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『fist of the arms 』
ゼファー・タウィル2137

 触らぬ神に祟りなし、とは良く言ったもんだ。

 とは言え、触らぬようにわざわざ面倒臭いまでに遠回りして歩いていたって、ヤツらに遭遇しちまう時はありえる訳で。
 つまりは今、オレがヤツらにボコにされてんのは運が悪かった訳でも俺の日頃の行いが良くなかった訳でもなく、俺自身がただ単にたまたまそう言う運命の星の元にあった、と言うだけの事なのだ。

 …なーんて、下らん事を考えて余裕かましてていいんだろうか、オレ。
 ヤツらは学校でも札つきのワル。昔の所謂不良って輩は、弱い者苛めはしなかったと聞くが、ヤツらにそんな男気などある訳がなく、専ら弱い者苛めか、強い者を多人数や不意打ちでボコにすると言う、卑怯な手口が得意のヤツらだ。そしてこのオレは、ヤツらのターゲットとしては確実に前者に当て嵌まるのだろう…。
 三度の飯より格闘技が好きなオレだが、イコール喧嘩が強いのとは訳が違う。オレにあるのは格闘技の知識だけで、技の種類や掛け方を知っていたとしても、実際にその通りに身体が動く訳じゃない。本当の格闘家と言うのは、身体に技を芯から覚え込ませ、きっと頭で考える前に反応してしまうような奴らの事を言うんだ。そしてその為には、実際に攻撃を受け、防御する方法と攻撃に転ずるタイミングを覚え、そしてあらゆる反射的な反応を覚えて…でも、そのレベルにまで行き着くまでに、こんな痛い思いを幾度となくする必要があるのなら、オレは一流の格闘家になれなくてもいいや、なんて軟弱な事を思ってしまった。

 殴られる、最初にやってくるのは痛みじゃなくて衝撃だ。そしてその後で痛みがやってくる。でも今は、絶え間なく打たれ続けている所為で、常に衝撃が身体中を襲い、その分の痛みが全部相乗効果で波動のようにやってくるから、それこそ身体中がバラバラになるような痛みがオレの全てに蔓延していた。視界が赤く斑に染まっているのは、オレの額から流れた血だろうか。ふと見上げた空の夕焼けが、いつも以上に赤く、毒々しく見えて、こんな緊急時に何をセンチメンタルな事を思ってんだろ、とオレは思わず笑いたくなってしまう。
 「何だ、テメェ、何を笑ってやがんだよ!」
 実際にオレは笑っていたらしい、ケッと唾を吐いたヤツの靴の爪先が、オレの脇腹にめり込んだ。息が詰まって呼吸が出来ず、オレの目の前が酸素不足の為、真っ赤になった。ヒュ…、と細いストローで息を吸うみたいな、凄く効率の悪い呼吸の所為で、オレの顔が軽いチアノーゼを起こす。尤も、それをオレは自分の目で確かめた訳じゃなく、こめかみや項の血管がどくどくと忙しく血を流そうとするのを感じたから、そうじゃないかと思っただけだが。

 ヤツらの暴力は止む事がない。程度を知らないからだ。ネコや何かと一緒で、ヤツらの興味が尽きるまで、或いはオレが動かなくなるまで、拳も蹴りも止む事はない。動かなくなるのが、ただ意識を失うだけならまだいい。…下手をすると、そのままもう二度と目覚める事はできないのではないか、そんな恐怖が今更ながらオレの背筋を凍らせた、その時。

 そいつが、通りの向こうからやって来た。

 ウィンドブレーカーを着て、そのフードを目深にすっぽりと被り、ポリスのサングラスを掛けて軽いフットワークで走って来たその大柄な男は、いかにもトレーニング中のスポーツマンだと言う感じだった。ここに来るまでにどれだけの距離を走って来たのかは分からないが、その垣間見える普通以上に白い肌に汗を掻いて息を弾ましてはいるものの、疲弊した様子は全くなく、寧ろそれまでの長距離ランニングはただのウォーミングアップであった、と言わんばかりのエネルギーの漲りようだった。
 「………」
 そいつが、オレとヤツらの方を見た。今までに何人かの人がこの光景を目撃していたけど、皆そそくさと視線を逸らして足早にその場を去って行った。助けてくれたらなぁ、とは思ったが、でも彼等の事を責める気にはならない。誰だって、自分の身は可愛いだろう。だから、この外人が、このまま見て見ぬふりでランニングを続けても、オレはそんなもんだろう、と思っただけだろう。そいつが本当のスポーツマンなら、商売道具でもあるその肉体を自ら傷付けるような危険な事には首を突っ込まないだろう。そう思ったからだが。

 そいつは、通りの向こうから走って来た、そのテンポのままで、オレ達の方へとやってくる。それに気付いたヤツらの一人が、怒鳴りつけてそいつへと拳を飛ばす。右肩を引いて捻った身体の反動を利用した、体重を乗せた重みのあるパンチ。無駄に格闘技の知識と経験のある、危険な拳だった。…筈だった。
 バキ!とかグシャ!とかドガ!とか、そんな混じり合った音がした後、崩れ落ちたのは、ワルの方だった。見ると外人が、片足を振り上げた姿勢のままで静止している。ワルが向かってくる勢いと、自分が振り上げた蹴りの勢い、それらのぶつかり合う効果でワルの顔面を靴の裏で跳ね返したのだ。片足を上げたままでも揺るぎようがない下半身、それはこの男が、容易ではない鍛え方でまさに鋼と化した肉体を持っている事を意味していた。外人は、ゆっくりとした仕種で振り上げた足を下に降ろすと、徐にサングラスを外してウィンドブレーカーのポケットにしまう。赤い瞳が、ツィと細められた。
 次のワルが手にしていた特殊警棒を振り翳して外人へと向かって行く。その振り下ろされた凶器を、そいつは紙一重の所で避ける。それは間一髪だった訳でなく、必要最小限の動きで攻撃を完全に見切って避けたに過ぎない。実戦はダメでも、見る目だけはオレはあるつもりだ。伊達にありとあらゆる格闘技の試合を見ちゃいないっつーの。勢い余って前のめりにつんのめるヤツの下腹に、これまた重そうなボディブローを一発。倒れ込むヤツの延髄に曲げた肘を突き下ろしてトドメを刺した。そのワルが崩れ落ちる様を見てから振り返る、その身体の捻りを利用して、鋭い右の肘打ちが次のワルのこめかみを襲う。そして左ストレート。外人の拳がワルの頬骨にヒットした時、『いってぇ』なんてどこか呑気な声が聞こえたような気がした。

 それら全てが、多分凄く短い時間の間に行われたようだった。何故なら、オレの身体の痛みが時間を置く事で熱を帯びるようなものに変わる前に、オレの周囲はすっかり静かになっていたからだ。それでも、オレの脳裏には、その外人の美しいとも言える身体の動きが、まるでスローモーションのように鮮明に焼きついていた。
 「………」
 大丈夫か、と言うような顔で外人は倒れ込んだままだった俺の身体を抱き起こしてくれた。軋む痛みで思わず呻いて顔を顰めると、やれやれ、と言った感じで緩く頭を左右に降る。ウィンドブレーカーのポケットから、小さいミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、キャップを開けたそれをオレの手に持たせてくれた。
 「さ、さんきゅ……あのさ、名前…聞いてもいいかな?」
 一口水を飲んで人心地ついたオレは、その外人の顔を見上げた。するとそいつは、困ったような顔をして、やおら外人めいて肩を竦める。分からない、とでも言うように、首を左右に振る。両手の平をオレのほうに向け、いいからいいからとオレを宥めるような仕種をした。気にすんな、礼など要らない。そんな感じだった。

 …あれ?さっき、『いってぇ』って言ってたのは気のせいだっけ?その後で本当に痛そうにワルを殴った手を振っていたような気もすんだけど。
 それ以前に…この外人、どこかで見た事ある気がする。抜けるような白い肌、そして白い顎髭。サングラスの下の、赤い瞳。しなやかだが重量感のある動き、あの左ストレート。……どこかで。

 そんな物思いに耽るオレの顔を外人は覗き込み、早急に何とかしなければならないような怪我を追っている訳ではない事を確認すると、その口端に笑みを浮べた。立ち上がり、さっきワルどもを伸した時にもしていたような、左右の足を交互に浅く踏み締める軽いフットワークで息衝く武器とも言えるその身体を解す。再びサングラスを掛けると、オレに片手を上げてそのまま走っていった。それは、ランニングの途中にちょっと寄っただけ、とでも言うような気軽さだった。

 そろそろ夜になろうと言う時刻、赤い夕日も既に半分以上隠れてしまって、周囲は薄闇に包まれ始めている。息絶えたようにぴくりとも動かないワルどもの生きた屍の中でオレは、いつまでも走り去って行くその外人の背中を見詰め続けていた。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
碧川桜 クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年10月27日

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