「美味しかったわ」 後から店を出た兄を振り返り、ウィンは感謝を込めてそう述べた。無愛想ながら首肯して、ケーナズウィンの謝辞を受ける。 秋風は夜になればそれなりに涼しく、ウィンは肩に羽織ったケープをしっかり掛け直した。 「そういえば、今日のリサイタルでは何を演奏するのかしら」 待ち合わせることは前々から約束していたから、チケットは二枚とも兄が持っていたのだ。 「お母様が、『あなたたちにぴったりの選曲なのよ』って言っていたけど」 「そんなことを言っていたのか」 それを聞くなりケーナズは眉目を顰め、眉間に皺を作った。 「何?どうかしたの?」 「あの人らしい、というべきか」 「お兄様、一人で納得しないでくださらない?」 重ねて言うと、ケーナズは渋々の体で懐から封筒を取り出した。白地に金色で、リサイタル会場の名前が示されている。 封筒の中に指を入れて、中から小ぶりのチケットを取り出すと、ケーナズはそのうちの一枚をウィンに渡した。 「Debussy et Ravel……あら」 印象派として知られるドビュッシーとラヴェル。日本人でも、名前を知っている者は多いだろう。義母の趣味をうかがわせる選曲でもあった。 だが、ウィンが声を上げたのは、タイトルの下に小さく書かれた曲目である。 「Musics from Ma Mere L'oye and petite suite popur piano seul」 日本語に訳すと、「マザー・グース」に「子どもの領分」。二人の音楽家が、子どもたちのことを考えながらそれぞれの形に作りあげたピアノの連弾曲である。 「これが、私たちにぴったりの選曲、っていうことは」 「まだまだ私たちは子どもだと言いたいんだろうな」 片手をポケットに突っ込んで、兄はさっさと歩き出した。遅れないように足を速めて追いついて、「子ども」と言われた時の兄の顔を思い出して、ウィンは思わず笑ってしまう。 「何を笑っている」 「楽しみだな、と思ったの。私たち、昔良くピアノを聞かせてもらったでしょう?」 目ざとく咎めたケーナズに、ウィンはにこやかに笑顔を返した。 そして子どもだった時のように、二人は大好きな女性のピアノの音色を耳にするべく、彼女のもとへと向かうのだった。