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『甘い誘惑 』
冴木・紫1021)&真名神・慶悟(0389)

 その部屋に生活感はなかった。
 と、言うより正確には何も無い。
 部屋の中央に四足の折り畳みテーブル。部屋の隅にはコードがごちゃごちゃと蟠ったノートパソコンが裸で転がっている。そしてパイプベッドに冷蔵庫。パソコン同様床に転がされている灰皿。それだけがこの部屋にある家財の総てだった。6畳ワンルームの部屋が妙なほどに広く見えるのはその物のなさのせいだ。
 尤も備え付けのクローゼットというミステリーゾーンがどうなっているのか、それは誰にもわからない。
 何も無い必要最低限のものしかない質素な部屋。
 その箱の中にいっそそぐわないほど豪華な一対。
 テーブルを挟んで向き合う一対の男女は、一対と言うには雰囲気が違いすぎたが、そのアンバランスさは身なりに起因するものであって、それぞれの価値――つまりは外見上の、だが――がつりあわないと言うわけではなかった。
 金に近いほどの茶色の髪に赤いスーツ、派手な一見しただけなら夜の街でサービス業に勤しんでいそうな整った顔立ちの男。
 ほっそりとした肢体をかっきりとしたスーツに包み、やはり細い髪を結い上げた硬質な印象ある女。一見しただけならキャリア風味だ。
 向き合ったまま沈黙する二人の間には、微妙な緊張感があった。
「さあ、どうする?」
 男が口火を切った。
「……一寸待って考え中だから」
 一拍の間を置いて女が答える。真っ直ぐに見据えてくる男の視線から目を逸らし、微妙に身を引きながら。
 男は胸ポケットを探り、煙草を取り出す。迷わすそれを口に咥えた男は続けて取り出したライターでその煙草に火を灯した。
 明るい部屋の中でも、呼気を吸い込む都度点滅する煙草の先端はよく目立つ。先端に蟠る白い灰の内部にある火種は、呼吸の都度強く瞬き、そして白の中にまた落ち着くを繰り返す。
 幻惑でもするかのように。
 幾度かその幻惑を女の視界の端に見せ付けた後に、男は煙草を口から離し、部屋に転がっている灰皿に先端の灰を落とした。
 ポロリと崩れる灰が今は空だった硝子の灰皿にくっきりと白い染みを作る。
 そして男は微かに笑んだ。
「俺としてはこのまますんなり落ちて欲しいんだがな?」
 からかうような声だった。
 この箱の中には男の外は女しか居ない。そのからかいの行く先を明言する必要など無いだろう。
 そして、そのからかいの中に含まれる微かな苛立ちと、焦りの行く先もだ。
 女はむっとしたようにその柳眉を寄せる。
「女を急かす訳? 野暮なことするわねー」
「急かしてる訳じゃないがな。俺はもう行動した。後はあんたの決断を待つだけなんでな」
「余裕ぶってるつもりな訳? それにしちゃ煙草の減りが早いんじゃないの?」
 火を点けてからほんの僅かの間に男の煙草は根元までが灰になってしまっている。吸い込みが激しくなければそんな事にはならない。それは確かに焦りの現れだろう。
 図星を指され男はチッと舌打ちを落とした。
「……まあ、急かしてないとは言わないがな」
「がな?」
 急かされた女は余裕を保つ為だろう、即座に男の語尾に反応する。男はそれを読んでいたかのようにやはり即座に言葉を返した。
「ここで女は関係ないだろう。俺は男を……いや」
 男は一旦言葉を切った。そしてすっと目を細め、意味ありげに女を見つめる。真摯でありながらどこか見透かすようなその視線に、女は居心地の悪いものを感じて表情を険しくした。
「……なによ?」
 ふっと男が笑う。
「あんた以外の相手を急かしたりはせんさ。そもそもこんなやりとり、他の相手とする筈がないからな」
「それはお気の毒ねー」
「あんた次第で、確かに『気の毒』にもなるだろうな」
 今後も含めて、な。
 二本目の煙草に火を点け、男は言葉を切る。深く吸い込んだ紫煙を吐き出しながら、男は殊更に言葉を強めてその名を呼んだ。
「――紫」
 と。
 女、冴木・紫(さえき・ゆかり)をそう呼んだ男の名を、真名神・慶悟(まながみ・けいご)といった。



 紫にとってその誘惑は抗いがたかった。
 うんと、頷いてしまえば。このまま流されてしまえば自分のものに出来る、今目の前にある総てを。
 だがそれは一つの敗北をも示している。
 この男に、慶悟に敗北する。それは彼女の矜持とそして都合にとってあまりありがたくない事態だ。
 それでも、その誘惑には抗いがたい。最後の意志を動員して話をはぐらかし、何とか持ちこたえてはいるが。
 いつまで抵抗できるのか、それは保証の限りではない。
 紫は思わず腰を引いた。決して広くない密室の中、背中に当たったパイプベッドの固い感触が酷くリアルで生々しかった。



 慶悟は引く気はなかった。
 この計算高く横暴な女にこんな交渉は無謀だ。そんなことは分かっている。分かっているが、分かるまで付き合ってきたが故にこの交渉に勝機が確かにある事もまた慶悟には分かっていた。
 いつもいつも折れてきた。
 翻弄されるばかりで溜息を吐かされるばかりで、いつも『負け』に甘んじてきた。
 だがいつまでもその立場が続くのは遠慮したい。男が従順なままで居るなどとこの女に信じ込まれるのだけは絶対に御免だった。
 牙があるのだ、爪もある。使わないでどうする。増してこの女相手に優しさだけでは対応しきれないのは確実だ。
 紫が後ずさった。
 それは勝利への一歩目だと確信して、慶悟はすっと身を乗り出した。紫との間にあるテーブルが身体に触れ、コトリと小さな音を立てた。



「あげられないわよ、わかってんでしょ?」
 ふんと慶悟はふてぶてしく鼻を鳴らす。
「俺のものだろう」
「誰が決めたのよそんな事」
「俺だ」
 言い切って、慶悟はニヤリと笑う。
「そして『うん』と言えばあんたのものだ」
「う……」
 紫の目が揺らぐ。
 そうだうんと言ってしまえば確かに自分のものだ。同時に慶悟のものにもなってしまうが。
 葛藤。
 誘惑に揺らぎしかしまだ躊躇う女の弱さを、慶悟は敏感に感じ取った。
「そうか……」
 慶悟は煙草を灰皿に押し付けた。そしてその手で二人の間を別っていたテーブルを押しのける。紫が更に後ずさる。
「なら、仕方ない。こんな手は使いたくなかったがな」
「ま、真名神?」
 慶悟の目に灯った獰猛な光に、紫は流石に身を竦ませた。
 何が起きるのか、予測が出来るようで出来ない。いやしたくない。
 誘惑はそこにあり、そしてこうして更に攻め立てられて、紫は竦みあがっていた。ダメだと思うのに抗えない。抗っていながらそれが途方もなく馬鹿馬鹿しい事のように思える。
「ならこれでどうだ?」
「な……」
 ガタン。
 大きく、床が鳴った。






「パイナップル丸ごと一つに桃缶だ!」
「売ったぁ!」
 床に叩きつけられた桃缶の上に、慶悟の嘗ての恥ずかしい過去『激写! 褌写真!』が重ねられた。






「ずるいわよ絶対。パイナップル丸ごと一つなんてもう何年もお目にかかってなくてもう愛しくて仕方なかった所に、桃缶なんて保存食出すなんて。桃缶よ桃缶、わかってる? 大昔は病気の時にしか食べられなかったっていう世紀の大ご馳走よ?」
 そんなの逆らえるわけないじゃない。
 ぐちぐちと文句を落とす紫は、しかしその胸にしっかりとパイナップルと桃缶を抱えている。
 慶悟は苦虫を噛み潰したような顔で紫を一瞥した。
「写真で人を脅すのはずるくないのか?」
「資源は有効利用しなきゃねー」
「まあこれでもう有効利用はさせないがな」
「うっわ可愛くない! く。なんで桃缶とパイナップルに負けたのかしら絶対電話代とかのほうが長い目で見ると特なのに」
「自分で払え!」
 後生大事に写真を懐に仕舞いこみながら、慶悟は怒鳴った。
 この写真があったおかげで数か月分電話代は払わせられるわ、食事はたかられるわ、旅費タダをかけた勝負には負けるわ、慶悟は散々な目にあったのである。
「やっと枕を高くして眠れるな」
 晴れ晴れとした慶悟とは裏腹に、紫は暗雲を背負い始めていた。
「……来月電話代どうしようかしら」
「まあそう落ち込むな」
「払ってくれるの!」
「誰が払うか!」
 ぱっと顔を明るくする紫に、慶悟は即座に怒鳴り返す。しかし写真を取り戻して上機嫌の慶悟の怒りはそう長くは持続しなかった。紫が赤貧な事情も理解しているし、その理由に関して言えば多少同情的でもあるのだ。
 慶悟はポンポンと紫の肩を叩いた。
「まあ……飯なら奢るぞ」
「ホント?」
「ファーストフード程度でいいならな」
「いいわよこの際! さー、そうと決まったらさっさと行くわよ」
 即座に立ち直った紫は慶悟の腕を取ってぐいぐいと引いた。慶悟も肩を竦めて立ち上がった。
 なんだかんだといいながら自分もまだまだ甘いと思いながら。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
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東京怪談
2003年10月14日

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