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『銀の羽根 』
エリアス・ベネディクト1080)&如月・翡翠(1783)


 あまりにも想像とかけ離れた『占いの館』であったために、如月翡翠はただ呆然と立ち尽くし、大きな緑の目をぱちくりさせるのだった。
 噂の占い師は、こんな、築70年は経っていそうなアパートに住んでいて、尚且つその一室で占いをやっているというのだろうか。
 翡翠の前にそびえる建物は、燦燦と降り注ぐ晩夏の日光の下で、しっとりと湿った佇まいを擁していた。古い建物だったが、その様相は不気味というよりもむしろ不可思議なものであった。
 ここに住む占術師の占いは怖いほどによく当たるという噂を、翡翠は友人から聞いていた。だがその友人もまた、友人から噂を聞いただけで、自分はその占術師に会ってもいなかったのである。都市伝説じみた話ではあったが、その友人は嘘をついていなかった。翡翠には、わかってしまうのだ。友人が知っている占い師の住所も、こうして辿りつく前に、真実だと知っていた。
 今翡翠の目の前にあるのは、おおよそ『占いの館』とはかけ離れた佇まいではあるが――ここで間違いないのだ。この建物の1階、西日も東日も入りにくい一室に、その占術師は住んでいる。
 エリアス・ベネディクトはここに居る。


 恐る恐るノックをすると、古いドアが少しだけ開いた。
「おや」
 さらりとした銀髪と、蒼い瞳がまず片方だけ、ドアの隙間から現れる。
「お客様ですね。道には迷われませんでしたか? お待ちしておりましたよ」
「えっ、……予約とかしてないんですけど」
 もごもごと囁く翡翠に、若い占術師は静かに微笑んだ。
「中へどうぞ」
 ぎい、とドアは大きく開き――
 エリアス・ベネディクトの姿を露わにした。
 ほっそりとした黒装束の青年で、一見すると頼りなげではあった。だが、その瞳に宿る光はひどく不可思議なものだった。しっとりと湿った、そう、この建物そのものが持っているような――
 だが、翡翠がその光を覗きこむことはなかった。彼女は室内の様相を見て、またしても呆気にとられていたからである。

 古びた部屋の中に生活感はなく、ただ木製の机と椅子が中央に置かれていて、黒いビロードが窓もろとも壁を覆っていた。その他にあるものといえば、ところどころが黒ずんだ真鍮のランプに、占いの道具くらいだ。ひどく質素な『店内』であった。
「おかけ下さい」
 ドアが静かに閉じられた。
 翡翠は戸惑いながらも、他に見るものもすることもないので、エリアスの言葉に従った。
 机の上に置かれているのは、銀の小皿、水が入った瓶だ。瓶のガラス面に、銀色の魔法陣じみた紋様が描かれていた。その紋様を見るのは初めてではない気がして、翡翠は首を傾げたが――顔を上げた途端に、そのデジャ・ヴュの謎は解けた。壁を覆う黒い布に、ひどくうっすらとその魔法陣が描かれているのだった。目を凝らさなければ気がつかないほどに薄いものだ。翡翠に見た記憶はなくとも、翡翠の意識の中にはその紋様が焼きつけられていたのだ――
「始めましょうか」
 音もなく翡翠の向かいに座ったエリアスは、翡翠に何かを尋ねることもせず、銀の小皿に瓶の中の水を注ぎ入れた。
 ――あたし、まだ何を占ってもらうか言ってないんだけど……。
 そんな抗議じみた疑問を、翡翠は口にすることが出来なかった。ただこくりと生唾を飲んで、エリアスの占術の行方を待った。

 銀の小皿に満たされた水は、それ自身がきらきらと光を帯びているようだった。
 この部屋に目立った光源はない。ランプに火は灯されていない。
 黒い布の繊維の隙間から漏れてくる、晩夏の日差しだけが光なのだ。
 エリアスがしずかに小皿を動かした。小皿の中の光る水は、くるくると渦を巻き、翡翠の瞳と金の髪を映し出す。水面は確かにくるりくるりと揺れているのに、映し出された瞳と髪は、一筋も揺らぎはしなかった。
 翡翠は言葉を失った。
 エリアスが最後に、瓶に残った水を一滴、小皿に落としこんだ。
 ぴぃん、と飛沫が跳ねあがり――
 翡翠色の瞳、光のような金髪の像が、消えた。

「ふむ」
 エリアスは小皿を見つめながら、わずかに眉を寄せた。
「……あなたは、すこし失敗が多いようですね」
 翡翠はぎくりとして、口を真一文字に結び、姿勢を正した。
「ぼんやりしているわけでもないのに、気がつくと他人の方が先に動いている」
 ぎく。
「その結果慌ててしまって、失敗してしまうのですね」
 ぎくり。
「水難の相ならぬ高所難の相が出ておりますが、崖か階段から落ちて大怪我でもされましたか?」
 ぎくッ!
「あう……えと……」
「いえ、言いにくければ言わなくてもよろしいですよ」
 エリアスは大汗をかき始めた翡翠の顔を見て、ふわりと微笑んだ。
 だがその笑みが、ふと消えた。

 小皿の水の上、くるくると回る羽根を見たのは、エリアスだけだ。

「白銀の――」
「え?」
「お客様」
 見上げたエリアスの視線が厳しいものになっていて、翡翠は戸惑った。半ば睨むような目だったからだ。
 この腕のいい占術師がつぎに見抜いてしまった真実は――
「失礼ですが、信仰はお持ちですか」
 突然の重い質問に、翡翠は思わず小さくなった。
「はい、まあ……たぶん」
「聖書にはこうあるはずですよ。占いを信ずるということは、運命を司る神を信用しない行動であると。僕には翼が見えませんが、あなたは天使のように清らかな方です。その心を占いなどで汚してはなりません。お引き取り下さい」
 青褪めた顔と言葉に、翡翠はひどく驚いた。
 まだ代金を払ってはいないが、占いははじまったばかりだ。これからの仕事運や自分の進むべき道、恋愛、友情、翡翠には示してほしいことが山ほどあった。だからここまで足を運んできたのではないか。エリアスの占いは噂通りに当たりそうであるということに、先ほどさんざん過去を見抜かれたことで期待が大きくなっていた。
「そんなぁ! あたし、そんなの気にしません! それに神様はそんなに心狭くないですよぅ!」
「お代は結構です。お願いします。お引き取り下さい」
 エリアスの態度は頑なで、焦ってもいるようだった。彼は翡翠を急かしたが、決してその身体に触れようとはしなかった。
 翡翠は銀の小皿から水がこぼれるのを見た――


「もぅ! せっかく来たのにー!」
 結局店を追い出されてしまった翡翠は、古びた建物に向かってきいっとばかりに文句を吐くと、地面を一度蹴りつけた。
 帰り際に、あの若い占術師の心を垣間見た。
 エリアス・ベネディクトは、如月翡翠の真の姿を見てしまっていたのだ。
 こっぴどく怒られて、しかし翼を取り上げられることなく、天から堕とされてしまった御使いの姿を見たのだ。きっと、「しばらく地上で反省するように!」という燃え上がる『声』も聞いたのだろう。
 しかしだからと言って商売を放棄することがあるだろうか。代金は払う気でいたし、翡翠は占ったもらうためにここに来たのだ。散歩がてらちょっと気が向いたから、という軽い気持ちだったわけではない。
 しばらく頬を膨らませていた翡翠だったが、不意に溜めていた空気を吐くと、こそこそと建物の中に戻っていった。
 食い下がろうというつもりではない――
 あの水の入った瓶を見たときのデジャ・ヴュのように、気になることがあったからだ。
 エリアスの心を見たときに、視線の片隅に残った狂気と『赤』。翡翠がそれに気がついたとき、エリアスは心を閉ざしてしまっていた。
 だが独りきりになった今なら、エリアスの心は無防備だ。独りで居るときでさえも心に鍵をかける者はめったにいない。
 翡翠はちょこちょこと小走りに、先ほど追い出された一室の前まで行った。

 古いドアだ。閉まっていてもわずかに隙間ができている。
 翡翠は息を殺して、建物の古さに初めて感謝しながら、その隙間から中を覗きこんだ。

 見えたのは――
 血に餓えた――
 天の御使いを恨み恐れる――
 夜の牙と瞳であった。

「……あたし、そんな力持ってないよ」
 建物を飛び出し、ひなびた通りを走りながら、翡翠は呟いた。
「あたしたちは、やる仕事が決まってるんだよ。あたしは――ちがうのに。あたしはただ――あなたに、どうしたらいいのか聞きたかっただけなのに……!」
 泣きたいのか怒りたいのかもわからずに、翡翠は走った。
 その背のふわふわとしたちいさな翼が光を帯び、白銀の光が身体を包み、光とともに翡翠の姿が消えたところを、見ていた者はひとりだけだ。



「ほんとにここだったの? 翡翠ちゃん」
「う、うん……」
「なんか、ずっと誰も住んでなかった感じだよ」
「翡翠ちゃんてば、ドジだからなぁ。住所間違えたんじゃない?」
「うぅ、そうかな……そうかも……」
 心の広い友人たちは、翡翠を責めることはなかった。今にも崩れ落ちそうな廃屋を出て、彼女たちはすでに、渋谷の有名な占いの店へ行こうと話しだしている。その話の輪の中には入れずに、翡翠は悶々としていた。住所は、ここで間違いないのだ。
 ここ数週間、翡翠は占い好きな友人を集め、エリアス・ベネディクトの店へ連れて行こうと考えていた。ようやくその日が訪れ、翡翠はエリアスの占いがどんなに不思議で綺麗なものであったかを話してきかせながら、再び古い建物を訪れたのだが――しっとりと湿っていたこの建物は、今はすっかり干上がっているようにも思えた。晩夏の日差しを浴びて、かっかと火照っているのである。
 エリアスが銀の小皿に水を注いだあの部屋には、誰もいなかった。
 ドアは開け放たれたままになっており、まるで翡翠に「ここには誰も居ない」ことを主張しているかのようだった。黒い布も、机も椅子も、真鍮のランプも消えていた。
 銀の小皿と水の入った瓶もない。
 あの青年は、霧のように消えてしまった。
「汝占うことなかれ、かぁ……」
 ぽつりと呟いて、ふと顔を上げると、友人たちは随分と先に行ってしまっていた。
「あぁ、まって!」
 翡翠は危なっかしい足取りで走り始めた。彼女がマンホールの蓋の凸凹に躓くのは間もなくである。

 ――彼女の翼から羽根が抜け、ひらりふわりと舞い上がった。




<了>
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2003年10月02日

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