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『日常会話 』
新野・サラ2142

 『ユリコさん、ユリコさん』
 あまり陽の差し込まない…と言うよりは必要以上に差し込まないようにしてある閉架書庫で小さな嗄れた声がした。
 「何ですか」
 『ユリコさん、わしゃ木の寝床が欲しいのぅ…この鉄だか何だかの寝床は、腰に響いてかなわんのじゃが』
 そんな嗄れ声に、リストへと視線を落としていたサラが目をあげ、困ったように笑う。
 「申し訳ないですけど、この大学の図書館は狭いので、場所を取る木製の本棚は導入出来ないんですのよ、《大魔法書》の写本さん」
 『そんな事言わずに、何とかならんもんかのぅ。年寄りは労るもんだと、教わらんかったのかね、ユリコさん』
 「そうは仰いましても、私の独断では可能な事と不可能な事とあるんですよ。…それに、私の名前はユリコではなくサラです」
 『……そうだったかいのぅ…。ところで、今日は妙に冷えるのぅ。なぁ、マサコさん』
 「………」
 どこまで本気か、呆けた写本の声がしんみりと静かな書庫内に響く。思わずサラは聞こえないようにそっと溜め息をついた。

 サラの仕事はこの大学の付属図書館の司書であり、学生相手のカウンター業務やその他の事務も勿論こなすが、専らは閉架書庫の奥の奥、貸出依頼もまず来ないような古く、且つ曰くありげな古書を宥める事にあった。年代を経たものが、偏屈であったり気難しかったり我儘であったり、それは人間の世界でも本の世界でも同じ事らしい。サラには古書の声を聞く能力があったから、そんな彼等の世話役にはうってつけなのだが、同僚仲間の内ではこっそりと、本相手に世間話を繰り広げる(だが普通の人間には古書の声は聞こえないので、見た目はサラが本を相手に一人で会話をしているように見える訳だ)摩訶不思議なサラを古書と一緒に閉架書庫に押し込めたのだと言う理由もまことしやかに通っていた。

 その日もサラは己以外には人気の無い、だが何やら其処此処でぼそぼそと話し声のする静かな書庫内で、新しいリスト作りに追われていた。日々新しく発行される本の数は減る事はなく、新刊や人気のある本に居場所を押し遣られた本達が、毎日のように新たにこの閉架書庫の奥へとやってくる。言わば、老人ホームに次々と新しい入居者がやってくるようなものだ。そうなると、サラの役どころは介護士か何かと言う事になるのか…。
 『ちょっと、サラちゃんや。聞いておくれでないかい、この《論語集注》の写しと来たら…』
 いつもの愚痴が始まったようだ。《論語集解》と《論語集注》は同じ論語の注釈書でありながら、内容的な問題なのか、何故か仲が悪い。事ある毎に口喧嘩をしては、その愚痴をサラに代わりばんこにぶちまけるのだが、サラに言わせればこの二冊の喧嘩は日々の退屈を凌ぐレクリエーションみたいなもので、その愚痴を聞かされれるサラ自身が、一番苦労していると言うものだ。
 「はいはい、《論語集解》さんも落ち着いてくださいね。余り興奮すると、また綴じ目に綻びが出ますよ?」
 『あんたはいつもそうやって《論語集注》の肩を持つんじゃな。あー、分かった分かった』
 『何を僻んでおるのじゃ、《論語集解》のきゃつは。それだからサラに愛想を尽かされるのじゃろうて』
 『何を言うのだ、この古本めが!御前なんぞ、紙魚にも食われんような極悪素材の分際で!』
 『何だと、貴様こそ、その黄ばんだ身体では食った紙魚が腹を壊すのが関の山じゃろうて!』
 「……あああ、お二方とも止めてくださいー…興奮すると、また綻びが……」
 喧々囂々の本の間に挟まって、おろおろしつつもサラはまたひとつ溜め息を零した。


 今日のサラは、カウンターでの業務である。開架式にて貸出申し込みに訪れる学生の受付事務や購入希望の整理など、ここはここでやる事が沢山あって忙しい。ただ、古書達の愚痴や説教を聞かないで済むだけ、静かと言えば静かであろう。(学生達のひそひそ声などはするが)
 古書と話をする事自体はとても楽しい。サラの今までの人生では知り得なかった深い知己や経験などを聞く事ができ、とても勉強になる。その反面、人生の先輩たる年配の方々が、とかく若者に対しては辛口評価になるのと同じように、古書にとっても若輩者のサラにはツッコミどころが満載らしい。だから時々、こうして表に出て来て息抜きをするのだが、ここに座っていれば座っていたで、サラの日常的な愚痴がぽろぽろと溢れ出てくるのであった。
 『…あ、この本、また染みが増えてるわ』
 人気のある本であればある程、貸し出される比率も高くなり、当然多くの人手を渡る事から、汚れも多くなっていく。サラからすれば、少し気を配れば防げるような汚ればかりで、どうしてこう学生達は本の扱いが粗雑なんだろう、と首を捻る。
 『これ、ソースか何かの染みよね。忙しいのは分かるけど、でも食事と読書を一緒にしてはいけないわ。食事に対しても本に対しても失礼だもの。…こっちはコップか何かの底の痕ね。だから、本は鍋敷きでもコースターでもないのよ、まったく…』
 学生なのだから、皆、良く読書をするし勉強もする、そう言う点ではこの図書館の本達は、活躍する場があって本望なのだろう。だが、その反面、本は唯の消耗品だと思っているような学生がいる事も事実で、そんな学生達の本の扱い方には呆れるばかりだ。本にも魂があり、想いと言うものがある。それを分かっていない学生が多く、サラの日々の悩みの種でもあった。

 思わず零れたサラの溜め息は、そのまま目の前を行き交う女子学生へと向けられる。
 この大学は、総合大学であるが故、学生数も多く、そして男女比もほぼ五対五である。最新流行のファッションに身を包んだ女子学生達を、サラはどこか羨ましげな視線で見送る。
 『…いいわよね、皆自由に好きなお洒落が出来て…どうして日本の女性服は、あんなにサイズが小さいのかしらね……』
 サラは、身長が百八十センチを越える。往年に比べて最近の若者は、体格が軒並み発達しているとは言え、男子学生ですら、サラを越える身長の持ち主は滅多にいない。女性なら尚更だ。サラは決して太っている訳ではない、寧ろ均整の取れた素晴らしいプロポーションの持ち主ではあるが、その長身故に各パーツも自然と大きくなってしまい、結果、日本のブランドではサラの身体に合う服は滅多に無いのだ。
 『頼めば取り寄せてくれるし、今はネット通販とか便利にはなってるけど、でも私も一ウィンドショッピングとかしてみたいわ。気侭に覗いて試着して…ってしてみたんだけど、試着出来る服がないんですもの…』
 「それに、どうして同じデザインでも、サイズが大きいと可愛くみえないのかしらね、服も靴も」
 突然サラが声に出してぼやいたものだから、偶然傍を通り掛かった学生がびくっとして身体を竦ませた。ついうっかり、独り言を口に出して呟いてしまったのだ。不審げな目でサラを眺める学生の視線には気付かず、サラはまたひとつ溜め息を零した。
 「お願いします」
 一人の学生が、サラの前に立つと一冊の本とID図書カードを差し出す。貸出手続きの依頼らしい。サラはにっこりと笑みを浮べるとその本とカードを受け取り、バーコードで貸出の手続きを取る。
 「はい、どうぞ。最新刊ですので、通常と違い返却期限は三日になります。お気をつけくださいね」
 「はい」
 そう素直に返事をしたその学生が、受け取った本を無造作に鞄の中に詰め込む。ハードカバーとは言え、本の表紙が僅かに撓んだように見えた。
 「……あ」
 「? …何か?」
 サラの呟きに学生が気付いて振り返る。いいえ、何でも、と笑顔で首を振り、学生は首を傾げつつもその場を後にした。
 『…その本は…それは、あなたの私物ではないのよ……もっと丁寧に扱ってあげてくださいよ…どうしてこう、ここの学生達は本の扱い方を弁えていないのかしらね……!?』
 サラの愚痴は次第に積もり積もって怒りへと転じていくようだ。ふつふつと沸き上がるマグマの如き怒りが、普段は温厚で穏やかなサラの性格に、何かのスイッチを入れる寸前、サラは我に返った。
 『…いけない、いけない……サラ、あなたは淑女なのよ、もっと落ち着かないといけないわ…スマイル、スマーイル…』
 ふるふると首を左右に振り、自分自身に言い聞かせるようにサラはにっこりと笑顔を作ってみせる。その様子を学生達が遠巻きに見ている事には、全く気付かずに。


 カウンター業務を終えてサラが再び閉架書庫の奥の奥へと戻って来た。古書達の相手にウンザリしていた筈が、ここに戻って来れば来たで、ほっとしてしまう辺りにも僅かに苦笑が浮かぶ。
 「やっぱり私は、一般社会に適合しないたちなのかしらね…」
 思わずそんな、大袈裟な愚痴をこぼしたのを、古書達は聞いているのかいないのか、珍しく誰もそのぼやきには反応せずに、閉架書庫はただしーんと静まり返っていた。
 『ナオコさん、ナオコさんや』
 「何か御用ですか?《大魔法書》の写本さん」
 正しい名前で呼ばれない事も既に諦めたのか、サラは古本へと笑顔を向ける。
 『わしゃ、木の寝床が欲しいんじゃがのぅ…』
 「申し訳ないですけど、ここのスペースには限度がありますから、場所を取る木製の本棚は設置出来ないんですよ」
 『そんな事言わずに、のぅ。年寄りは労るものじゃろうて』
 同じ会話の繰り返しに、根気よく厭きもせず、サラは笑って言葉を返す。
 「労ってますわよ?《大魔法書》さんとお話するのはとても楽しいですもの。勉強にもなりますしね」
 では、仕事がありますから。そう言ってサラはその場から立ち去ろうとする。その背中に、嗄れた声が響いた。

 『わしの方こそ、いつも楽しませてもらっておるよ。サラさん』
PCシチュエーションノベル(シングル) -
碧川桜 クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年11月10日

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