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『只畏れよ、我らが憤怒 』
夏比古・雪之丞1686)&白岐・篝(1969)


 今宵が満月であることなど、知っていたはずではないか。
 満月の夜はろくな夜にならない。月が美しいだけで、他には何の得もないし、気は昂ぶり、いやな渇きが喉を絞めつけることもありさえすれば、道端に血が飛び散ることも多いのだ。
 夏比古雪之丞と白岐篝とは、月と血の呪縛との付き合いが長かった。それはそれは、長かった。だからふたりとも、近頃は満月の夜は自宅に篭もって、窓辺で月を仰ぎ見ることにしていた。
 満月は好きだ、とても美しい。だが満月の夜はろくなことがない。血と死を恐れることもなく、むしろそれをふたりはつくり上げる側だ。ふたりはけして好きで血と死を見ようとしているわけではなかった。
 人間の世界から夜が消えようとしている。血と死の代わりに、ふたりは月を見ていた。

 そろそろ日も沈もうかといった刻限に、東の空の月が雪之丞の視界から消えた。
 鳩が――月を遮ったからだ。

「この時勢に鳩か」
 雪之丞は整った顔に苦笑を浮かべながら、窓を開けて鳩を迎え入れ、細い足にくくりつけられた文を取った。
 伝書鳩などという連絡方法を使うような友人を、長く生きている雪之丞は何人か持っていた。だが、文の裏に描かれていた印を見て、送り主が篝であることをすぐに悟った。
 内容も篝らしい簡潔なもので、
 東京でいい薬壺を見つけたのでこれから自慢しに行くから酒を用意するなりして待っているように、
 といったものだった。
「何から何まであいつらしいな」
 雪之丞はフンと鼻で笑ってから、
「ああ、いかん。この笑い方は、あいつのものだった」
 文を丸めて、流し目を鳩にくれた。返事はよこさずともいいだろう。嫌味や歓迎の言葉やらは、篝が来てから言えばいい。
 鳩は窓辺から飛び立ち、見事な満月の中に飛びこんでいった。


 きっかり一刻後に雪之丞のマンションを訪れた篝は、いつもの和装に仏頂面だった。だが、大事そうに白木の箱を抱えていた。この男が大事そうにするとは、余程気に入ったものなのだろう。
「おう、雪。酒は用意してあるのだろうな」
「何どきだと思っている」
 開口一番の『ご挨拶』に、雪之丞は眉根を寄せた。
「茶は淹れておいたぞ。5年ぶりに会ったのだから、酒は積もる話をしながらだ」
「たかが5年ではないか。よもや化け狐が、人の世の刻に染められたのではあるまいな?」
 フン、と鼻で笑うと――先程、雪之丞がよく似た笑いをこぼしたことなど、篝は知る由もないのだ――篝は居間に入っていった。
 居間は、温かい茶の香りに満ちていた。

 篝は紐を解き、慎重に箱の中に手を差し入れて、薬壺を取り出した。
 一目見て、雪之丞が「おう」と声を上げるほどに、薬壺に施された装飾は見事なものだった。燃え上がる焔か、はたまた如来の後光を模したものなのか、刻まれた紋様は美しく、雪之丞は触れることすらためらったほどだ。
「古いな」
「平安朝後期のものだと、骨董屋は言っていた。まあ、間違いはなかろう」
「まるで薬師如来の愛用品のようだな」
「如来の名を持ち出すか、この俺の前で」
「赦せ」
「赦さぬ」
「赦せよ、石頭め」
「断じて赦さぬ、野狐が」
 だがふたりは会話の内容のわりにはにやにやしていたし、視線は薬壺に向けられていた。雪之丞はこの薬壺がすっかり気に入ってしまったが、買った本人の篝も勿論気に入っている。金は払うと言ったところで譲ってもらえるとは思わなかった。篝も、雪之丞が譲れと言い出したときは、何と言って切り返してやろうか考えていた。
 だからせめて、
「触れても?」
 その手触りと彫り物を永遠に記憶に焼きつけておきたい。
「構わんが」
 篝は快諾し、湯呑みを手に取った。
 雪之丞の白い手が、薬壺に触れた。ひんやりとした薬壺の手触りは、
 しかし――
 次の瞬間には、灼熱へと変じた。
「!」
 雪之丞が薬壺から手を離し、篝が湯呑みを口から離した。
 薬壺に描かれた紋様は、地獄の焔であったのか。
 紋様が紅く色づいたかと思うと、薬壺は砕けた。破片が雪之丞の額と篝の頬に当たり、ふたりの白い肌に血が滲んだ。

『熱い、熱いぞ、躰が、砕けるほどに』
 ガラスのテーブルまでもが砕け、置かれていた急須と雪之丞の湯呑みが転がり落ちた。身の丈一丈五尺の赤鬼が、ぬらりとその身を起こす。
『おのれ、熱いぞ、脳髄が――煮えくり返るわ』
 ごぉう、と鬼は吼えた。
 燃え上がる丸太のような腕を一振りすると、窓辺に置かれていたパソコン一式が、やかましい音を立てて滅ぼされた。
 鬼の咆哮がびりびりとマンションを震わせる。
 鬼は気がふれてしまったようだった。
 長い間眠らせられていたところを、負の気で叩き起こされたのだ。寝起きも悪くなるというものか。

「こちらも熱いぞ、この畜生めが!」
 篝が――
 すでに呪を振り切り、『咎丸』と化して――
 鬼の右腕を掴み取った。
 羽織を肩にかけた和装の青年は、鬼だった。元より尖っていた耳の銀のチェーンピアスは、毟り取られて捻じ曲がり、床に落ちていた。篝は蒼い鬼火を纏う、銀の髪の鬼だった。
「絹の羽織をどうしてくれる! 茶染みは落ちんのだ、この痴れ者め!」
 がぁ、と怒号をひとつ、
 篝は薬壺の鬼を投げ飛ばした。鬼の腕が、ごきりともげた。篝に絡みつく蒼の焔が、鬼の腕をたちまち消し炭に変えた。
「薬壺の紋様を覚える前に砕いたな」
 倒れた鬼を見下ろす雪之丞は――
 すでに白い狐の耳と尻尾を生やした、和装の青年だった。
「仕事道具も壊してくれた。それも、さて、どうしてくれる?」
 めり、と音さえ聞こえそうなほどに、雪之丞の顔立ちは怒りで歪んだ。
 赤鬼の左腕を掴み取り、雪之丞もまた鬼を放り投げた。鬼の右腕は、ぼきりともげた。
 重く湿った音をたて、鬼の右腕、左腕が、次々に床に投げ落とされる。糸を引くほどに濃厚な血潮が、ふたりの白い男の殺意と憤怒と描き出す。

 しかし赤鬼は、自分の両腕がもぎ取られたこともわからないのだろう。
 ごぉぉう、と咆哮――
 その太い足で床を踏みしめ、肩口から燃え上がったように赤い血を流しながら、立ち上がった。鬼には、天井が低すぎた。鬼は身体を屈め、牙を剥き、白孤と白鬼を威嚇した。 鬼の下顎に生えた犬歯は、上唇を突き破らんばかりに巨大で、鋭い。猪か象のようであった。
 その振る舞いも姿も、篝の母と同じ種のものとは思えない。狂気に苛まれる鬼は獣であるか。
 篝の口の端からも、鬼火が漏れた。篝の頬から、雪之丞の額からも、赤い血がつうと滴り落ちている――
「それでも我らに挑むのか、面白い」
 篝が、フンと鼻で嘲笑った。
 だが牙の生えた口元に浮かぶのは、泣く子も黙りそうな狂笑だ。
「地獄に送り帰してくれる!」
 篝の身体に絡む焔は、そのときひとつの意思をもって集束し、篝の右手のうちに収まった。それは今や焔ではなく、一振りの大太刀であった。刃渡り五尺はあろうかという、巨大すぎる刀だった。
 焔の変化を横目で見届けた雪之丞は、軽やかに蜻蛉を切って篝の背後にまわった。壁にかかっていた銀のチェーンを掴み取った。それはすでにチェーンではなく、弓と矢だった。
「仕損じるなよ、雪」
「黙って前を見ていろ」
 言われた通りに黙りこみ、篝は振り向かなかった。
 ひょう、と矢が空を裂いた。篝の頭上、漆黒の角を門として、矢は馳せ、鬼の眉間に突き立った。鬼は両腕が落ちた身体ですでに突進してきていた。鬼の牙は、篝の顔面で止まった。
 鬼が断末魔の咆哮を上げる前に、篝が逆刃に構えた赤い大太刀を、鬼の鳩尾にずぶりと突き立てた。大太刀は容易く鬼の身体を貫いた。
 ごぉうっ、
 吼えたのは――篝である。逆刃に貫いた大太刀を、振り上げた。刃はまたしても、容易く鬼の身体を裂いた。腹から真二つにされた鬼の眉間から、矢が落ちた。どうどうと広がる血溜まりの中に落ちた矢までもが、音もなくふたつに分かたれた。
「下郎が、一万年早いのだ。この俺と雪を汚すのは!」
 赤鬼の死体が、燃え上がった。
 焔が地獄へ還る頃には、床や天井やふたりを汚していた血糊が消え失せていた。あとには、破れた壁や壊されたテーブルとパソコン、緑茶の染みがついた羽織が残されていた。

「ああ」

 いつもの狐目の青年に戻った雪之丞は、不意に呻いてかがみこんだ。
 その手が拾い上げたのは、篝の右耳を飾っていたチェーンピアスだ。
「おう、すまんな」
 篝はばつが悪そうに肩をすくめた。チェーンピアスは壊れてしまっていた。篝が怒り任せに耳から引き千切ったからだ。銀は負の気を増幅させ、使いようによっては封じ込めもする。篝の『咎丸』としての力を封じるは、主に右手の甲の梵字じみた呪印だが――雪之丞が贈った銀のピアスもまた、呪を助けているのだ。
「俺としたことが、頭に血がのぼってしまった」
「お前の悪い癖だ。まあ、頭に血がのぼったのはお前だけではないが」
 雪之丞は、無残に壊れたピアスを、狐目をすがめて検めた。
「大したことはないようだ。直してやろう」
「本当か?」
「お前が謝るとは、余程大切にしてくれていると見た。私はそれに応えたいのだ。……薬壺が壊れてしまったのは私のせいでもあるのだしな」
「それもそうだ。直せ」
「手のひらを返すとはこのことか」
 ふたりは同時に、フンと鼻で笑った。

 そうして酒を呑みながら、今宵が満月であったことを、ようやくふたりは思い出す。
 最早血生臭い戦いがあったことを示すのは、壊れた家具と、雪之丞の額と篝の頬で結晶になっている、負の気を帯びた血のみであった。
 これだから、満月の夜はろくなことにならぬのだ。




<了>
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
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東京怪談
2003年10月17日

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