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『心的外傷とツィガーヌ 』
香坂・蓮1532)&ラスイル・ライトウェイ(2070)

「……分かった、引き受ける」
 香坂・連(こうさか・れん)は暫く逡巡した後、声を押し殺してそう答え、受話器を置いた。
 彼の表情には内心の苦悩の程がはっきりと現れている。
──引き受けた以上、やるしか無いが……。
 暫く受話器に掛けたままの左手をじっと見詰めた後、すっと顔を上げて蓮はヴァイオリンを仕舞いに戻った。
「止めて良いとは云っていませんよ」
 不気味なまでに穏やかに掛けられた声にも、蓮は完全に意識を払う余裕がなかった。
「……急用だ、……練習どころじゃない」
「急用と云って勝手にレッスンを止める弟子とは大したものだ」
「……本当に、それどころじゃないんだ」 
 ──それに、俺が頼んで付けて貰っているレッスンでも無い、と蓮は「困った子だ」という風に、一見は人の好さそうな、──但し、内心では一体何を企んでいるか知れたものではない師、ラスイル・ライトウェイ(らすいる・らいとうぇい)へ向けて心の中で付け加えた。
「……、」
 蓮がヴァイオリンケースの蓋を閉め、振り返ると目の前にラスイルの笑顔が在った。驚く、面喰らう、……と云った事の前に、蓮は反射的に身を竦めて目を閉じた。
 ラスイルが吹き出す。何をそんなに怯えているのだか、と云った風だが、先程無言の内に「あくまで黙っているとは痛い目を見たいようですね」と云っていたのは誰だろう?
 そもそも、基本的に物事に動じない蓮にそんな恐怖のトラウマを刷り込んだのは一体誰だ。
「……仕事だ、急な。今晩中に決行しなければ不可ない」
 観念して、蓮は先程の電話の内容を話し出した。

「──……その組織のローカルマシンゾーンから、麻薬、拳銃の密売ルートのデータを盗み出して欲しいと云うことだ。期限は明日の午前中。……やるなら、今夜しか無い」
「一体誰から?」
「分からない。正体は伏せていた。……別に、珍しい事じゃない」
「……選りに選って今日、そんな面倒を引き受けるなんて」
 ラスイルが明るく微笑む。その瞬間、蓮はさっ、と大幅に一歩を退いた。
「分かっている。……ただ、」
 そう広くは無い室内で、それ以上逃げ場の無い蓮は云い淀んだ。
 ──報酬が、非常に高額だったのである。

 「便利屋」としての蓮は、犬の散歩のような雑用から報酬によってはそうした、明らかに法に触れまくった危険な仕事までこなす。今回の一件も、その内容自体に怯む蓮では無い。ただ、日が悪かった。ラスイルが云っているのもその事である。「他人様のコンピュータからデータを盗み出すなんて」と道徳的な説教を出来る程、このヴァイオリンの師も人徳者では無い。
 明日は、久々に本職たるヴァイオリンの演奏会本番を控えていたのだ。その前夜と云えば、本来なら暗譜やポジション、ボウイング等の最終確認をしなければならない時である。
 
 蓮のヴァイオリンは、手放しでは感謝出来ない誰かのお陰で技術的には超絶的なレベルに達している。その代わり、情感的な演奏、歌心と云った点で評価はゼロだ。──音楽的な感性が無い訳ではないのに、何故か、人前で情感的な演奏を出来た試しが無い。本人が意識を向けさえしていない、彼の生い立ちが原因である。
 そうした訳で、蓮のヴァイオリンは世間的に認知されていない。演奏の依頼が入る事など、滅多に無かった。明日のコンサートも元々は彼に来た仕事では無く、代弾きだ。プログラムを印刷した後で、出演者の一人が故障したのだ。
 不味い事に、彼の予定曲は難曲でそうそう簡単に代役を立てられるものでは無かった。
 蓮に話を回して来たのは、その曲のピアノ伴奏者で音大時代の同級生だ。あまり、仲は良く無い。本当は蓮を紹介したくは無かったようだが、ギリギリになって連絡を取ってきた所を見ると本番一週間前にラヴェルの「ツィガーヌ」を弾けと云われて首を縦に振る怖い物知らずが他には見つからなかったらしい。当然である。プロの演奏家でさえ最低1ヶ月は呉れ、と云う曲だ。仕方なく、と云った風に蓮に話が来た。
 弾けるか、あと一週間だが、と莫迦にしたような電話口の声に、蓮は「ツィガーヌなら一度譜読みはした。大丈夫だ、暗譜でも構わない」と軽く請け合った。それが余計に癪だったらしい彼は回線を切る間際、「そうか、それは心強いな。……じゃあよろしく頼むぞ、M-I(自動楽器[MechanicalInstulment])」と厭味っぽく吐き捨てたが、蓮の知った事ではない。
 クラシックコンサートの出演料などその為に費やした時間に比べればアルバイトにもならない金額だ。が、蓮も本当の所はヴァイオリニストなのである。本職ならば、報酬に関わらず引き受ける。
 然し、今日になって入った突発的な仕事、危険度はが並で無く演奏会当日が期限であっても、報酬の提示金額を聞けば、──つい、断れなかった。
 
 ……大体、と蓮は無言でラスイルに訴えた。
──18年間も行方をくらまして置いて、今になって現れたと思ったら「帰れ」と云うのも聞かずに居候を決め込んでいるのは誰だ、高額の報酬に惹かれて無理なスケジュールの仕事を請け負ったって、少なくともお前に文句を云われる筋合いは無い。
 ……と、そんな蓮の内心の声が届いたのかどうかは分からないが、ラスイルは暫く考え込むような仕種をした後、気楽な声で「なら私も手伝いましょう」と申し出た。
「……え、」
「丁度、タダで居候するのも申し訳ないと思っていた所ですし」
 嘘吐け、よくもしゃあしゃあと──とは云わず(賢明な事だ)、蓮はラスイルを見た。
「出来るのか」
「あなたが今そうやって役立てている技術を教えたのは誰ですか?」
 つまり、ピッキング、配線操作、証拠隠滅対策その他諸々。──他の誰でも無い、聖人のような微笑を見せていて、本性は極悪極まりないラスイル本人である。因みに、そうした事を蓮がヴァイオリンと共に彼から伝授されたのはほんの6歳の時の事だ。
「──なら、」
 頼む。二人は準備を始め、深夜になってから蓮のマンションを出た。

 雑居ビルの中は静まり返っていた。
 その内の一室、表向き、「(有)──企画」と看板を掲げた得体の知れない事務所が、依頼を受けた蓮の目的である。
 蓮は先ずビル全体の防犯装置をチェックし、それ自体は甘い事が分かると有限会社──企画の防犯装置を落とした。
 蓮の指の腹には、液状絆創膏が塗ってある。指紋対策だ。慣れた手付きでロックを解除してカバーを開け、間違い無く配線を切って行く蓮の手許をラスイルは場にそぐわない笑顔で眺めていた。
「お手並み拝見と云う事で」
──勝手にしろ。
 蓮は最後にもう一度注意深く点検を行い、ようやく事務所の鍵孔のピッキングに取りかかった。気抜けする程に他愛無く、かちゃり、と音がした。
「失礼。……これに懲りたらピッキング対策のロックに変える事だ」
 勿論、そうなっても開ける自信があるから云うのである。
 暗闇の中で、蓮は先ず足の踏み場も無い程に積み上げられた段ボールに躓いた。衝撃で溢れた中身を元に戻しながら、彼の舌打ちする音が響く。中身は大量のハンドバッグ、──偽造ブランド品だ。
「間違いは無いらしいな。この事務所自体が犯罪の格納庫だ」
 蓮はそう吐き捨てて、奥のデスクに据えてあるコンピュータへ歩み寄った。
 システムを起動させ、中のファイルをチェックする。手先は器用だがハッキングとなるとそう慣れている訳でも無いので、あまりに難解ならばハードディスクごと盗み出すと云う荒技に出る積もりだ。だが表面上目立った痕跡が残らない方が望ましいので、一通り中身を漁っていた時である。
「……、」
 それまで協力する、と云う当初の言葉を忘れたように蓮の作業を傍観していたラスイルが視線をドアの向こうへ向けた。
「蓮」
「話なら後に──、」
 そこまで云って、蓮も異常に気付いた。
 人の気配だ。それも一人二人では無く、殺気に満ちている。
 防犯装置は死んだ筈だ。一体何故──防犯カメラか、それともコンピュータのプログラムか。
 ともかく、非常に不味い状況であるには違い無い。
「……、」
 蓮が息を呑むと同時にドアが弾けるように開き、──恐らくは懐中電灯か何かだったのだろうが──その時の彼には閃光のように見えた光が視界に広がった。
 ──目が、焼ける。
 蓮は反射的に片手で目を覆った。──直後、その光がラスイルの広い背中に遮られるまで。
「ラス、……、」
 ──どうすれば、という焦りが、蓮をついラスの背にさえ縋りたい気持ちでそう呟かせた。
 今まで、失敗の経験が無かった。他愛無い雑用の小さなミスや、過去に一度仕出かした演奏会でのヴァイオリンの失敗は抜きにして、こうした状況下に於いて。
 命に関わる失敗だった。──殺されるかも知れない、と云う恐怖よりも先に、何故か蓮の左手が震え出した。かたかたかたかた、と指先はデスクの天板で音を立てている。力を掛けた右手で強く押さえ込んでも、どうしてもその振動が止まらなかった。
 静かにしろ、と蓮はこの状況への打開策よりも左手の震えを収める方法ばかりを必死で思案していた。そんな場合じゃない、と云うことは非常に良く分かっている。だが、──何故だろう、そんな時に限ってどうでも良いような事ばかりにこだわってしまうのは。
 室内に傾れ込んで来た人数はざっと6、7人、それぞれ特殊警棒や刃物や、……恐らく何人かは拳銃を携えていた。
「逃げなさい」
「ラス!」
 不意に、ラスイルは振り返り態に蓮の左手を掴み上げた。
「っ……、」
 何と云う莫迦力だ。蓮の華奢な手首の骨が締め上げられる音さえ聴こえそうだ。眉が苦痛で歪む。
「……、」
「手を駄目にしたいのですか?」
 逆光で表情さえ良く見えないのに、ラスイルの青い瞳だけははっきりと認めることが出来た。傍目には鬼火のように見える、冷たい、零下の温度を持った静謐な炎の色が。
 蓮は背筋が竦んだように硬直するのと、血流が止まった左手が一瞬で凍るように冷たくなった事に意識を奪われていた。──感覚がぼんやりする。
「それなら、止めませんが。私にはどうでも良い事ですし」
「──……厭だ、」
 ようやく、蓮は掠れた声でそれだけの言葉を絞り出した。
「……、」
 莞爾、とラスイルが微笑んだ。蓮の手を突き放す。同時に左手首が激痛を訴え、蓮は一気に感覚を取り戻した。
「逃げなさい、」
 良いですね、と逆らうことを許さないラスイルの声が再度告げた。蓮は左手をもう一方の手で押さえたまま、熱に浮かされたように一度頷いた。
 ラスイルが前へと踏み出した。唯一の入口にして出口を塞いでいた男達の中へ飛び込み、手近な一人(御愁傷様です)の腹に軽快な、ステップのような一蹴を見舞って──多分、軽く見えたのはあくまで傍目に、だけだったようである──彼の手から特殊警棒を奪い、纏わり付いて来る手を薙ぎ払って行く。
「蓮!」
──そうだ、早く……、
 蓮はようやく駆け出した。足許がふらふらとよろめく理由も分からないし、どうしようもない。だが、それに構う暇は無かった。ただ、一点だけ発生した隙間を擦り抜け、やたらと音の反響する雑居ビルの階段を掛け降りた。
 背後には男の怒号と衝撃音が聴こえている。ラスイルの声は聴こえない。
 オーケストラを背後にした時と似ていた。周囲がざわめきだけで覆われた世界の中を、ただ前へ目指して駆け抜ける感じ。
 雑居ビルを出てからも、蓮は怪訝そうな視線を向け、大袈裟に身を引いて道を空ける通行人や怒号のように交差するクラクションに構わず、眩しいネオンの中をひたすら走り続けた。

 息を切らして自宅マンションの玄関へ到着し、叩き付けるように閉じたドアに凭れ掛かった時には恐らく、蓮の鼓動はPrestの速度を越していた。喉が苦痛に絡まって吐きそうだった。
 ようやく息を整えると、蓮は暗い室内に照明も付けず、膝が崩れたのに任せてそのまま床に寝転がった。
 不思議な事に、掴まれていた時はあれ程痛んだ腕には何の違和感も残っていなかった。
「……手加減しようと思えば、出来るんじゃないか」
 ──一言だけ、ラスイルへ文句を付けると同時に蓮の意識は遠のいた。

 そのまま寝入ってしまったらしい蓮が目を覚ますと、時計の針は七時を少し回った所だった。
──朝か……、
 こうして一夜明けてみると、全てが夢のようだった。何の違和感も無い左手の感覚に現実感が皆無だ。──昨日の事も、つい先日、ラスイルが18年振りに現れた事さえ。
 ……今日は、コンサートの本番だ。……ツィガーヌを弾かなければ、……そうだ、入りは朝の十時……、先ずリハーサルとピアノ合わせがあって……、……本番は……、出番は何番目……。
 こうしては居られない。起き上がり、顔を洗うと蓮は早々に出発の支度を始めた。
 ヴァイオリンケースの中身を何度も念入りに確認する。弦のスペアは在るか、一応楽譜とピアノ譜も持った、肩当てや松脂等の備品を持ち忘れていないか──。
「……大丈夫だな」
 そう呟いてケースを閉じてからも、すっきりしない淀みを残したまま蓮はマンションを出た。──未だ、何か大きな忘れ物をしている事に気付いていないような不快感が残っている。

 リハーサルは順調に進んだ。蓮は相変わらずぼんやりしていたが、暗譜の完璧な彼の左手は何処までも正確に音程を取り続けた。
 本日の伴奏者でもある同窓生は癪に触ったような視線を蓮に投げながら黙々と伴奏を付け、あっさりとピアノ合わせが終わると「相変わらずの神業だな、M-I」と吐き捨ててさっさと伴奏者専用の控え室へ消えた。
 蓮は黙ったまま、個室の控え室に引き揚げた。昼にはケータリングのランチボックスが支給されたが、手を付ける気分になれないまま蓮はひたすら冒頭のカデンツァを浚っていた。本番直前には緊張から、食事を口にすることも出来なくなる奏者も居る。ゴミの回収に現れたスタッフは無言で、手付かずのランチボックスを慣れた様子で引き下げて行った。

「香坂さん、スタンバイ、お願いします」
 楽屋のドアがノックされた。蓮は低く返事を返し、ヴァイオリンを持って舞台袖へ赴いた。
 相変わらず剣呑な同窓生の伴奏者とは視線を合わせる事も無い。蓮は所定の椅子に掛けて現在の舞台上の奏者の演奏を遠くの方に聴きながら、ぼんやりとヴァイオリンの表板を見遣った。
 枯れた黄金色のニスが、舞台から洩れる照明を受けて輝かしい。f字孔の奥には、コントラストのはっきりした影の中に「DelGesu」、の文字が見える。
「……ラス、」
 思わず、本当に小さな声だったが呟きが洩れた。向かいの椅子に掛けて神経質そうに楽譜を目で浚っていた同窓生が、じろりと蓮を無言で睨んだ。
「……、」
 はっと口許を押さえたものの、それでも蓮の意識は大きな忘れ物の正体を思い出してしまった。既に、意識はその事しかない。
 一度気付いてしまった事を、無かった事にするのは不可能だ。蓮は無意識の内に、右手で左の肩を強く押さえて俯いていた。
 拍手が響いた。──演奏が終わった、出番だ。同窓生が目で蓮を促す。
 
 ツィガーヌ、その意味する所はジプシーやジタンと同じ、放浪の吟遊楽士である。
 ラヴェルが彼等からインスピレーションを得て作曲したこの曲は、情熱的な無伴奏のカデンツァと、遊び心に溢れたメロディで構成されている。一見、自由気侭で楽し気なツィガーヌ、──然しこの曲、今ピアノに向き合っている彼が厭々蓮に代弾きを依頼して来た程の難曲だ。複雑な音形と超絶技巧、それらを何でも無い事のように軽く奏して見せて始めて、その音楽が活きる。
 一見気楽そうで、その水面下でとんでもない神業をこなして居て、──ツィガーヌは、彼そのものだ。
──ラス、
 恐らく、この時の蓮には人前だと云う意識が無かった。
 何時、演奏が終わったのか気付かない内に蓮は熱狂的な拍手を前にしていた。──それにしても、相変わらず現実感の無いままだったが。

「──香坂、……驚いたよ、何だ、さっきの演奏は、」
「……何か、問題でも?」
 袖に引っ込むと同時に、興奮した様子の同窓生が肩を叩いても蓮は淡々と答えた。
「当たり前だ、焦ったじゃないか、まさかお前があんなにテンポを揺らすなんて思いもしない、こっちは付いて行くだけで精一杯だ、こんな筈じゃ無かったのにな、本当なら俺がM-Iの正確極まりないテンポを揺らして困らせてやろうと思ってたのに、」
 表情の冷め切った蓮とは対象に、彼はそれでもどこか嬉しそうな声と表情である。
「冗談だよ、そんなに怒るな、大成功だ」
「……、」
「ツィガーヌそのものだったぜ、香坂、……見直した。また、何かあったら頼むぞ」
 ああ、と生返事を返した蓮に軽く手を振り、浮き浮きした様子で彼は去って行った。取り残された蓮も、自分の楽屋へ向かう。

「……、」
 空いた口が塞がらなかった。矢鱈と重く感じるドアを引くと、其処、誰も居ない筈の控え室の蓮の椅子に、飄々とした体でちゃっかり収まったラスイルを見て。
「一体……何時……、」
「遅かったじゃないですか。先刻までは、客席で聴いていたんですよ?」
「ラス……、」
 無事なのか、と云おうとしてなかなか声が出せない蓮に、ラスイルの──その穏やかさが逆に不穏な方の──微笑が向けられた。
「冒頭の掴みが先ず成っていなかった。何の為にSulGで弾くんですか、ヴィヴラートを利かせて揺らす為でしょう。先刻の蓮の弾き方では、ファーストで取っているのと大して違いが無い。単にフィンガリングがややこしくなるだけです。それに、後半も散々でしたね、例の箇所、駒の上を弾きませんでしたね? 音で分かるんですよ」
「そんな事はどうでも良い、一体、いつ、どうやって戻って来た、あの状況で──、」
 蓮が恐怖を感じる間も無く、──いつかのように、頬がきれいに鳴った。
「それこそどうでも良い事として、師の批評は大人しく聞きなさい」
「……、」
 相変わらず、何て力だ。直前に腕が空を切った音まで鮮やかに聴こえた。
 蓮は軽く頬を押さえてから、恨みがましい視線をラスイルに投げてヴァイオリンを仕舞い始めた。
「大体、先ずピアノを聴きなさい。あの様子では、リハーサルとは全く違う弾き方をしたようですね。ピアニストを置き去りにして居ましたよ。……まあ、彼の腕が未熟だったのは問題外として、無伴奏じゃ無いんです。最低、フレーズ毎の弾き始めの呼吸位合わせられなくてどうするんですか。明らかにソリストの落ち度ですよ」
「……、」
 蓮が口の中で何か呟いたのを鋭く聞き咎めたラスイルが最上級(に怖い)の微笑みを向けた。
「何です?」
「……どうして、あんな真似を。……はぐらかすな、昨日の事だ」
「ぼんやりと突っ立ったまま逃げ出しも出来ずに立ち往生していたのは蓮だ」
「俺のモットーは依頼の完遂だ」
「……、」
 ラスイルが歩み寄り、蓮の左手首を不気味な程に優しく取った。
 ……そう、手加減しようと思えば鮮やかな程にどうとでも出来る、この暴力的な青年が掴んで蓮に思わず逃げを打たせた、左手だ。
「何の為に、怪我への恐怖を刷り込んだと思っているんです?」

 数日後、蓮が銀行の口座を確認して見ると、例のコンサート当日の日付けであの高額の報酬が降り込まれていた。
 ……と云うことは……。
 ラスイルがあの場をどう切り抜けたのかは知らないが、ちゃっかり目的のデータをも盗み出して午前中に納品した訳だ。──全く、呆れる。ヴァイオリンに限らず、蓮は師──ラスには、到底適わない。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
x_chrysalis クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年10月27日

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