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『Blut =ブルート= 』
櫻・吹雪2059)&御堂・譲(0588)

 あの時差し伸べられた手の温かさを、今も憶えている。
 冷たく濡れていた私の手は、その熱を吸い取って還元した。
(今思えば――)
 その時既に、私は気づいていたのかもしれない。
 彼を包む”闇”に。



 仕事をしている時の私には、一縷の感情も存在しない。だから当然ためらいもない。
  ――ザシュっ
 まるで野菜を切るかのような音。芸術品と呼べるほど美しい斬り口が、それを証明していた。
 そして温かい、血の雨が降る。
 私はそれを浴びるのが好きだった。
(やっと終わった……)
 熱でそれを悟り、感情を取り戻すのだ。
 目の前に、斬り捨てた男が倒れている。私はそれを一瞥すると、小さく呟いた。
「――帰ろ」

     ★

 私はスイーパーだ。裏仕事や汚れ仕事を主に引き受けている。近頃は、バイトがてら退魔の仕事を引き受けることも多い。
 そんな私は、自分の家に帰ることが苦痛でならなかった。
「何をしてきたんだ」
「どこへ行ってきたんだ」
 家族の視線が痛い。
(――そう)
 あの人たちは直接訊いてくるわけではない。ただ私を疑いの目で見つめる。訊いてくれたらごまかすことだって可能だろう。
(でも訊いてくれない)
 私はただ黙って、視線をやり過ごすしかない。それがとても苦痛だった。
(だから)
 帰りたくなかった。



「――ただいま」
 マンションのドアを開けると、私は聞こえるように言った。
(誰に?)
 もちろん家族に、ではない。
「おかえり」
 リビングに向かうと、微笑んでくれる顔。
(この人)
 御堂・譲に。
「おなか減ってるなら飯あるけど……先に風呂の方がよさそうだね」
 服を汚してきた子供を笑うように告げた。血に濡れた私を。
「うん、そうする」
 応えて、そのまま風呂場へと向かった。
 洗面所の前が脱衣所。既にタオルが用意してあって、思わず笑う。
(譲らしい)
 何も訊かない。何も知らない私の居場所を、こうやって用意しておいてくれる。
 私の”帰れる”場所を、つくっておいてくれる。
(始まりは数日前)
 私はついに家出した。そうして街をさまよっていたところを、譲に拾われたのだ。
 それ以来私は。
(ここへ帰るようになった)
 服を脱ぎ捨てて、風呂場へと進入する。
 浴槽のふたを開けると、お湯もしっかりとはられていた。満足して閉じる。開けておいたら熱が逃げてしまうから。
(ほんの少しの)
 熱も逃がしたくない。
 それは私を”私”にさせるためのもの。
 私が”私”であるためのものだから。

     ★

 私がご飯を食べる。譲はただそれを見ていた。その視線に、家族のような疑いの色はない。
(それどころか)
 何故かいつも、淋しそうな哀しそうな、曖昧な表情をしていた。でもだからといって、気まずさというものはない。
「――私の顔に何かついてるの?」
 しかしあまりにも毎日だとさすがに気になるので、私は初めて問ってみた。すると譲は、私に言われてからやっと私を見つめていたことに気づいたようで。
「ごめん、本当に猫みたいだなーと思って」
 そう言って笑った。
「酷い……と言いたいところだけど、認めざるをえないわね」
 転がりこんで、気まぐれに外出して、また気まぐれに戻ってきて、お風呂入ってご飯もらって……猫と違うとすれば、人語を話すことくらいだろう。
 私のおかずをつまみながら、譲は続ける。
「猫ってさ、孤独を埋める道具だよね。でも逆に、孤独を助長させる道具でもあるんだ」
「え……」
 言葉の意味がわからずに、真顔で譲を見つめた。譲は相変わらず笑顔のまま。
「死んだら痛いでしょ?」
「!」
 もしも私が猫なら。こんな生活を続けてゆけるはずもないことはわかっている。
(たとえそれが死でなくとも)
 別れは必ずやってくるだろう。
(それまで私は)
 この人の孤独を埋めて。
(それから私は)
 この人の孤独を増やすのだろうか。
「――だから嫌い?」
 残るのが痛みなら。
 もう箸は動かない。
 譲の顔が、初めて真顔に変わった。
「”だから”好きだよ」
 どちらからともなく顔を寄せて、唇を重ねる。ほんの一瞬。
(その時)
 私は気づいた。
(譲も闇を抱えている)
 両手でも支えきれない、大きな孤独。
(だから)
 だから彼の傍は、心地いいのだと。
「あはははは……」
 突然笑い出した譲に、私は顔をしかめた。
「何よ?」
 キスのあと笑われるなんて、気分のいいものじゃない。すると譲は。
「血の味がした」
「え?」
 嘘だ。あんな一瞬でわかるわけがない。
(それ以前に)
 血の味なんて、するわけがない。……多分。いくら私でも。
 私が睨むように見つめると、譲は苦笑して。
「じゃあもう1回だ」
 今度は、ゆっくりと。



 血を浴びているのは私。
 血を流しているのは譲。
 確かにあの時のキスは。
(血の味がした)
 血まみれの私たち。
(譲はきっと)
 大きな傷を持っている。そこからはとめどなく血が流れ、けれど彼はそれをとめようとしないまま、歩いているのだ。
(私にはそう感じた)
 そしてその血を浴びるために、私は傍にいる。
(何も訊かなくていい)
 ただ互いがそこに存在していれば。
(空気のように)
 傍にいられたら――。





(終)
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東京怪談
2003年10月20日

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