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『フォーカス 』
ケーナズ・ルクセンブルク1481)&イヴ・ソマリア(1548)

「……、」
 ケーナズ・ルクセンブルクは伊達眼鏡を掛けたままであるにも関わらず、不穏な光を青い瞳の奥に煌めかせて手の中の雑誌を握り潰した。
 乱暴に床に叩き付けられた雑誌の表紙はやけにカラフルで、色彩感覚も、また其処に踊る文字の羅列には品性の欠片も感じられない。
『トップアイドル、イヴ・ソマリア(18)お忍びデート、年上の超美形恋人─ポルシェに六本木の超高級マンション─母親はドイツ上流階級ゴシップの女王!?』
 イヴとの一件は良いとしよう。彼女だってこんな記事で潰れる程ヤワじゃない。──然し、面白半分の筆が母や実家の事、果ては双児の妹にまで及んでいるのは、……。
 ケーナズは携帯電話を取り出した。相手は勿論極まっている、マスコミにコネクションを持つ知り合いだ。
 担当記者はどうして呉れようか。──どうせ、こんな文才の欠片もない雑誌記者が一人居なくなった所で、空いた席に新人が収まって現在の日本の就職難をほんの僅か解消こそすれ、害は無い。

「……最低」
 雑誌から顔を上げたイヴ・ソマリアは不機嫌そうにその愛らしい目許を顰めた。
「折角のケーナズとのデートだったのに、……何よ、この写真」
 選りに選ってこんな写りのイマイチな写真を表紙に持って来る事ないじゃないの。
「……ん。矢っ張り、そうよね」
 携帯電話を取り上げたイヴは、自らの思い付きに満足して何度も軽く頷いた。
「こんな腕の悪いカメラマンは抹殺すべきよ」
 勿論、本当に殺しはしないけど。……まあ、一生仕事を干す位で許してあげても良いわよ?

──────……

「ケーナズ!」
 青のポルシェ911カレラ4カブリオレが、その近未来的な流線形の車体を音も無く停止させた。遅れて済まない、と運転席(勿論、左側)から軽く手を上げたケーナズに、オープンルーフの車体越しに小柄な少女が飛びつく。
 目深に被ったキャスケットから、柔らかい金色の髪が覘いた。カジュアルなジーンズにTシャツ姿だが、そのパンキッシュなファッションの出所は彼のディオールである。そう、これならば一見ラフに見えても彼と、彼の愛車に吊り合う。
「何事かな、この髪は」
 ケーナズは少女の身体を軽々と抱き上げて助手席へ下ろし、苦笑しながら彼女の髪に指先を絡めた。この恋人、イヴ・ソマリアの見慣れた、個性的な水色の髪は? 
「お忍びだもの。ケーナズに合わせたのよ☆」
「……、」
 それでも目立つ事には変わりないぞ、と思いつつ、然し当人が色の付いた伊達眼鏡を掛けているとは云え、金髪碧眼にすらりとした長身の美丈夫なのを棚に上げて口に出す事は出来ずにケーナズは黙ってポルシェを緩やかに発車させた。
「ね、先ず何処に行くの?」
「何処へ行きたい?」
 ステアリングに手を置き、軽やかに操作しながらケーナズは微笑みで答える。
「東京観光、でしょ? ケーナズに任せたじゃない、楽しみにしてたのよ」
 視線を合わせたブロンドの美男美女の恋人達は傍目にも非常に麗しい。
「勿論、本当はもう極まっているさ。先ずは海へ行こう。ランチを兼ねて東京湾クルーズだ」
「もしかして、豪華客船?」
 ケーナズなら、とイヴは無邪気にはしゃいだ声を上げた。
「美しい貴女に相応しい船を」
 やだ、と顔を赤らめながら、それでも一応は人目を遮る屋根の無い車を気にして(申し訳程度に)キャスケットの上へ上げていたサングラスを掛けてイヴは俯いた。
「……そうだ、イヴ」
「ん♪」
「……彼女が、君にくれぐれもチケットの礼を、と云っていた。トップアイドル、イヴ・ソマリアのコンサートを楽しみにしていると」
「……、」
 イヴはふと、ほんの僅か表情を翳らせて「そう、喜んで貰えたら嬉しいわ。良い歌を歌わなきゃね」と呟いた。
「何もそう意気込む事は無い。君の歌は、そのままで素晴らしい」
「……ありがと、ケーナズ」
 秋風は、心地良く二人の髪を靡かせる。昼下がりの穏やかな陽を透かした金色の光が涼しく輝いた。

「……、」
 イヴは船内の食堂で、ランチに出た冷製パスタを半分程食べた所でフォークを置いた。
「美味くないか?」
 ケーナズもそれに合わせて手を止め、麗しい眉を顰めて首を振った恋人の顔色を気遣った。
「美味しいわ、とても」
「気分が悪いか? ……酔ってしまったか」
「そうじゃないの」
 イヴは微笑みながらも意識の半分を窓の外のデッキへ向けている。
 今からほんの少し前、東京湾からこの客船へ乗船直後の事だ。

「ああ、潮の香りがするわ、空がきれい、」
 そう歓声を上げ、イヴはデッキに駆け寄って手摺から海へと身を乗り出した。
「危ないぞ、」
 ケーナズは無論、本気で彼女がバランスを崩して海へ落ちてしまうなどと案じていた訳ではないが、そう声を掛けると彼女の肩を抱いて手摺から下ろした。
「……、」
 腕の中からうっとりとケーナズを見上げながら、イヴは口唇を開いた。
 ──美しい、透き通った歌声が潮風に攫われる。
「……ヘンデルか」
 イヴが小さく口ずさんだのは、ヘンデルに依るセイレーンの歌だ。……全く、とケーナズは苦笑した。
「不安にさせるな。君が、海へ帰ってしまうのじゃないかと思うだろう。未だ、デートはこれからだぞ」
「ごめんなさい☆」
 ケーナズの軽い不安を消し去るように、イヴは悪戯っぽく舌を出した。するり、と腕を擦り抜けて先に船内へ向かうイヴを振り返りながらケーナズは声を掛けた。
「……何故、今日はアリアを?」
「……、」
 立ち止まったイヴの背中に、少し寂し気な表情が在った。
「……いつまでも、流行歌を歌っている場合じゃないと思うの」
「……、ビュッフェへ行こう」
 触り気無くそんなイヴの不安を支えるように、ケーナズは彼女の背に手を置いて促した。

「……お悩みのようだな、姫君」
 ケーナズは両肘をついて軽く組んだ手に顎を乗せ、穏やかに微笑んでイヴの目を覗き込んだ。
「ん……、」
 イヴは寂しそうに微笑を返しながら、小さな声で答える。
「……この間の事もあるし……、樹君と一緒に歌ったり……。私もいずれは、アイドルを卒業したいかなって」
 それは、とケーナズは軽くイヴの額を指先で突いた。
「本当に顔だけで、実力の無い歌手が云う事だ。君が悩む事じゃない」

「ねえ、ケーナズ……、」
 客船を降り、再びケーナズのポルシェへ戻った時にはすっかり元気を取り戻していたイヴが甘い声と笑顔で恋人に何かをねだる視線を向けた。
「私、一度で良いからポルシェ、運転してみたいなって思ってたの」
「……、」
 今日は、ねだられれば高価なドレスだろうが最高級のディナーだろうが何でも買ってやる積もりだったケーナズは自分でも思わず血の気が引いたのを悟った。
「……駄目?」
 ああ何と云う愛らしい笑顔だ。犯罪だ。
 若しも、ケーナズにとあるイヴと共通の知り合いが居なければ、そして彼から先日のドライブの一件を聞いていなければ、愛車のポルシェ911を少々凹まされようが傷を付けられようが構わず首を縦に振っていた筈だ。但し、廃車にされるかも知れないとなれば話は別だ。車体がスクラップになる、イコール大事故、大惨事、勿論運転者と同乗者の身体も同じくスクラップ……と云うことである。
「いや、今日はデートだ。私は君のエスコートだぞ。運転は私が引き受ける。君はただ東京観光を楽しんでいれば良いさ、気を遣う必要は何処にも無い」
 ケーナズは心無しか色付きの伊達眼鏡を押し上げる指先を震わせながら、それでも彼らしく上手く論点を摺り替えて嘯いた。
「……そうぉ?」
 少しく不満そうな表情を残しつつ呟いたイヴを、彼女が「そうかしら?」と思っている内が華とケーナズは助手席へ押し込み、麗しい事この上無い笑顔を向けた。
「そうだ、……さあ、行くぞ。東京タワーでアクアリウムを見よう。その前に、少しこの辺りを回って」
「東京タワー!? 素敵〜、私、一度ちゃんと中を見たかったの、水族館があるの!? ね、展望台にも登りたいな、」
 やった。イヴの意識が東京観光名所へ向いて呉れた。ケーナズは「ああ、特別展望台でも何処でも。カフェでお茶も良いな」と気前良く請け合う。
「お土産とか〜、ノッポンのグッズ、色々買っても良い?」
「勿論、何ならショップごと買っても良い」
 イヴにハンドルを取らせる事と天秤に掛ければ、この際金銭感覚の崩壊したドイツ貴族で無くとも幾らでも気前良くなろう。
 
「……、」
 検分する振りをして、触り気無く値札を裏返したイヴは肩を竦めてケーナズの耳許に口を寄せて囁いた。
「矢っ張り高過ぎるわ」
 某高級ブティック路面店の店内だ。
 プレタポルテとは云え、イタリアの本社直営店だけあって扱う品物も他愛無いレベルには留まらない。
 東京湾岸沿いをドライブ(勿論ケーナズの運転で)、東京タワーでアクアリウムと展望台、オリジナルグッズの買い物、基い買い占めを楽しんでお茶を飲んだら、もう時刻は夕方だった。ケーナズが今日の為に予め予約してあった高級ロシア料理の店へディナーへ、と云う段になって、イヴの服装が引っ掛かった。ジーンズにシャツ。
 カジュアルとは云えブランド物なので大丈夫、何より彼女自身が気品在る魅力に溢れているのだから、とは云ったがイヴとしても折角だから高級ディナーに相応しい格好で雰囲気を満喫したい所だ。そこで、恋人におねだりをしてドレスを調達する事になった訳だが──。
 仕立て、品質共に最高級であるから仕方ないとは云っても、高級プレタポルテのドレスとなればその値段は「一桁間違えてませんか?」と云いたくなるものである。ステージや雑誌の撮影等で華やかな衣装を着慣れているイヴとは云え、値札を見てしまうとどれだけ心を引かれたドレスでもケーナズに「買って」とは云い難い。
 長身に美貌のドイツ人の青年と、サングラスを掛けていても可愛らしい顔立ちがはっきり見てとれる金髪のカップル、ドアを押した時点から販売員や他の客の視線を釘付けにしていたので今更踵を返し難いが、イヴはそうしてケーナズの袖を軽く引いた。
「何を云っているんだ、だからこそ、君が着る可きなんじゃないか」
 ケーナズは動じない。どちらかと云えば彼の方が楽しそうだ。
 そして、未だ少し躊躇っているイヴを横目に「済まない」と販売員に声を掛ける。
「試着を。これと、……あちらの青の方を。それから、これは少し大き過ぎるな。彼女のサイズは在るだろうか?」
 ケーナズに頼まれて無愛想な対応をする女性販売員など居ない。大袈裟な程に慌ただしく彼の指示に従う販売員からフィッティングルームへ誘われ、イヴはケーナズと合わせた視線を困ったように微笑ませた。
 そしてそんな光景はイヴとケーナズがドレスを、大人びた黒のシフォンの物に極めた後も今度は靴だ、アクセサリーだ、ハンドバッグだと当分続く事になる。

 ストレスから来る苛立ちが今にも爆発しそうだった。不機嫌さを隠す事無い表情で料理に向けてシャッターを切り続けるこの男を前に、最初は丁寧にメニューの説明をしていた料理人も段々と口数が減り、終いには厨房へ引っ込んでしまった。
──くそ。
 何で俺はこんな遊んで暮らしてる金持ちしか来ないような気取ったロシア料理屋で写真を延々撮らされてるんだ、ロシア料理なんぞボルシチだけで充分だ、それをザクースキだのセヴルーガだのシャシリクだの、ロシアなんぞペレストロイカ再興でソ連に戻ってしまえ。ロシア人もロシア料理も国に引っ込んでドストエフスキーを読んで居るが良い。
 彼は某雑誌社の契約カメラマンだが、同社から発行のミセス雑誌の記事の取材に飛ばされて来た。
 勿論、料理を美味しそうに撮るのは非常に難しく高度なテクニックを要する。然し、マスメディアの醍醐味、国中を騒がせるような大事件を追って走り回る報道カメラマンを志して早や十年、行き着いた先がザクースキにセヴルーガにシャシリクでは苛立ちも募ろう。
 自分は、一生ザクースキを撮って終わりはしないぞ、と彼の闘志が燃える。──チャンスさえあれば、社内での地位を上げていずれは社会部の担当に、──と夢想して見る。先ずはスクープを押さえて……。 
 ──そして、それを夢想に終わらせないチャンス、基い大スクープが本当に気紛れに訪れた。
 いらっしゃいませ、と最大の丁寧さで迎えられた客を何気なく見遣った彼は先ず眉を顰めた。
 長身の、金髪を背中に靡かせたのが気障な程様になっている外国人の美青年と、彼に寄り添う見るからに高そうなドレスを纏った此れもまた金髪の美少女である。──全く、気取りやがって。大体、アルマーニ着てロシア料理喰いに来るんじゃねえよ。
 彼等は特に大事な客らしく、店員が慌てて彼の元へ駆けて来て「御客様のお目汚しにならないよう」と犬のように追い払う。
 いっそ罵声の一つでも浴びせて遣りたくなって、その麗しいカップルへ顔を向けた彼ははた、と目を見開いた。
 女の方、──席へ案内されると同時にサングラスを外した小柄ながらスタイル抜群の美少女、──何故か髪はトレードマークの水色ではなく金色だが……。
「イヴ……ソマリア?」

「アペリティフはどうなさいますか?」
「あ、私は……」
 ケーナズが答えるより先にイヴが慌てて手を振った。
「飲まないのか?」
「……ん、外ではちょっと……ね、」
「では私も遠慮しよう。まあ、ここへはディナーを楽しみに来たのだからな」
「ごめんね、」
 いいや、とケーナズは微笑み、ではそういう事で前菜からにして呉れ、と店員へ告げた。

──カシャ、

「何が出るのかしら?」
「さあな。今日一番の素材を使ったコース、と云う事で任せてある」
「ロシアって云うとやっぱり魚かしら? あ、でも羊なんかも有名よね」
「いずれにせよ肉料理か魚料理かのどちらかだな。そこはお楽しみと云う事で」
「楽しみ、本当に」

──カシャ、

「凄ーい……これ、海老よね、それに帆立? 何かもー、……この香り、塩加減が海そのもの、って感じ……美味しーい……」
「美味いか?」
「ええ、本当に☆」
「そう云って貰えれば良かった。君の口に合うかどうか、それだけが心配だったからな」
「本当に美味しいわよ、もー、流石ケーナズだわ……素敵……」
「……良かったよ。昼は殆ど食べなかったようで心配した。食欲が戻ればもう安心だな」
「もう遠慮無く☆」

──カシャ。

「あー……もう今日だけでオホーツク海を満喫したような。……本当素敵だった、御馳走様、ケーナズ」
「喜んで頂けて何より」
 カーラジオからは小さな音量でハバネラが流れている。
 夜の風はその冷たさが心地良い。イヴはサングラスを外し、ラジオに合わせてハミングをしていた。ケーナズはサングラスがリミッターを兼ねている事もあり外しはしないが、彼にしてもやや普段の用心を欠いていた感はある。──人目に対して。

 自宅マンションの駐車場へ車を停めると、然しケーナズはそのまま部屋へ向かわず「少し歩こう」とイヴを誘った。
「行き着けのバーがあるんだ。雰囲気も良くて何よりカクテルが美味い」
「あ、でも……、」
 未だ未成年(!?)だし……、と一旦は躊躇したイヴだが、だからと云ってケーナズが行き着けというバーに連れて行ってくれるのを断るのも惜しい。自分はジュースでも貰えば良い事だし、折角良いドレスを着ているのだからこの際雰囲気だけでも楽しみたい。
 礼儀正しいケーナズのエスコートについ吊られて、……ま、いっか、と幾らか開放的な気分で彼に歩調を合わせた。

「彼女にはバックスフィズ、私はマティーニ」
 常連らしい気安さで、カウンターの奥へ着席すると同時にケーナズはそう注文した。イヴに「何にする?」と訊ね「オレンジジュース」と云う返事を貰った後である。
 マティーニ位は知っているが、聞き覚えの無い名前の前者のカクテルにイヴは首を傾いだ。
「バックスフィズ?」
「……オレンジジュースさ、少し高級な」
 ふむ、そんなものかしら、とイヴは訝りもせずにチャームとして出されたチョコレートを齧りながら、意識を触り気無く落ち着いた店内の内装を観察する事へ向けた。
「ここへは良く来るの?」
「そうだな、大抵マティーニを一杯だけ飲んで帰る事が多いが」
「ケーナズって感じ……。こんな素敵なお店でカクテル一杯だけ飲んでさっと帰るなんて……大人☆」
 雰囲気が良いからと云って、男性の独り客がいつまでもだらだらと居座るのはあまり好ましく無い。が、中々そう潔くは引き上げられないものである。それが出来、且つ様になる未だ歳若い男性となれば東京下でもケーナズを置いて他には無いだろう。──双児の妹と喧嘩して、彼女が家を飛び出した直後等は手持ち無沙汰から入り浸ったりもした、が基本的には直ぐに帰る。
 くす、とケーナズは苦笑した。
「ここは雰囲気も好きなんだが、何よりバーテンダーの腕が良い。カクテルと云うのはスピードが必要なんだ。マティーニを一杯作らせれば分かる。今の東京には、中々そんなスピード感のあるバーテンダーが見つからないが」
 ケーナズがそう絶賛したバーテンダーは今、オレンジをスクィーズしている所だ。うっとりとしてケーナズの説明に耳を傾け、バーテンダーを見遣ったイヴも「なるほど、そんな所じゃジュースもフレッシュを絞ってくれるのね」と安心してしまった。何故か、その横にはクーラーに収まったヴーヴ・クリコが冷やされていたのだが。
 程無く、二人の前にはそれぞれ思い切ってドライなマティーニと上品な甘酸っぱい香りのバックスフィズが置かれた。
「乾杯」
 ケーナズに誘われてグラスを合わせ、軽く口を付けたイヴは思わず「美味しい、」と声を上げてからはっ、と口許を押さえた。
「ケーナズ、これ、カクテルじゃない」
「……、」
 ケーナズはイヴの慌てたような視線にも悪戯めいた微笑で応じる。
「美味いだろう?」
「とっても美味しいわ、でも、私」
「……騙す気じゃ無かった。だが折角だから、この際イヴにも本当のカクテルを味わって欲しかったんだ」
「……、」
 じろ、と上目遣いにケーナズを睨みながら、それでもイヴはついバックスフィズの香りに吊られて再び口唇を付けてしまう。
「……仕方ないわね。一杯だけよ」
「済まないな」
「許してあげる。……美味しいから。って云うかケーナズが格好良いから」
 
──出て来た。
 彼は慌ててカメラを構える。
 自分のような妖しい風体のカメラマンなどすぐに追い返されそうな気取ったバーへ二人が消えてからは、一体何時間待機する事になるのだろうと溜息が出たが、意外と直ぐに出て来た。
 フラッシュは使えない。絞りを最大限解放したカメラのシャッターを、後は数だと彼は連続で切り続けた。これもまた彼には妬みの対象としかなり得ない高級マンションのオートロックのエントランスへ、二人が消えてしまうまで。

「イヴ、」
 少し待っていて欲しい、と告げてイヴを待たせ、キッチンから戻ってきたケーナズは一本のワインを手にしていた。
 見慣れないシンプルなラベルが彼女に見えるようにそれを掲げ、ケーナズは微笑む。
「実家のワイナリーで作ったハウスワインだが、特に傑作だった年のものなんだ。飲むだろう? もう、人目に気兼ねする事も無い」
 イヴも微笑んだまま頷き返した。満足そうにそれを受けてワインクーラーやクリスタルのワイングラスの準備に掛かるケーナズを黒い皮革張りのソファから眺めながら、イヴは軽く頬を押さえた。
 ──先程のカクテルかも知れない。少し、慣れないアルコールで酔ったようだ。顔が熱い。真っ赤になってなければいいけど……等と心配しながら、然しそのふわふわとした感覚は決して不快では無い。
「……大人、って感じよね。うん、こうでなきゃ」
 ん? と云うようにケーナズがくるりと振り返る。イヴは急いで「何でも無いわ」と満面の笑顔で取り繕った。
 ぽん、と小気味良い音が響く。同時に華のような香りがボトルの口から溢れた。
「うわぁ……、」
 最早遠慮する必要は無いのでその香りに期待を膨らませながらケーナズの手許を眺めるイヴに、ケーナズは抜いたコルクを放った。
「特別な日の記念に」
 恋人同士の間で、再びグラスが合わせられた。

 鮮やかな色彩の玩具箱をひっくり返したようなスカイスクレイパーに、ブラインドが降りる。
 ここから後は、大人の時間。
 ──勿論、その頃例のカメラマンがスクープを片手に帰社し、それを合図にケーナズやイヴの身辺状況を記事にすべく取材班が方々へ飛んだ事は、未だその時には知る余地が無かった。
 全ては、翌日に始まる。今は未だ、先日来ようやく二人切りの時間を得て愛を囁き交わす幸福を享受していた、ケーナズもイヴも。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
x_chrysalis クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年10月23日

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