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『■鏡■ 』
御影・涼1831


 遠くで雨の音が聞こえる。

 薄い硝子の向こうで、白い手が俺を手招いている。

 行かない…俺はそっちには行かない。

 何か分からないモノになった俺がその手の隣に見える。

 誰か。

 俺を捕まえていてくれ……

 
 ■失せ物探し■

 薄暗い部屋の片隅でちらりと影が動いた。
 窓の外の曇り空を映したかのような部屋の暗さと重さに、一人溜息をつく。
 膨大な都市伝説の資料がここにあった。
 東京だけではない、各地の伝承と調査の結果記録。
 溜息と欠伸の両方を堪えて、涼は立ち上がった。
 ここに居ても見つかるはずが無い。
 やはり、あの場所に行く必要がありそうだった。
 そう感じていれば、不意に動いた影は手に持った本を本棚に仕舞っていく。

 何処へ行くのかと訊ねない女に、何も言わない自分。
 何処から見ても奇妙な二人。
 だが、この街では、この部屋では当たり前の光景。
 きっといつか、誰かも分からない人間がここにやってきては援助を求めていたに違いない。
 広げられたレポートと羊皮紙と革張りの本を片付け始める女性、高峰・沙耶さんの後姿を涼は見つめていた。
 それらを全て片付けて振り返った彼女が自分に顔を向けてくるまで、涼は結局、何もしないまま考え込んでいた。
 瞼は相変わらず閉じられたまま、じっと自分を見つめ返しているような沙耶に気がついて、恥ずかしさに俯く。
 涼にとって大事な人はたった一人、俺より年が4つ下の……あの少年だけだ。
 異性としての意識じゃない自分の感情に、余計涼は焦った。
 その感情が何なのか、自分だけは知っている。
 
 『自分の未熟さの認知』

 ただ、それだけのことだった。
 何もかもが彼女の手の中にあるような気がしていた。
 知らぬ事は無いほどの知識とそれを裏付ける有り余るほどの古文書とレポート。
 過去のデータは彼女のもとに行けば、必ずといっていいほどあった。
 ゆえに自分の中に足りないと思う感情が芽生えていたのだろうと思う。
 おまけに夏に出会った赫い鬼……彼との出会いが決定付けていた。
 自分の中に足りないと感じる感情を見つけてから、出会い頭に言い知れぬ恐怖といきなり対面しているような気持ちは流石に無くなった。
 だけど、それが満たされているとは言いがたい。
 毎日のように、ここ、高峰心霊研究所に通って過ごしていれば、未熟さについては誰しも感じる感情だとは思うのだが。
 このままでいる気は自分には無かった。
 しかし、お目当ての資料が見つからなければ、ここに居ても仕方がない。
 そう思った矢先だった。

「行くのね?」
 沙耶は言った。
 何処に?…とは言わない。
 涼もあえて言わない。
「一緒に来てください」
「決断できたのね」
「…ぅ……」
 見透かされている自分の心の中を今更だけど隠すことも出来なくて、涼は思わず小さな声を漏らしてしまった。
「……現場に行ってもう一度調べます。今度は感知能力を使って……」
「使っていなかったのね」
「……痛い所を突きますね…沙耶さん」
 ニッコリと笑うだけで沙耶は余計な事は言わない。
「来てくれますか?」
「勿論だわ」
 穏やかな笑みを浮かべて沙耶が言う。
 涼は頷いた。
 行く先はあの場所。
 新宿、歌舞伎町。
 あの鬼と出逢った場所。


 ■探し物のありか■

 涼と沙耶はタクシーに乗り込んで新宿に向かった。
 連日の寒さにとうとうダッフルコートを出す目になっていたが、今日も相変わらずの寒さで出しておいて良かったと涼は安堵していた。
 沙耶の方はというと、いつもの肌も露なドレスの上に黒いロングコートを羽織っていた。
 襟元から覗く肌の白さが人のものように見えなくて目を見張ってしまう。
 何処となく作り物じみた存在。
 その点では、あの男も変わりが無い。
 ただ違うのは、沙耶にはあの男のような狂気が無いことだった。
 一度は狂って溺れかけた狂気とは違う、遠い存在のような女性を隣にして、どこか自分は安堵している。
 今なら冷静にあの男の思念の残り香に耐えられそうだった。
 

「沙耶さん……こっちです」
「えぇ、わかったわ」
 黒猫を抱えたまま、沙耶は涼の跡をついて行く。
 タクシーが走り去ってからというもの、流石に駅の近くの歌舞伎町を歩いていれば人通りの多さに見失ってしまいはしないかと、何度も沙耶の方を涼は振り返っていた。
 しかし、迷う事も人にぶつかる事も無く沙耶は歩いている。
 その目は開かれる事は無いというのに、誰もがそのことに気がついていない。
 心有る者なら盲人のように見える人には避けたりするものだが、辺りの人は一向に気がつかないままだった。
 それどころか、誰一人彼女の存在に気がついていないようだった。
 ぶつかる事も無いが避ける事も無く、ただ、風景のように道行く人々は通り過ぎていく。
 目的地が近づいて視線を前に向ければ、古いビル群が見えてくる。
 どれもが昭和の中頃建てられたものだ。
 その間を行けば、かつて青いシートで覆われていた事件現場が見えてきた。
 流石に時間が経っていれば警官も居ないし、シートも外されていた。
 近づくたびに鼓動が早くなる。
 ゴクッと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。

―― まだ…まだだ。……俺は…まだ……

 力を失っていく足を必死で前に出して、よろけるようになりながらも路地裏を進んだ。
 眉を顰めて、本来ならばすぐに辿り着ける距離にあるビルの谷間に行く。
 最初出逢ったところはここ。
 茶色の染みが消えないままこびり付いた地面を涼は見た。
 引き裂いた肢体を眺めながら笑っていた男はここで暗い欲望に浸っていた。
 眩暈がして眉を寄せた記憶はそれほど遠くなく蘇ってきた。
 流れ込んできた感情の中、追い込込んで『狂気』が恐怖を嬲っていた。
 ビルが、街が涼をずっと呼んでいた。
 街の怨嗟が涼を呼ぶ。
「こ……これは……」
「何が見えるの?」
 不意に沙耶が言った。
「まだ……はっきり見えない……」
 妖艶な男の残像が涼を手招く。
 遠くで水の音が聞こえていた。
「……!!」
 目を閉じれば足元には川のように流れる血。
 自分の足を濡らして紅く染める。
 自分を染めて飲み込もうとしているかのようだった。
 薄い硝子のような皮膜の向こうで白い手が俺を手招いている。
 見えたの顔は…あの妖。
 肩までの黒い髪が風に攫われて舞う。
 半面を覆っていた髪が退けば見えたのは整った冷たい容貌。
 青白い程の肌と反対に真っ赤な唇がはっきりと見えていた。
 切れ長の瞳は氷のような水色。
 黒い服を纏った体はしなやかだった。
 男のものとは思えないほどに細く滑らかな指が動く。
 来い…来いと手招く。

―― 行かない…俺はそっちには行かない……

「嫌だ……俺は行かない……」
 涼は頭を振った。
 目を閉じた瞼の裏には、まだあの男が呼ぶ姿が見えた。
 その姿を消すのは簡単だった。目を開ければいい。
 しかし、どうしても逃げる事が出来なかった。
「た……助けて……」
 目を閉じたまま、涼は涙を零した。
 噎せ返るような血臭が支配する真っ赤な空間が自分を呼んでいる。
 捻れて自分に纏いつく感覚。
 何か分からないモノになった俺がその手の隣に見えた。
 自分なのに自分じゃない感じ。
 あの男と同等のものになった…自分。
 人の形をとった異様な存在。
 それが自分を呼んでいた。

 一つになろうと……

「……ぁ……」
「なにが見えたの」
 抑揚の無い平坦な沙耶の声が聞こえた。
 涼は自分の方を抱きしめて、目を瞑ったまま震えた。 
「嫌だ……嫌だ……」
 自我を食い破るかのような強烈なイメージは涼を狙っていた。
 遠く咆哮が聞こえる。
 男の声ではない声。
 直感的に街の声だと理解した。
 開け放たれた自分の自我の中に赫い妖に汚された街の声が入り込んでくる。
「ま…まさか……」
 心の目を開けようと胸に手をやれば、瞼の裏に黄天の形が浮かんで光を放つ。
 涼は自分の手を下ろした。
 消えないように心で形をなぞれば、黄天は自分の中に入り込もうとするかのように自分の中でそれは淡く輝く。
 さっきとは違う涙が涼の目から溢れた。
 ふっと胸のうちに温かいものを感じて、涼は胸に置いた手を握る。
 目を開ければ沙耶が傍に立ち、涼の胸の上に手を置いていた。
 ぼんやりと沙耶を見つめ返すと涼は呟くように言った。
「俺、会って戦いたい理由がわかった気がします……俺はあの時“怖かった”んだ」
 何も言わずに沙耶は頷いた。
「何か恍惚感のようなものもあったけど、本当は怖かった」
「そう……あなたはどうしたいのかしら?」
「……俺は……」
 沙耶を見つめて、一瞬黙ると涼は言った。

「……あの恐怖を断ち切りたい、恐怖を植えつけたあの男に会って、それで……!」

―― 恐怖も自分の弱さも振り切る……

 涼は自分の未来を見つめるように言った。
 再び目を閉じれば、遠くで雨の音が聞こえる。
 自分の心と街を満たす慈雨。

 血を洗い流していく雨の音。

 薄い硝子の向こうで、白い手が俺を手招いている。

 行かない…俺はそっちには行かない。

 何か分からないモノになった俺がその手の隣に見える。

 それは俺じゃない。

 俺は俺を捕まえに行くから……

 心の中に描く本当の自分を捕まえるため。
 硝子の向こうに居る自分と戦うために、涼は歩き始める。
 描くのは心の鏡の中の本当の自分。
 表していくのは現実。
 恐怖と戦うために、涼は道の向こうへと歩を進めた。

 ■END■
PCシチュエーションノベル(シングル) -
皆瀬七々海 クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年11月11日

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