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『影追い幻影 』
セレスティ・カーニンガム1883

 ただでさえ、お金の流れの不安定なこの時代――それでも青年の、セレスティ・カーニンガムの仕切る財閥には、大した影響はないのだが。
『セレス様は、ここの所、お疲れのようですから』
 疲れている、という自覚こそなかったものの、それでも久方ぶりに訪れていたのは、イタリアのシチリア島にある、広い、広い、広大な別荘であった。そういえばこの休暇を勧めてきたのも、そう言ってセレスのスケジュールを調整してくれた、今回も旅を共にしているあの秘書であっただろうか。
 財閥そのものに危機はなくとも、その周囲にある財閥や企業には、容赦なく不況の波が打ち付けている。私的な想いと公的な面と、そうして全てへの体裁とが激しく交錯する中、どこを救い、どこを捨て、どのようにその周囲と付き合っていくかを考えるのが、セレスの最もな仕事の内の一つとなってしまっている程に。
 しかし、そんな日常からは解放された、久しぶりの、ゆるりとした時間の最中。
 セレスは珍しくも、少しばかり、運動もしなくてはなりませんからね――と、渋る秘書を説得し、ここまで出てきていた。
 普段は車椅子で生活を送り、これといった運動もしないセレスにとって、それは確かな事実であり、そうして同時に、尤もな言い訳でもあったのだ。
 外に、出たいと。
 まるで波の声に呼ばれるようにして、こんなに強く思ったのは、久しぶりの話であったのだから。
 夕食の後嗜んだワインの香りに、波の音が、いつもより愛しく感じられてしまって。
 三十年もののワインに隠された、あまりにも懐かしすぎる――あまりにも突然の再会に、運河の街の海辺の香りを、少しでも思い返してみたかったのだ。
 ここは、シチリアだ。あの想い出の街からは程遠い、島の町。
 しかし、それでも。
 世界の海は全てを抱きしめ、空のように、一つに繋がっている。水は永遠の流転の中で、様々な想いを、出来事を、世界中へと張り巡らせて行く、全ての使者のような存在なのだから。

 闇の夜の透通った静寂に歩みを進めるうち、セレスの突く杖が、ひたり、と砂地に沈み込んだ。ようやく辿り着いた海辺には、うっすらと懐かしい香りが広がっている。
 シチリアの海は、どこまでも、どこまでも蒼いと。
 昼間、別荘の三階から窓越しに海を眺めながら、付き人代わりの秘書が、感慨深気に教えてくれた言葉。セレスにしてみれば、それは、あの頃からずっと変わらぬ、唯一不変の事実であった。
 あの頃――そう、あのワインが思い出させてくれた、あの頃の、あの時代。天高く太陽の昇る、古代の広場が賑やかな、水の都。
 ふと、思い返す。
 あの時も確か、海を、見ていた。
「懐かしいな」
 ふと自嘲気味に、笑顔を浮かべてしまう。
 ゆるりと浜辺を歩きながら、月の光とその影を暖かく感じる。
 こんなにゆっくりと、水の歌を聴いたのは久しぶりの事ではないだろうか――。
 杖を、突く。
 あまり丈夫でない足を、この杖はいつでも確りと支えてくれる。靴底越しに感じられる砂浜の感触に、星砂を巻き上げる風の光が思い起こされる。セレスの瞳には、薄暗い月の光が柔らかく届けられていた。
 しん、と静まり返る、闇の世界。
 まるで世界には、
 ……私一人なのではないかと、
 ふと陥る錯覚に、セレスは一瞬、その歩みを止めていた。海の音の聞える方を見据え、その輝きを心に蒼く想い描く。
 ――冷たい、夜風に、
 その風に乗せられて、セレスの銀髪が、ふわり、と星光のように舞い踊る。
 そうして届けられるは、あの海と同じ、ほのかに漂う、海の香りであった。
 それは、あの海からこの海へと、永遠流転を繰り返す水の、香り。
 それは、あのワインの香る、ヴェネツィアの海の香りと、こんなにも、変わらない。

 本当の目的など、そう色鮮やかには覚えてはいない。しかし確かな事は、その日は観光と称し、真昼のサンマルコ広場までやって来ていた点であろうか。ヴェネツィアを時々襲う洪水に、朝、サンマルコ広場が一浸りしたその日の真昼、鐘楼の影の黒さに、ほの甘い香りが残る頃、
『Good afternoon.――よ。お前さん、一人かい?』
 太陽の光に疲れを覚え、やはり散歩は夜にしようかと思い始めた丁度その頃、セレスは一人の男に、英語で声をかけられていた。やおら振り返り、生活を送る上で不自由しない程度に覚えていたイタリア語で、返事を返す。
 相手は、明らかに現地人であった。
『Buona Sera.――ええ、一人ですよ』
 男曰く、こんな時間にこんな場所で、ただ海を眺めるのみのいかにも貴族風貌なセレスに、ちょっとした興味を抱いたのだと言う。
 二人の――セレスとその友人との出会いは、ただそれだけの、特筆すべき点もないようなものであった。しかし、そんな二人が打ち解けるまで、大した時間はかからなかった。素性も良くわからぬ、いかにも健康そのものそうな血の気の強い青年と、繊細、という言葉の良く似合う、長い銀髪のたおやかな青い瞳の青年、セレス。それほどまでに相違える二人の間に、どうしてあれほどの友情があったのか、セレスには未だに、それがわからずにいるのだが、しかし、
 彼と出会って初めて、鐘楼(カンパニーレ)の影を追いかける屋台の――??影追い?≠フ話を聞いた。昔ワインがサンマルコ広場の屋台で売られていた頃、
『ワインは、日当が嫌いなんだ』
 だからワインの屋台をあの大きな鐘楼の影にあわせて動かしたのだ、と語ってくれた、ヴェネツィアで出会ったあの旧友。だからここで飲むグラス入りのワインを、
「影を飲む、か――」
 影を飲む、と言うのだと。
 そんな話を聞かせてくれた、不意に思い出されたその声音に、セレスはそっと、言葉を重ねて呟いた。
 懐かしの想い出に、あの日は太陽の光に抜けるように青かった、今は闇色の空を振り仰ぐ。
 水の揺蕩う音に、そっと瞳を閉ざした。
 ――水の都の??影追い?≠ヘ。
 太陽が蒼い空を突き抜ける輝きと、鳴り響く鐘楼の旋律に鳩達の羽ばたく音が彩りを加えるその最中、ひっそりと、その賑わいから身を隠すようにして入った裏通り、薄暗い細い路地のバー――どこか紙一枚違えた世界に迷い込んだのではないか、そんな印象を受ける場所で、初めて経験したものであった。
 彼に連れられるままにして、バーのドアを開いた。途端全身に感じられたのは、窓からうっすらと入り来る日の光などではなく、もっと安っぽい、ランプの照らし出すような、古く、暖かい光の印象。
 可も無く、不可も無く。そんな言葉が相応しいようなワインの香りに、立ち止まるセレスの手が、そっと、引かれる。
 カウンターに座らせられる直前に、思わずセレスは、口を開いていた。
『昼間から――昼間から、飲むつもりですか?』
 しかし、それでも。
 ここの影は、美味しいのだと。
 少しばかり渋るセレスの背を叩きながら、彼はカウンター越しのマスターに??影を二つ?≠ニ微笑んだ。
 やがて間もなく、マスターの手によってワイングラスにワインが注がれる頃には、セレスも椅子の上に腰を落ち着け、深く考えるのを止めていた。その一方、渋々、ではないが、気が向いているわけでもなく、少しばかり複雑な気持ちで、ワイングラスを手に取ると、
『育ちは、昼間だと言うのにね』
 かん高く、グラスの指先で弾かれる音が響き渡るのを聞いた。先ほどまでの明るい声音は消え去り、まるで、この小さな闇の空間に取り込まれてしまったかのようにどこか淡々と語る、友人の言葉。
『しかしワインになってしまってからは、日当ではただ生きる力を奪われるのみだ。闇夜の中でこそ、自由に、生き生きと――生きていく事ができる。そうして始めて、輝きは、ルビーのような色に。俺はそう感じたね』
 俺はこれでも、ワインとの付き合いは長くてね、と??影?≠?一煽りする。大きく息をつき、なぁ、お前もそうは思わないか? と、友人はセレスにグラスを勧め、もう一度、その肩を叩く。
 促されるかのようにして、ようやくセレスもグラスに唇を当てた。
 その様子を見つめながら、更に友人は遠く言葉を紡ぎ続けていた。
『人だって、そういう所があるだろう? 大人になってみて、子どもの頃は怖かった夜が、こんなにも――昼でも夜が恋しくなるほど、愛おしくなる。昼間は――どうしても、あれやこれやとしなくても良いことまで考えてしまう。だが、』
 だが、
「だが――夜は違う」
 ワインの香りが、感じられた――思った刹那、目の前に広がる水の香りに、不意に意識を、現実へと引き戻されていた。
 暗闇に過ぎった想い出の幻灯を思い起こしながら、果てしなく遠いであろう、街の香りを感じる。無垢な波のざわめきに、あの頃からの、変わらない時間を錯覚してしまう。
 そんなものは、ありえるはずがないというのに。
 決してありえるはずが、ないというのに。
 それでも、
 この海の香りに、運河の香りが、混じりこんだような気がしてしまって。
 セレスは静かに、首を振る。
 ――ここは、シチリアだ。
 ヴェネツィアからは遠く離れた、島の、町。
 しかし、それでも。
「良く言ったものですよ」
 幻影を振り払うかのように呟いた。
 老いという名の宿命に、もう決して会うことはできない友人の言葉に、あの時飲んだ、いつもよりは庶民的なワインの味が思い返される。そこはかとない甘さと、少しばかり強すぎる酸味。それでもあの??影?≠?、素直に美味しいと感じる事ができた、その最大の理由は。
 ――このバーは、まるで夜みたいだろ?
 昼間から隔離された、夜の部屋での束の間の休息時間。あの影を、もしサンマルコ広場の光で飲んでいたとするなれば、果して美味しいと感じる事はできたのであろうか。
「影追い、か」
 そう言えば、次の滞在先はまだ決まっていないのか――。
 ふと、そんな思いが脳裏を過ぎる。
 あの秘書は、かなり無理やりスケジュールを調整しながら、昼間には多少の仕事を残したものの、セレスに長い休暇をくれていた。しかもその行き先を、セレスに全権委任して。

 夕食の時嗜んだワインは、秘書曰く三十年ものの、かなり良いワインだったと聞く。それは確かに、セレスの心に直接訴えかけるような何かを持っていたのは事実なのかも知れない。
 しかし、その尤もな理由は。
 うっすらと感じられた、あの??影?≠ニ同じ香り。どこかその面影を残したような雰囲気に、自然と呼び覚まされた、過去の記憶。
 水の古都。水に浸った広場。張り巡らされた運河。そうして、海の香りと――
「……全く、ゆっくりしようじゃないかと仰ったのは、キミではありませんか」
 あの日、あのバーで、そう言って微笑んだ、ワイン職人の友人。
 しかし、
 しかしキミは、私にゆっくりと散歩もさせてくれないのですね。
 その過去は、色あせる事もなく。忙しい日々に、沈みがちではあったけれど。
 こんなつもりはなかったのだ。ただ海の傍で、ゆったりとした時間の流れを、じっと感じていたかった。
 過去を、思い返すなどと。
 そんなつもりは、毛頭もなかったのだ。
 ――それでも、
『美味しいったって、そりゃあ、当然だろ? このワインは、俺が作ったワインなんだからさ』
 あの日見習いだったワイン職人は、一人前の技を継ぎ、家業の後継者となり――そうして、立派なワインを遺していった。
 そのワインがこの別荘に眠っていたのは、
 キミの策略、ですか。
 呟きを溜息に変え、セレスは遠くの水平線へと想いを巡らせる。この向こうには、ヴェネツィアがある。明日も誰かが影を追うであろう、あの水の古都が。
 ふと、疑問が心に思い浮かぶ。
 あの場所も、ここと同じく変わらずにあるのだろうか。あの海もこの海と同じく、太陽の光には蒼く輝くのであろうか――。
 途端月の光が、あの日のランプの光に重なる。少しだけ赤味を帯びた、安っぽい、バーの明かり。
 セレスの杖を握る手に、力が込められる。
 ひっきりなしに思い出される、あの友人の思い出に、
 ――ああ、やっぱり。
 次はキミに、会いに行こうか。
 もうその姿を見る事は、決して、叶わないけれど。
「もう一度影を追うって言ったら……キミは、ついて来て下さりますか?」
 真昼の中の小さな夜で、少しだけ安っぽいワインを嗜みながら。ほんの小さな窓越しに、水の流れる音を聞いて。
「次の行き先は――ヴェネツィアだ」
 顔を、上げる。
 まるで決意を告げるかのように、セレスは言葉を口にした。
 そうしてもう一度、影追いに行こう。
 ――あのワインを造った友人の、過去という名の影を追いに。

 セレスは、知らない。
 空に浮かぶ上弦の月が、ほんのりとワインの色を帯びていた事を。
 しかし、気がついてはいた。
 この夜がどこか、あの日と強い結びつきを持った夜である事を。

 そうして月は雲に隠れ、夜の世界に影が注す。
 しかし水面に揺れる星の光はそのままに、延々と続く、海の想いもそのままに――。
 ――やがて。
 微笑んだ青年の影が、波の音へと溶けて行く。
 遠く、遠く、
 水辺の香りに、優しい足取りは、そのままで――。


Finis



☆ Dalla scrivente  ☆ ゜。。°† ゜。。°☆ ゜。。°† ゜。。°☆

 まず初めに、お疲れ様でございました。
 こんばんは、今宵はいかがお過ごしになっていますでしょうか。この度お話を書かせていただきました、海月でございます。
 今回はご指名の方、本当にありがとうございました。
 またセレスさんを書かせて頂く機会をいただけて、本当に嬉しかったです。更に夜の水辺と言いますと、あたしもものすごく好きでして……。海にしろ運河にしろ、綺麗な水辺はどこか心を落ち着かせてくれるような気がします。ただ最近では、海も運河も川も水質汚濁が進みすぎているような気もしますが……(汗)
 シチリアの海は、今でも本当に蒼いのだそうです。ヴェネツィアのサンマルコ湾は、残念ながらさほど綺麗ではないようですが、広場は本当に美しい場所のようです。一度やはり、実際に見に行ってみたいのですが……影追いもいつかは、と思っております(笑)
 では、短文、乱文となってしまいましたが、この辺で失礼致します。
 次ぎはシナリオノベルにて、宜しくお願い致します。

01 ottobre 2003
Lina Umizuki
PCシチュエーションノベル(シングル) -
海月 里奈 クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年10月01日

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