▼作品詳細検索▼  →クリエイター検索


『黄昏絵画展 』
セレスティ・カーニンガム1883

 紅の街に、秋の空気が冷たく下りる。石畳を軽い音で舞い踊り過ぎる落ち葉の歌声は、人々の賑やかな雑踏にかき消され。
 ――古き時代の趣の残る、西洋の街の大通り。
「総帥、もうそろそろお時間です。次ぎの列車に乗り遅れますと――、」
 控えめな切り出しで、しかしはっきりと告げた隣の青年秘書の言葉に、時計台を仰ぎ見る一人の青年の姿があった。
 セレスティ・カーニンガム。
 長い銀髪は暮れ始めた太陽の朱色にきららに輝き、海色の瞳も、今だけはその青の彩度を潜めている。代わりに瞳は、鐘の鳴り響く世界をぐるりと映し出し、ゆったりとした時間の流れを優しく見つめているようだった。
「――ええ、」
 鐘の音は五回。列車の時刻は、確か今から三十分後だっただろうか。セレスの事を心配するあまり、半ば強引についてきた秘書の言葉にゆるりと頷くと、セレスはまた一度、また一度、と石畳に銀細工の杖を突いた。その度に、その度に、と、少しずつ夜へと沈む太陽の光が杖へと淡い光を灯しては消えて行く。
 個人市場も、もうそろそろ終わりに差し掛かっているようであった。
 簡単に今日一日を反芻しながら、セレスは人々の営みへと、暖かな視線を転じて行く。
「やはり、たまには良いものですね」
 仕事、という束縛を逃れた、休暇を兼ねた西洋旅行。最初は隣の秘書に、無理やり押し出されたような感覚も少なからずあったのだが、いざ旅を始めてみれば、やはりそれは悪いものではない。何かと心配性の秘書が少しばかり過保護なのが気になったが、それはそれで、別の意味で悪くない事なのかも知れない。
 旅行は、セレスの希望によって電車やバスでの移動が中心となっていた。曰く、それも旅の楽しみの内の一つなのだと言う。
 秘書からしてみれば、そこがこの財閥総帥の変わっていると思われる所の一つでもあるのだが。
「楽しい時間は、過ぎるのが早いものです」
 直射日光はどうも苦手だと、宿泊していた別荘を出たのは三時を過ぎてからの話であった。一人でも心配ないと説明するセレスに、しかし目も足も悪い上司を一人で行かせるのは流石に気が引けたのか、同行していた秘書が半ば強引に引っ付いてきたが、それでも二人で美術館を何件か見て周り、地元の食を嗜んだ後、ふと足を踏み入れた大通りでばったりと個人市場の並びに出くわしたのだ。
 ――それからは、
 夕暮れ時、小さな芸術鑑賞の始まりであった。
 そうして、今日は又何度目になるのだろうか。
 とある中年の男の開く店の前で、ふとセレスがその足を止めた。


 セレスのやわらかな挨拶に、気前の良い挨拶を返して来た店の男は、中年くらいの威勢の良さそうな男であった。
 一言二言言葉を交わすと、セレスはそのまま、商品の方へとじっと視線を廻らせる。
 その先には、
 一枚の絵があった。
「……海、ですか」
 感じた事を、ぽつり、と口にする。
 そこにあるのは、蒼い海と白い砂浜の純粋な、一枚の素朴な絵画であった。埃の気のある額縁に入れられ、値段の付けられた。
 しかし、しきりに関心するセレスへと、
「総帥、もうお時間が――」
 秘書は小声で言葉を飛ばす。セレスが絵を見始めると長い事は、今までの経験上、良く知る所であった。
 だが、
「少しだけ、時間を下さい」
 青年が、セレスを気遣っているであろう事は、本人も良くわかってはいた。いくら気ままな??息抜き?≠ニは雖も、スケジュールに狂いがあれば宿泊先などの問題も出てきてしまうのだから。
 それでも、
「さぞ、蒼い海なのでしょうね」
 セレスの意識は、もはやその絵の中へと引きずり込まれていた。紅い空気のその先に、じっと、空よりも深く映える、海の蒼を見つめる。
 ――否、
 感じる事しか、できはしないが、
「画家は、どなたなのです?」
 感じさせるものがあまりにも強すぎるその絵に、じわり、と、絵の具の中の世界が、揺れ始めたような気がした。
 遠くの海の、波の音の、
「さぁ、知らないねぇ」
 そこに揺蕩う、千切れた想い、
 そうして、
「そこら中に、そんな絵ならごろごろしてるからね」
 その断片を掻き集めたかのような、深い蒼。
 そこにかけられた想いが深くなれば深くなるほど、その作品が人々の心を引き寄せるようになるであろう事は、セレスの良く知る所であった。
 ――そこに、作者の知名度などは関係ありませんからね。
 幼子達の難解な絵からも、しかし暖かさや、優しさが伝わって来るかのようにして。
「どうやって手に入れたのかも覚えてないような絵さ」
 大した事ないさ、と、軽く笑って付け加えた店の店主の返事に、セレスはそれもそうですね、と静かに返し、再び意識を絵へと投じた。
 数多くの、無名の作者達の絵を見てきた。どこから来たのかもわからない、入手の経路すら怪しい絵達が売りに出されているのを、今日は一通りじするりと眺めてきた。
 思わずに、足を止めた回数も数知れず。この絵に限らず、何度も何かを訴えかけてくる絵の意思に惹かれ、その回数だけ感じてきた数々の心がある。
 あるいは、もうこの世にはいないかも知れない人達の思いをも、遠い昔を思い出しているかのような気分で眺めてきていた。
 さながら、既視感でもあるかのように。
「暖かいんですよ、この絵は」
 風の香りすら変わるかのような錯覚が、それでも酷く、心地良い。広い靡きの揺り篭に、世界の水が、暖かく包み込まれてゆく。
 夕焼けであるはずの空は、久遠を思わせるほど、抜けるように青かった。
 そうして海の水鏡は、その青を蒼とする――広い鏡に映し出し、空の優しさを、人々の手に届け、よせてはかえしを繰り返す。
「悪い絵じゃあ、ないとは思うんだがな、」
 あまりにも熱心なセレスの姿に、店主も作業の手を止め、しみじみと呟いていた。
 しかし、
 しかしこの蒼がどれほど美しくコバルトブルーを描いていたとしても、殆どの者は見向きもしようとはしないのだ。
「これがフェルメールの絵だったら、話は別だろうけどよ」
 ふと、有名な画家の名前が口をついて出た。
 無名の画家に、誰も興味を示そうとはしない。たとえこの絵画が無料で売られていたとしても、邪魔になるからと、引き取ろうとする者は殆どいないであろう。
 ――これがフェルメールの絵だったなれば。
 あのコバルトブルーの有名な、フェルメールの絵だったとするなれば、話は全く変わってくるのであろうが。
「ま、要するに知名度の問題、か」
 馬鹿らしい、と言わんばかりに自嘲気味に呟くと、店主は再び片付けの作業へと戻っていった。黙々と荷物の片付けられる音の響き渡る中、陽光はゆっくりと、地平線へと沈み込んでゆく。
 通りのざわめきが、しばしの沈黙を埋めすぎて行く。仕事帰りの大人達の早足に、賑わいが響きを増していった。
 やがて、
 じっくりと、その絵を見つめたその後で、
「フェルメール、ですか」
 一息置いて、セレスがやおら言葉を紡いだ。
 フェルメール。
 セレスもその名前は、良く知っている。まだまだ謎の多い画家ではあったが、透明感の溢れる、青と黄色の特徴的な絵を数多く残した、十七世紀の画家の内の一人であった。
 ――確かに、
 確かにあの画家の蒼も、想いに溢れる蒼ではあった。かつてオランダでその絵を見た時には、人と違う世界を??見て?≠「るセレスにも、その素晴らしさがじっくりと伝わってきたのだから。
 しかし、
 それでも、この絵は――、
「総帥、」
「何ですか」
 ふと、セレスは突然の控えめな声音に、隣の方を振り返っていた。そこにあるのは、セレスと同じくして立ち止まっていた、あの青年秘書の小さな驚きのような感情であった。
 秘書はじっと、セレスを見つめたそのままで、
「ヨハネス・フェルメールの蒼よりも、」
「ええ」
「総帥、もしかしたら、この蒼は、」
 もしかしたら、もっと美しい蒼なのかも知れません――。
 セレスの頷くその姿に、不意に心だけが、自由の方へと捕われていた。呟いたその矢先、はっとしたかのように口を噤む。
 フェルメールの絵よりも?
 自分への疑問に、もう一度、絵の方へと視線を巡らせる。
 セレスの感じているのと同じ、キャンバスの上の海の世界。夜へと傾き始めた世界の光の中でも、一際の蒼さを輝かせるかのような、コバルトブルー。
 ……海の中へと、導かれるかのような。
 吸い込まれそうな魅力の中に、秘書はふと、名声や知名度のみで芸術を見る危うさを、改めて感じてしまっていた。
 同時に、
「――それほど、画家はこの絵を大切に描いたのでしょうね」
 セレスがなぜ、芸術への投資を惜しまないのか、その理由が少しだけわかったような気がした。
 はっきりと言ってその投資先の中には、秘書からしてみれば無謀とも言えるようなものも幾つかあったのだ。この不景気に総帥は――と、小さな憤りを感じた事がないわけでもない。
 しかし、
「恋人との思い出にしろ、家族との思い出にしろ――この時は本当に幸せだったのだと、そんな想いが伝わって来るんです」
 セレスは、
 ――この人は、本当に芸術を愛していらっしゃる。
 名声も地位も、時代も性別も、全てを超えて、ただ??芸術?≠ニいうものを、そこに込められた純粋なる??想い?≠ニいうものを、心から嗜んでいる。
 音楽にしろ、絵画にしろ。
 いつでも、そうだ。
「素直な、絵だと思います」
「へぇ、素直、ねぇ」
 セレスの率直な感想に、そんな意見は意外だと言わんばかりに振り返ったのは店主の方であった。
「どこを指して素直と?」
「この海の色が、あまりにも純粋なものですから」
 混じりけのない想いが、時を超えて伝わって来るかのような錯覚に、ふと微笑みすら零れてしまう。
「想いは、歳をとらないものですよ」
「……まぁ、確かにそうかもな」
 風にするりと、セレスの銀糸が流される。黄昏時の夕焼を背に、セレスは空の方を振り返った。
 青空の隙間が、たなびく雲の隙間から欠片ほど顔を覗かせている。
 ……確かに、
 確かに、巨匠の絵画も素晴らしい。モネやティントレット、レオナルド・ダ・ビンチにミケランジェロ、有名な芸術家達の絵画や作品達は、確かに素晴らしいものなのだ。
 しかし、
 その感情は、
 ――普通の人の弾くピアノを聴く時の感情にも、似ているのかも知れませんね。
 どんなに認められなくとも、そこには必ず何かの素晴らしさがある。それが何とは言えないが、間違いなく、巨匠にはない素晴らしさもそこにはある筈なのだから。


「……知っていますか?」
「何を、ですか?」
 すっかり暗くなった空の下、広い橋の上をゆるりと歩きながら、ふとセレスは隣の秘書へと話しを振っていた。
 あの後、何とか電車に乗り込む事のできた二人は、無事に次ぎの街へと到着するなり、水辺の世界をゆるりと散歩していた。
 セレスは、真っ直ぐ歩いていた所を、やおら橋の柵の方へと進路を変更する。慌てて着いて来た秘書に、星を映して流れる川を見つめながら、
「黄昏とは元々、あなたは誰? という意味だったそうですよ」
「暗いので、誰かわからないからそう聞いた――という所から、でしたっけ?」
「ええ、その通りです」
 緩やかな夜風に、水の香りがうっすらと漂う。静かな世界に、遠くの教会の鐘の音が甲高く響き渡っているのが流れ届いていた。
 紅色の夕暮れは夜に沈み、闇の帳が、やがて静かになるであろう街を包み込んでいる。
 黄昏の時間は、束の間の時。
 夜と昼との、短い境界線。
 紅葉の色に、秋色に染まったあの街を思い返し、ふ、とセレスが微笑を浮かべる。
「わからないからこそ、美しいものもあります」
 黄昏時、あの絵の美しさに、ふ、と心を惹かれたその瞬間。
 ――その画家が誰かは、多分この先、永遠の謎ではあるのだろうが。
「悪くは、ないかな、と」
 独り言のように、呟いた。
 黄昏時。
 振り返る人々が一番心を躍らせる時は、相手が誰かを知った瞬間によりも、相手が誰かを知るまでの瞬間にあるのだろうから。
 

Finis



☆ Dalla scrivente  ☆ ゜。。°† ゜。。°☆ ゜。。°† ゜。。°☆

 まず初めに、お疲れ様でございました。
 こんばんは、今宵はいかがお過ごしになっていますでしょうか。この度お話を書かせていただきました、海月でございます。
 今回はご指名の方、本当にありがとうございました。
 おまかせ、とありましたので、再度旅行中のネタで書かせて頂きました。黄昏……そういえば随分昔に古典の先生が〜とかちらりと思ってしまいました(笑)授業、寝てはいないのですが、半分くらい意識が飛んでる事が多いんですよね(汗)
 無名の画家の絵にも良いものは沢山あると思います。あまり出会う機会もありませんけれども、機会があるとはっとさせられる事がありまして……。
 では、お楽しみいただけましたら幸いでございます。乱文となってしまいましたが、今回はこの辺で失礼致します。
 またどこかでお会いできます事を祈りつつ。

02 novembre 2003
Lina Umizuki
PCシチュエーションノベル(シングル) -
海月 里奈 クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年11月04日

投票はログイン後にできます。

ログインはこちら












©Frontier Works Inc. All Rights Reserved.