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『2冊目の袋とじ 』
ラクス・コスミオン1963


 2冊目の『本』を、ラクスは開いた。
 この『本』、『畏るべき安寧』は凄まじい力を秘めたものだ。もともと、ラクス・コスミオンの一族のような智恵あるものたちが、厳重な監視をしつつ保管しなければならないものだった。どういうわけか、いつの間にか図書館を抜け出していた『本』たちの1冊――ラクスが興味を持つのも無理はないことで、彼女は図書館へと転送するのを先送りにし、とりあえず開いて読んでみることにした。自分の手元にある以上は危険もないし、ラクスはすべての禁書を読む権利も持っている。図書館の老人たちも咎めはしないだろう。
 ラテン語の説明書きが添えられた、総天然色の挿絵。
 『畏るべき安寧』とは、平たく言えば怪物白書。
 読む者を『世界』へと飲みこみ、ページの一部にしてしまう。
 すでに何十人もの魂が、この『本』に篭もっていた。かれらは現実に戻ろうとしない。安寧の世界が、まこと住み心地がよいものなのだろう。
 ラクスはそれが理解できなかった。1冊の『本』の中にある知識には限りがある。智の限りある『世界』になど、ラクスは興味がなかった。だが、無理にこの世に引き戻すほどの立場に、自分はいるのだろうか――その疑問が彼女を押し留めているのだ。彼女は救いを求めない者を救うのはやめておいた。それは、救いではないからだ。
「……ん? あら?」
 225ページを開いたとき、ラクスはどきりとした。
 今までまるで気がつかなかった。
 こんなところに、手紙が挟まれている。
 どぎまぎしながら、ラクスはたたまれた手紙を開いた。

『逃げたよ』

「!」
<スライム>のページだ。
 何もない。
 白紙だった。
 ラテン語の解説までもが消えている。『本』の世界のものではなくなっているのだ。手紙の主が苦笑混じりに言っているとおり、逃げたのである。
「た、大変!」
 ラクスは早口で呪文を唱え、金のカーを呼び出した。
 カーは一瞬、金色の鳥の姿を取ると――ぱっ、と粒子状の破片になって飛び散った。金の飛沫のひと粒ひと粒が、きらめきながら部屋を飛び出した。
 ラクスの翠の目は、すでに本に埋め尽くされた自室ではなく、外界を見ていた。
 雨が降っている――ひどい土砂降りだ。ラクスの故郷にはない大雨だ。金の魂は、慣れない環境でも忠実に動いた。雨は、逃げ出した怪物が最も好む天候だ。きっと張り切っている。
 ――近く……この町……。
 ラクスは目を閉じた。
 自分の直感を、カーに伝える。
 訪れる初めての町。もしその町に、見知った人間が居たら――迷わずその人に道を尋ねるだろう。
 この『本』の世界に触れた者が、この町にもいるはずだ。この町で見つかったのだから。
 ――取りこまれた、あのひと。青い髪の。きっとまた、被害者です。
 金の魂が、びゅうと飛んだ。
 雨を弾き、切り裂き、溶かしながら――蠢くゼリー状の魂を見据えた。
「やっぱり!」
 ラクスは爪で床に転送陣を描き出す。
 探索の術を使いながらの転移は骨が折れる。魔術というものは本来、併用出来ないものだ。するべきでもないものなのだ。ラクスはそれでも、試みるしかなかった。張り切っている怪物は腹を空かせている。一刻の猶予もない。
 ラクスの身体がかき消えた。
 鷲の羽根が1枚、転移しそびれて、ひらひらと床に舞い落ちた。


 青い髪の少女が、ひとり目の被害者ではなさそうだ。ゲル状の怪物はすでにかなり大きくなっていた。雨を吸っているせいもあるかもしれない。ラクスはこの緊急事態で、噴き出しそうになった。この少女とは、縁があると言うことだ。
 しかし――ひどい、雨である。
 こんなに濡れたのは、ナイルで水浴びをしたとき以来だった。まるで河に入ったかのように、ラクスの身体はしとど濡れていた。
 どろりと溶けたその身体。
 後ろ頭しか見えないが、あの髪はやはり間違いない。その髪もまた、すでにずぶずぶと食われ始めている。脳は無事だろうか。あの、水の流れを掴んだかのような魂は、無事だろうか。
「やめてください!」
 ラクスはスライムに走り寄ると、その爪で引き裂いた。荒事は好まないし、格闘は不慣れだった。それを差し置いても、ゲル状の怪物はラクスの一撃目をものともしなかった。あっという間に破片は融合し、溶け合い、ひとつになった。だが、原始的なその意思は、ラクスに敵意を持ったようだ。同時に、畏れも。
「この世界には、たくさんの敵がいます。貴方は、あってはならない存在だからです。貴方の敵がいない『世界』はあるはずですよ。お願いです――安寧の世界に、戻ってください」
 この怪物には性別もない。少なくとも男性ではない。ラクスは臆さずに諭すことが出来た。相手に、諭されるほどの知能があるかどうかはべつとして。
 スライムが消化を中断した。ラクスはその隙をつき、呪文を紡いだ。
「『マート神よ』!」
 かあっ、とラクスの翼が一瞬輝いた。雨が砕け散り、スライムがたじろいだ。
「『羽根は要らず ただ留めおくべし』!」
 怪物が食いかけていた魂が、飛び出した。青い水の魂だった。
 ラクスは間髪入れずに、開いた『本』を怪物に突きつけた。
 ゲル状の怪物にも、郷愁を感じるほどの魂はあったのか。かれはおとなしく、ずるずると『本』ににじり寄り――消えた。

「危なかったです」
 雨の中に浮かぶ魂を見て、ラクスは微笑んだ。
「もう少しで魂まで溶かされるところでしたよ。今なら、食べられた部分も取り戻せます。さあ、安心して下さい。大丈夫、もう貴方は貴方です」
 『畏るべき安寧』の225ページには、挿絵がもどってきていた。
 気づけば――雨は止みかけていた。
 ラクスが生んだ光と、雨の爆発とが、辺りの住民の気を引いてしまったようだ。
 青い髪の少女の姿が、徐々にこちらの世界に戻ってきている――
 それを見届けると、ラクスは『本』を抱えて、いそいそと姿を消した。


 ラクスは濡れた身体をぶるぶると犬のように震わせて、身体にまとわりつく水を跳ね飛ばした。それから、屋敷に入った。いまのところ、彼女は居候だ。親切な家主だが、迷惑をかけたくはない。
 手紙を見てから、他のことを考える余裕はなかった。
 今は、どうにも引っ掛かるのだ。
 ラクスは『逃げたよ』の一言と、この『畏るべき安寧』の情報をもたらしてくれた差出人不明の手紙を引っ張り出して、見比べてみた。
「……うーん……」
 何億もの文字を見てきたラクスは、気にかかって仕方がないのだ。
 この筆跡は、似ていた。
「やっぱり、親切な方……なのでしょうか……」
 この疑問が解けるのが、宇宙の真理を読み解く前であればいいのだが。
 ラクスは尻尾を緩やかに振りながら寝そべると、手紙を前にしたままいつしか眠りこんでいた。彼女にとっても、今夜の仕事は重労働だった。

 ラクスはその夜、青い髪の少女と話す夢を見た。




<了> 
PCシチュエーションノベル(シングル) -
モロクっち クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年10月24日

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