に、友人たちの姿を見出した。
 学生と司書は、会釈を交わした。
 学生は、学生で構成されている人込みの中に消え――司書はうどんを食べ終えて、安い食器を前に押し出し、椅子に乗せていた本を手元に引き寄せた。
 誰も読めないタイトル、それは古いフランス語で、『エイボンの書』とあった。
 まだその背表紙に、ナンバリングされたシールは貼られていない。これからも貼られることはないのだ。
 その未来を、この真面目な司書だけが知っている。

 学生が幸いなことに気がつかなかった歪みは、司書の手であった。
 ここは食堂で、彼はうどんをすすっていたのに、学生は司書が手袋を嵌めたままでいることに――気がつかなかった。




<了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
モロクっち クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年11月13日

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